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笨 媽ほんま (2)

文・速世未生/絵・ざくろ

* * *  2  * * *

 伴侶を亡くした女王は、何事もなかったかのように、いつもどおり暮らしている。あの日以来、哀しみを面に出すことはない。しかし、時折浮かべるその笑みは、鮮烈な紅の女王のものとは思えない、淡く儚い微笑であった。

 笨媽──鈴の心に昔の呼び名が響いた。

 笨媽。愚か者。何も知らないくせに。昔の主の美しくも意地の悪い顔が、鈴を責めつけた。

 ──梨耀さま。

 翠微洞で過ごした長い日々を思い出し、鈴は俯いた。あのときの己は、いったい何があんなに辛かったのだろう。鈴は不思議に思った。今、伴侶を喪った友に、何もしてあげられぬ痛みを抱き、胸が潰れるような気持ちでいるのに。
 采王に後で聞かされた。昔の主の悲しい過去を。そのときは、己の不幸さに身を沈め、聞き流していたことが、鈴の胸に今、まざまざと蘇った。

 扶王の愛妾だった梨耀は、政務を手伝うほどの才媛だった。王朝末期には王に諫言して寵を失い、翠微洞に追われたのだという。

(──翠微君は、同じ言葉を喋っていても、言葉が通じるとは限らない、と言っておられましたよ。私には、よく分かります……)

 話の結びに、采王黄姑はそう言って淋しげに笑んだ。そして、采麟揺籃と目を見交わした。いつも儚げな采麟が、いっそう淡く微笑していた。

 あのとき、鈴はただ黙して話が終わるのを待っていた。己を虐め抜いた昔の主の話など聞きたくなかったから。そうしているときも、梨耀は鈴の胸に現れて、鈴を笨媽と嘲弄した。もう、忘れてしまいたいのに。鈴はそう心で叫んでいたのだった。

 しかし、あれほど嫌だった昔の呼び名は、己の真実を露呈していた。そして──鈴は己を笨媽と呼んだ梨耀の心に、初めて想いを馳せていた。

 梨耀さまは、どんな想いで愛するひとに諫言したのだろう。どんな想いで愛するひとの許を去ったのだろう。そして、どんな想いで、愛するひとの、末声を聞いたのだろう──。

 政務を終えて、庭院の桜を見上げる陽子の細い背を見つめながら、鈴は切なく回想した。
 伴侶に寄り添い、幸せそうに笑っていた陽子。そんな眩しい笑みは、見守る者をも幸せにした。そんな陽子が、あの日、泣き腫らした顔で微笑んだ。そして、鳳が鳴いた日には、淡く笑って遠い伴侶を送ったのだ。
 思い返して、鈴はまた涙した。孤高の女王は、人前で涙を見せたりしない。たとえ、最愛の伴侶を喪ったとしても。見つめる華奢な背が涙で滲み、鈴は耐え切れずに目を閉じた。

 鈴の瞼の裏に浮かんでいた、楽しげに語らう陽子と延王の姿が、不意に梨耀と顔も知らぬ扶王に取って代わる。驚く間もなく、鈴の意識は、そのまま遠い才国へと飛んでいった。

 目を開けると、見慣れた景色が広がっていた。才国琶山、翠微君梨耀が住まう洞府。かつて鈴が仕えた主の住処、翠微洞であった。
 その、花咲き乱れる庭院に、一組の男女が立っていた。笑いさざめきながら、二人はゆったりと逍遥する。そんな二人の会話に、鈴は思わず耳をそばだてた。
「どうだ、梨耀。美しい離宮であろう?」
「誠に美しいところでございますね、主上……」
 楽しげな主の問いかけに、柔らかな声で答える美しい妾妃。王の隣に並ぶに相応しく、華やかに装った愛妾は、艶やかに微笑んでいる。

 まさか、この方が、梨耀さま──? 

 鈴は驚きを隠せない。梨耀は、鈴には見せたことのない、慈愛に満ちた目を、隣に立つ威風堂々とした男に向けていた。
 まるで、陽子と延王のように仲睦まじい梨耀と扶王。やがて梨耀は扶王に従って琶山の離宮を後にし、揖寧の長閑宮へと帰城する。そして、目を見張る鈴の前で、鈴の知らぬ梨耀が次々と現れては消えていった。

 艶麗に微笑んで伴侶に寄り添い、楽しげに語らう梨耀。執務室でも王の傍に侍り、きびきびと政務を手伝う梨耀。王の耳に甘言を入れて弄する奸臣を、厳しく糾弾する梨耀。道を失いかけた王に、必死な面持ちで諫言する梨耀。そして──。

「──梨耀」
 いつもの如く執務室に入った梨耀を、扶王は機嫌のよい声で呼んだ。常とは違う主の様子に、梨耀は足を止める。
「疲れているようだな、静養してはどうだ」
「──主上、私は疲れてなど」
「琶山がよい。お前はあの離宮を気に入っていたろう?」
 扶王は梨耀の言葉を遮り、否やを言わせぬ問いかけをした。笑みを見せつつも、扶王の目は冷たい。梨耀は唇を噛み、深く頭を下げて拱手した。
「──お心のままに」
 そのまま退出する梨耀に、扶王が目を向けることはなかった。
挿絵2
 恋しい男の心は離れていった。そうなることを知らずにいたわけではない。けれど、けれど。

 言わずにはいられなかった。

 愛するひとが道を失うことになど、耐えられなかった。身を挺しての諫言が齎したものは、追放という最も辛い罰。

 あのひとは、もう、私を必要としていないのだ──。

 愛されているという自信があったからこその諫言だった。王の寵を失ったからには、もう、傍で支えることも叶わない。
 壮麗な扉を閉めて、梨耀は力なく身を凭せ掛けた。ずっと張り詰めていた気が、緩んでいく。
 どのくらいそうしていただろう。梨耀は背筋を正し、立ち上がる。これが、最後。もう二度と開けることのない扉に向かい、梨耀は深く頭を下げた。そして、端然と踵を返し、歩き出す。梨耀は、通い慣れた王の執務室を去りながら、独り涙していた。

 鈴は息を詰めてかつての主のその様を見つめていた。いったいどこまでが真実で、どこからが夢幻なのだろう。鈴が己の目を疑いかけた頃、泣き濡れていた梨耀が毅然と振り返った。そして梨耀は、いつもの如く嘲弄めいた言葉を鈴に浴びせた。

「──笨媽。お前は知らぬだろう。同じ言葉を喋っていても、言葉が通じるとは限らない」

 語気鋭いその言葉は、鈴を叩きつけ、王宮から追い払った。その衝撃に思わず目を閉じて、もう一度開けたときには、梨耀は鈴がよく知る顔をしていた。
「──旅芸人の一座にいながら、芸のひとつもできないのかえ」
 嘲笑する声に鈴ははっと顔を上げた。それは、鈴にとって、こちらに来て初めて意味が分かる言葉だった。そう、あのときは、軽蔑に満ちたその言葉ですら、理解できたことが嬉しかったのだ。
 梨耀に初めて会ったのは、朱旌に連れられていった才の国だった。蓬莱から流されてこちらにやってきた鈴には、こちらの言葉がさっぱり分からなかった。誰が何を言っても分からず、鈴の言っていることも全く通じなかった。鈴は次第に無口になっていった。
 故に一座にいても芸も覚えられず、鈴は下働きをしていたのだ。仙になれば言葉が分かるようになると聞いて、鈴は梨耀に伏して頼んだ。梨耀は鈴の願いを鼻で笑いつつも頷いたのだった。
 梨耀に仕えるために翠微洞に赴いた。言葉が分かるようになっても、鈴の暮らしはそう変わらなかった。梨耀は、優しい主ではなかったから。
 そう、梨耀は徹頭徹尾、変わらなかった。常に鈴を蔑み、嘲った。梨耀に笨媽と呼ばれる度に、鈴は傷ついた。が、鈴は、我慢するばかりで、梨耀が何故そうするのかと考えたことなどなかった。かつて鈴の話を聞いた清秀が、梨耀が可哀想だと言ったときも、ただ腹を立てただけだった。
 今、鈴は静かな心で梨耀を思った。翠微洞で梨耀に仕えていた者は、鈴を含めて十二人。しかし、その中に、梨耀が心を許す者はいなかった。そして、梨耀のために心摧く者もいなかったことを、鈴は改めて思い出していた。

2008.04.08.
 中編「笨媽」第2回をお届けいたしました。
 ざくろさんの「琶山風姨想 」を拝見して、鈴にいつか新たな目で梨耀を見てほしいと 心から思いました。 故に今回、鈴が梨耀に想いを馳せ、己の知らない梨耀を見てくれて、嬉しく思いました。 (お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、「常世語の御題」の 「離宮のある凌雲山」を多少改稿して掲載しております)
 そして、ざくろさんの描く「打ちひしがれて尚も凛然とした梨耀」に溜息が漏れました。 是非皆さまにもご堪能いただきたいです。
 さてさて、次がラストとなります。どうぞよろしくお願いいたします。

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2008.04.24. 速世未生 記
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