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笨 媽ほんま (3)

文・速世未生/絵・ざくろ

* * *  3  * * *

 慶主が風に紅の髪を靡かせる。この世に十二人しか存在しない神なる王のひとり、慶東国国主景王陽子。その背を友として眺めることとなって、長い月日が経っていた。その年月は、鈴に、王が背負うものを垣間見せていた。
 鈴は、陽子を知る前は、王など文字通り雲の上の人物だと思っていた。何不自由なく贅沢に暮らし、人々に命を下す者なのだろうと。けれど。

(──私にはあの王宮の中で、信じることのできる人が、本当に一人でも多く必要なんだ)

 内乱が収まった拓峰で、景王陽子は真摯に語った。神と思っていた王でさえ、仲間を必要とするのだ、と感慨を覚えたあの日。鈴は必要とされる喜びを知った。もしかして。
 翠微洞の主であった梨耀もまた、口に出せぬ物思いに苦しんでいたのだろうか。

 何もできない愚かな笨媽。

 鈴をそう罵倒する度に、己をも笨媽と責めていたのだろうか。扶王に敢えて諫言した己を。それとも。追放を甘んじて受け入れた己を。それとも──。

 愛するひとを、独りで逝かせてしまった己を、ずっと、責めていたのだろうか。

 ああ──もしそうならば、ときどき夜中に叩き起こされたわけも納得できる。梨耀は、扶王を喪う悪夢に目覚め、独りに耐えられず、助けを求めたのかもしれない。それなのに。
 誰も梨耀にわけを訊ねなかった。ただ、叱責を恐れて梨耀の命じるままに動き、余計なことをしないように小さくなっていた。それは鈴も同じだった。
 梨耀のほんとうの望みは、いったい何だったのだろう。梨耀は、鈴や他の使用人に、何を求めていたのだろう。鈴は友でもある女王の背を眺めながら考えに耽った。

 今、陽子が夜中に鈴を呼んだなら、鈴はすぐに飛んで言って、必ずわけを訊ねるだろう。そして、その憂いを晴らすために尽力するだろう。陽子は鈴の友で、心から仕えたい主でもあるのだから。

 もし、梨耀に夜中に起こされたあのとき、鈴がわけを訊ねたならば、梨耀はいったいなんと答えたのだろう。鈴は目を閉じ、想像を巡らせた。

(どうなさったのですか、お顔が真っ青ですよ)
(──余計なことを訊くでないよ)
 梨耀ならばすぐさまそう返すのだろう。それでも、お前が掃除を怠るから悪い夢を見たのだよ、と梨耀は悪態をつくのかもしれない。
(それでは、すぐに掃除をやり直しますから、安心してお眠りくださいね)
 そんなふうに、鈴が心を籠めて世話をしていれば、梨耀は心を開いただろうか。そうやって、少しずつ言葉を交わしていけば、梨耀は悪夢を見ずに済んだのだろうか──。

 ねえちゃん、また夢見てるのか。

 清秀が呆れた声を出したような気がした。子供の清秀はいつも大人のように鈴を嗜めた。腹を立てつつも、鈴は清秀の言葉を徐々に容れるようになっていた。清秀はいつも本当のことしか言わなかったから。

 そうよ、清秀。あたしは夢を見ているのよ。

 鈴は自嘲気味に呟いた。頭に思い浮かべた想像は、所詮鈴に都合のよい願望に過ぎない。それでも。
 気づけば鈴は、微笑みながら涙を零していた。梨耀を、苦い思いなく心に浮かべたのは、鈴にとって初めてのことだった。

 才とは違う柔らかな風が吹く。花の匂いを含む暖かな春の風が、鈴の頬を優しく撫でた。才のほうが暖かい国のはずなのに、心の持ちようで、感じ方はこんなにも違う。そう思いながら、鈴はゆっくりと目を開けた。

 春風に陽子の緋色の髪が靡いていた。そして、風は盛りを過ぎた薄紅の花びらを吹き散らす。風に舞う数多の花弁は、哀しみを面に出さぬ女王の、内に秘められた涙のようだった。
 見慣れた友の細い背に、同じく涙を見せることなどなかったかつての主が重なった。伴侶を亡くして尚、嘆きを隠す、気高い背中。
 見つめる鈴は、小さく呟く。人は皆、喪われた者を惜しみ、独り静かに涙するのだろうか。鈴が今も清秀を思い出すように。

 痛みを、胸に、抱いたままに──。

 花の盛りに散り行く桜を眺め、鈴は涙を誘われた。胸に響く、何人もの声。己の悲しみに身を沈め、聞き流していた、幾つもの切ない声。

(同じ蓬莱の生まれだから、分かり合えるものかしら……)
 淡い笑みを浮かべる儚げな采麟揺籃。そう語った麒麟にも、同じ言葉を話しながら分かり合えなかった人がいたのだろうか。

(苦痛を忘れる努力、幸せになろうとする努力、それだけが人を真に幸せにするのですよ……)
 深い笑みを刷く物柔らかな采王黄姑。一国の主たる神なる王にも、努力しなければ忘れられない苦痛があったのだろうか。

(でもおれ、泣くのってさ、やなんだよ。自分がかわいそうで泣く涙はさ、子供の涙だよな)
 生意気な口を利きながらも優しかった清秀。鈴より年下の清秀は、子供でいられなくなる辛い出来事が沢山あったのだ、と涙を見せずに語っていた。

(──前を向いて歩いていないと、穴の中に落ちてしまうよ。自分に対する哀れみの中)
 少学への選挙も受けたという優秀な夕暉。慶に生まれたからにはここで自分らしく生きる、と言った夕暉も、自分を哀れみそうになったことがあったのだろうか。

(俺がやろうとしてることは、どんでもねえことかもしれん。けど、俺は自分のために辛抱できねえんだ)
 鷹揚で豪放な虎嘯。自分のことよりも他人のことを考える、と弟を嘆かせた虎嘯は、それでも自分のためにやるのだと断じていた。

(自分が一番可哀想だって思うのは、自分が一番幸せだって思うことと同じくらい気持ちのいいことなのかもしれない)
 鷹隼の一瓊と称えられていた祥瓊。公主の身分を剥奪されて里家に預けられたこともある祥瓊は、己を省みて、淋しげに微笑していた。

(誰も王が名を持つなど、考えておらん。──王は王だからな)
 稀代の名君と呼ばれながら気儘で気さくだった延王。陽子の伴侶でなければ顔も上げられない存在の延王は、鈴が陽子の名を呼ぶのを聞くと嬉しいと語った。そして、その延王の真の名を、陽子だけが呼んでいた──。

 数多の花びらが風に舞う。その風に、数々の言の葉が流されていった。薄紅の花弁には、人の想いも乗せられているのかもしれない。そう思い、鈴は散り行く花に見入った。
 この世には桜の花びらの数ほども人がいて、皆が皆、一生懸命生きている。切ない想いを胸に抱き、それでも人のために言葉を紡ぐ。己の悲しみに沈むことなく、他人を思いやって。

(──笨媽。なんて役立たずなんだ、お前は)

 今も尚、梨耀は鈴を詰っていた。けれど、鈴はもうその言葉に怯むことはなかった。

 梨耀さま。私は……役立たずな笨媽です。それは、今も変わらないかもしれません。

 鈴は胸で嘲る梨耀に語りかける。笨媽と呼ばれることが嫌だった。罵倒されては傷ついて泣いていた。けれど、鈴の嘆願を入れて仙に召し上げてくれた梨耀に、鈴は心から仕えることをしなかったのだ。

 梨耀さま。拾ってくださったのに、お役に立てなくて、ごめんなさい。

 胸で思っても、今の梨耀に伝えることなどできない。分かっていても、鈴は梨耀に詫びずにはいられなかった。

 それが、ただの自己満足に過ぎなくても──。

 もう、後悔はしたくない。だから、今できることをしよう。ひとつずつ、少しずつ、今できることから始めよう。何もできぬ子供のように、助けてくれ、と泣くばかりでなく。

 鈴は頬に流れた涙を拭い、唇に笑みを浮かべる。そして、桜を眺める女王の華奢な背を見つめた。
 陽子が寛げるように、堂室を整えよう。陽子の気を和らげるように、心を籠めて茶を淹れよう。陽子が振り向いたときに、いつも笑みを返せるよう、心を落ち着けていよう。そして、陽子のために何ができるか、じっくりと考えよう。心を尽くして仕えよう。

 梨耀さま。私は前へ進みます。いつか、笨媽を返上できますように。梨耀さま、幸せでいらっしゃいますか。梨耀さまが、幸せでありますように。

 祈りを籠めて舞い踊る桜の花びらを見送ると、薄紅の花と紅の花が滲んで見えた。そして、その向こうに、昔の主の美しい笑みが見えたような気がして、鈴は深く頭を垂れた。
 もう、梨耀が鈴を笨媽と詰ることはないだろう。鈴が長い間抱いていた、梨耀への蟠りが、消えてしまったのだから。そう思うと、自然と唇が緩んだ。

 鈴が心よりの笑みを浮かべていると、振り返った陽子が目を細めた。鈴は片手を挙げて軽く振る。陽子は淡く笑って鈴を差し招き、再び桜に目を移した。
 鈴はゆっくりと庭院を歩み、陽子の隣に立つ。かける言葉などない。鈴はそっと陽子の手をとった。今の鈴にできる、唯一のことだった。やがて、陽子は鈴の手を握り返し、小さな声で呟いた。
挿絵3
「──ありがとう」

 陽子は、こんなときにも礼を返すのだ。

 息が止まるような気がした。鈴は小さく首を振り、もう片方の手をも陽子の手に重ねた。

 ずっと傍にいるから。

 胸が詰まり、言葉にできない誓いを籠めて、鈴は陽子の手を握り続けた。

2008.04.18.
 中編「笨媽」最終回をお届けいたしました。如何でしたでしょうか。
 原作を読んだとき、実は鈴のことは好きになれませんでした。後ろ向き過ぎる、と。 何度原作を読み返しても、梨耀に肩入れしてしまう。 それは、私がもう大人だからなのかもしれません。
 今回、「笨媽」を書くにあたって、鈴の部分のみ通して読み直しました。 心を閉ざしていると、百年経っても子供のままなのだ、と思ったのでした。
 同じ言葉を喋っていても、言葉が通じるとは限らない。 けれど、伝えることを諦めたなら、心が通じることは永遠にないのです。 いつかきっと、届くのだと信じて、想いを伝える努力を忘れずにいたいです。
 今回も、ざくろさんが素敵な挿絵を描いてくださいました。 どうぞ皆さまもご堪能くださいませ。 これでお終いかと思うと、とても淋しいです。
 ざくろさん、どうもありがとうございました!

ざくろさんの素敵なサイト「私的十二国雑記」は こちらからどうぞ”!

2008.05.02. 速世未生 記
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