心 守 (上)
* * * 1 * * *
桜が咲き誇っていた。笑みを湛えて見上げる女王は、満開の緋桜の如く美しい。花見と華見を同時に楽しめる慶国の春を、利広は愛して已まない。
麗しき女王は、はらりと舞う花びらにそっと手を差し伸べる。一幅の絵のような美しさに、利広は思わず感嘆の溜息をついた。
「──綺麗だね」
「我が国自慢の花を褒めていただけて嬉しいよ」
女王は桜花の笑みを利広に向ける。相変わらず、己の美貌には頓着しないその応え。利広はにっこりと笑って素直な感想を伝えた。
「うん。慶の自慢の桜も緋桜も共に美しいよ」
「緋桜?」
そんな桜が金波宮にあったかな、と呟いて小首を傾げる女王の耳許にそっと唇を寄せる。君のことだよ、と囁くと、男装の女王はほんのりと頬を染めた。
年相応の少女のようなその貌を覗きこみ、利広は会心の笑みを零す。すると、氷のように冷たい視線が背に突き刺さった。無論、その反応を分かっていながら女王を口説き続けているのだが、それでも利広は、少しだけ肩を竦める。
「──たまには二人きりで話をしたいなあ」
溜息混じりにそんな声をかけると、女王は不思議そうに目を見張る。利広は苦笑を浮かべ、視線を移した。庭院を見下ろす回廊には、きつい目で利広を監視する麗しき女史が立っている。ああ、と小さく声を上げ、女王は楽しげに笑った。
「祥瓊は、心配性なんだ」
だから、いつもああして私を見守ってる、と続け、笑みを湛えた女王は振り返る。利広には厳しい女史が、目許を和らげ、美しい笑みを見せた。
「私にもああいう貌をしてくれると嬉しいんだけどね」
利広は肩を落として嘆息した。すると、女王はくすりと笑い、不意に悪戯っぽい貌をする。そして、小さな声で意外なことを言った。
「じゃあ、夕食後にでも私の堂室に来て。待ってるから」
「──おやおや、行ってもいいのかい?」
「いいよ」
驚きを隠さずにそう訊くと、女王は軽く応えを返した。そして、おもてなしはできないけれどね、と片目を瞑ってみせる。利広は低く笑い、君がいればそれでいいよ、と答えた。女王は楽しげに笑って頷いた。
鋭い視線を感じた利広はゆっくりと顔を上げる。蹙め面の女史と目が合った。敢えて笑みを湛えて片手を挙げると、蹙めた顔も麗しい女史は、不愉快げに横を向いたのだった。
女史が、女御が、時には宰輔や冢宰さえ、庭院を見渡せるあの回廊に現れる。これだけ無防備な美しい主を持つ者であれば、それも仕方のないことだろう。彼らにとって、利広は大国の太子である以前に、緋桜に纏わりつく害虫なのだから。
歓迎してくれるのは、いつも宮の主だけ。それでも、美しい緋桜の寛いだ笑みを見られるだけでよい、と思っていた。それに、利広の所作に気を揉む側近たちも、国主の命に表立って逆らうことはない。
そう、この季節には桜と共に物想いに沈む女王を、誰もが遠巻きに眺めていたという。喪われた伴侶は桜に宿る、と淡く笑う女王に、かける言葉を失くして。勁い瞳で前を見つめ、国を支える女王の、あまりに儚いその姿──。
そっとしておくしかない。そっとしておいてほしい。
敢えて女王に歩み寄る利広を留める声。その申し出を笑顔で撥ねつける利広が憎まれるのも無理はない。けれど。
今の陽子には利広が必要なのだ。
孤高の女王を見上げる臣でもなく、肩を並べる王でもない利広こそが。いつか、陽子もそれに気づくだろう。しかし。
それは、今ではない。
利広は薄く笑む。焦ることはないのだ。利広には悠久の時間がある。そして、恋しい女にもまた。
男を夜に私室に呼んでおきながら、その意味を深く考えていないだろう無防備な女王をじっと見つめる。己が側近でも心配し、相手を警戒するに違いない。そう思い、利広は軽く笑う。
「どうしたの?」
不思議そうに訊ねる女王に爽やかな笑みを返す。そして、小さな声で告げた。
「──君の心配性なお友達には内緒だよ」
分かってる、と言って女王は鮮やかな笑みを見せた。
* * * 2 * * *
夜半に女王の私室を訪った。久しぶりの二人きり。女王はどんな顔でどんな話を聞かせてくれるのだろう。そう思うと自然に唇が緩んだ。しかし。
女王は榻に坐したまま眠っていた。卓子の上には茶器がふたつ並んでいる。茶を飲み損ねたな、と利広は苦笑する。そして、向かいの席に腰を下ろし、しばし女王の麗しい寝顔を眺めた。
自室だからだろうか、それにしても無防備だ。扉の開く音で目を覚ます、との話も聞いたことがあったのに、女王が目を開ける気配はない。
「陽子……襲われたいのかい?」
密やかな囁きに眠れる女王が答えることはない。利広は笑みを浮かべ、女王の傍に屈みこんだ。その背と膝裏に腕を回し、そっと抱き上げる。すると女王は、目を閉じたまま利広の首に腕を回し、子供のようにしがみついてきた。利広は小さく笑った。
「大丈夫。落としたりしないよ」
その声が聞こえているのかいないのか、女王が利広から手を離すことはなかった。利広は唇を緩めたまま臥室へと向かった。
久しぶりに触れた女王の身体は思ったよりもずっと軽かった。武断の女王のあまりの儚さに、利広は小さく息をつく。
そう、女王を抱く機会など、数えきれないくらいあった。雲海を超えて露台から訪い、唇を求めたあの夜もそうだった。きっと、女王は利広を拒みはしない。けれど──。
身を許しても、女王が心を委ねることはないだろう。
分かっているからこそ、利広は愛しい女に強いることはなかった。
牀に女王をそっと下ろす。そして、横たえた女王に静かに衾をかけた。それから、頬に手を伸ばす。おやすみ、と呟いて離れようとした、そのとき。
「いかないで……」
切なさを帯びる微かな声がした。そして、離れようとした腕を引く小さな手。薄闇の中、利広は振り返る。官能的な誘いではなかった。それは、庇護者を求める子供の声。拒むことなど、できるはずもない。利広は小さく息をつき、その手が促すままに牀に横たわった。
利広の腕から離れた手が、探るように首に回される。肩に触れる温かな頬、身に押しあてられる柔らかな膨らみ。利広は苦笑しつつ、華奢な身体を抱きしめる。陽子は身に纏う緊張を緩め、深く息をついた。
夢と現の狭間を漂う陽子は、利広を誰と間違っているのだろう。訊ねるまでもない。景王陽子がこんな風に甘える人物など、他にいるはずもない。
かつて、二人の王は、どんな夜を過ごしていたのだろう。そして、景王陽子は、伴侶亡き後の独りの夜を、どう過ごしていたのだろう。
いつも鷹揚な昼の女王の笑みを思い浮かべ、利広はそっと頭を撫でた。そのまま頬に触れる。乾いていた。泣いているかと思ったのに。
独りでいてすらも、陽子は泣かないのだ。
封じられた涙は、どこに隠されているのだろう。それを訊ねても、恐らく淡い笑みを見せるだけ。秘められた王の孤独を思い、利広は陽子をきつく抱きしめる。それに応えるように、首に回された手に力が籠められた。
愛おしい、と心から思う。端然と玉座に坐し、凛とした笑みを見せる女王にも、ときには休息が必要だ。陽子の安眠を守りたい。利広は想いを籠めて滑らかな頬に唇をつける。そして、瑞々しい朱唇に口づけた。
「──おやすみ」
耳許でそっと囁いた。小さく頷いて、陽子は利広の腕を枕にする。それでも首に回した手を解くことはなかった。利広はくすりと笑い、陽子の髪を、背を、優しく撫でる。そして、歌うように囁き続けた。
「大丈夫。ここにいるよ。愛しているよ……」
君を置いていったりしない。だから、安心しておやすみ。せめて、今だけは。
触れあう身体から伝わる規則正しい鼓動。それは、生きている証の力強い音。温もりとともに感じてほしいと思った。
やがて、陽子は静かな寝息を立てた。利広の首に絡めていた細い腕からも力が抜ける。利広は眠りに落ちた陽子を尚も抱きしめていた。
眠れぬ夜を幾つ越えてきたのだろう。その孤独をどう御してきたのだろう。この腕が、ひとときでも支えになるならば。
愛しい女を胸に抱いたまま、利広は少し微睡んだ。
2010.03.25.
短編「心守」前編をお送りいたしました。
「風来」及び「風想」の続きで、「夜桜」の利広視点でございます。
「夜桜」を書いた3年前は、利広の胸の内がさっぱり解りませんでした。
けれど、最近、風の御仁は結構饒舌なのでございます。
どんな語りを続けてくださるか、私も楽しみに待ちたいと思います。
あまり需要のない連作とは存じますが、お楽しみいただけると嬉しいです。
2010.03.26. 速世未生 記