心 守 (下)
* * * 3 * * *
腕の中の温もりが身動ぎした。利広はゆっくりと目を開ける。辺りはまだ暗い。すぐ傍で寝息が聞こえた。小さく寝返りを打つ陽子が目を覚ます気配はない。利広はそっと陽子を抱き寄せた。愛しい女は己の腕で安らいでいる。その温もりを、利広は束の間楽しんだ。
やがて利広は静かに身を起こす。朝まで女王と同衾するわけにはいかない。眠れる陽子の髪にそっと口づける。しばし名残りを惜しみ、利広は女王の臥室を後にした。
掌客殿に戻り、独り杯を傾ける。きっと眠ることはできないだろう。未だ胸に残る生々しい温もり。よくぞ我慢しきれたものだ。利広は苦笑する。しかし。
武断の女王は、昼に見せることのない弱さを露呈した。人違いでも構わない。少なくとも、今はまだ。
「無論、構わないよね、風漢」
女王の喪われた伴侶の面影に酒杯を掲げ、利広は杯を乾かす。そして、明けていく空を眺めた。海を染める朝焼けは、愛しい女の髪の色に似ている。鮮烈な女王に想いを馳せ、利広は独り酒を飲み続けた。
扉を叩く音がして、利広は目を開けた。そして、己が眠っていたことに気づき、苦笑する。どうぞ、と声をかけると、美貌の女史が慇懃に頭を下げながら扉を開けた。
「朝食の準備が整いました」
事務的に告げる女史に笑みを返す。そして、先導する女史の後について朝食の間へと向かった。
堂室の中では女御が朝食の支度をしていた。利広に気づくと、こちらも慇懃に頭を下げる。無言で利広を迎える女王の側近に、殊更に笑顔を振りまく。二人は眉間に皺を寄せたまま、己の作業を黙々とこなした。
やがて女王が現れた。おはよう、と声をかけると、驚いたように目を見張る。そして、不機嫌そうに顔を蹙め、利広を睨めつけた。
「──利広。待っていたのに」
その一言で、女王の二人の側近は眉を跳ね上げた。女御は利広を睨みつけ、女史は拳を握りしめてわなわなと震えている。
「行ったけれど、少し遅かったみたいだね。君は眠っていたから、大人しく引き上げたよ」
利広はさらりと答える。くすり、と笑うと、たちまち怒りに頬を朱に染めた女史の怒声が響いた。
「そんな遅い時間に女王の堂室を訪ねるとは無礼です!」
「だから、すぐに引き上げたんだってば」
女史ににっこりと笑って手を振り、女王には片目を瞑ってみせる。女王は目を見開いた。微かに頷く利広に、女王は昇る朝陽のような笑みを見せた。
「──ありがとう」
その一言は、利広に女王が見た夢を想像させた。少しだけ胸が痛む。それでも、愛しい女の寛いだ笑みに、利広の心は癒された。気を揉む女王の友たちを刺激しないよう用心深く答える。すると、女王は重ねて告げた。
「来てくれて、ありがとう」
主上、と咎める二人の側近を、女王は鷹揚に宥めた。利広は笑みを湛えて本音を返す。
「言ったろう、そろそろ私が必要な頃だって」
「そんな必要は、ありません!」
女王の側近たちは見事に声を揃えて叫んだ。利広はまた大笑いする。女王は頬を染めて小さく笑った。そして、小首を傾げ、困惑したように問いを投げかける。
「でも……どうして?」
「いつも言っていると思うけど」
「わざわざ口にしなくてもよろしいです!」
君が好きだから、と答える前に、女王の友たちが怒声を上げて遮る。鈍い女王よりも、この二人や宰輔や冢宰の方が利広の真意を理解している。ますます首を傾げる女王に、利広は額に手を当てて笑いを噛み殺した。
「──君って、ほんとに面白い」
言って利広は目尻に滲んだ涙を拭う。それから、肩を竦めて女王の側近たちに零した。
「分かってないのは陽子だけだよね」
女史と女御は唇を引き結び、利広に答えることはなかった。女王は困ったように三人を見比べる。それを見て、利広は女王ににっこりと笑みを返した。
「君といると、退屈しなくていいよ」
「どっかの誰かみたいなことを言わないでほしいな」
「子供みたいだね」
拗ねて口を尖らせる女王の膨らんだ頬を突く。表情豊かな顔は見ていて心地よい。笑みを絶やさず見つめる。女王はふと真面目な顔をして、再び謝辞を述べた。
「──ほんとうに、ありがとう」
「お礼よりも、ご褒美がほしいな」
「お控えください、卓郎君!」
利広の軽口に、女史と女御の怒号が轟いた。女王は苦笑を浮かべ、そんな側近たちを制する。それから、真っ直ぐに利広を見つめて問うた。
「何がほしいの?」
「──そうだなぁ。夜桜見物で我慢してあげる」
主思いの二人を挑発する気は更々なかった。ただ、無防備な女王と心配する側近の対比に興を覚えただけだった。利広は人の悪い笑みを浮かべて続けた。
「ただし二人きりでだよ」
「いけません!」
利広の要求に、女史が悲鳴のような叫び声を上げる。そのときだった。
女王が声を立てて笑ったのだ──。
利広も、そして女王の友たちも、しばし軽やかな笑い声に身を任せたのだった。
* * * 4 * * *
慶の国主である武断の女王は、伴侶を喪った時にも涙を見せることがなかったという。桜唇に淡い笑みを浮かべつつ、端然と立ち続ける緋桜ような潔き女王。その様は、強いながらも痛ましかった。誰も近づくことができないほどに──。
緩やかに流れる時の中で、女史と女御が目を見開いて顔を見合わせる。それから、くしゃりと泣きそうな笑顔を見せた。利広は微かに頷き、二人に応える。笑いを収めた女王は不思議そうに首を傾げた。
「二人とも、どうしたの?」
女御と女史ははっと我に返ったように女王を見やる。それから、主の問いかけを無視し、顔を蹙めて利広に視線を移した。
「仕方ないですね」
「くれぐれも不遜な真似はなさらないでくださいね」
「無論そうするよ」
真剣な念押しに軽く応えを返す。女王の側近たちは利広に恭しく拱手し、下がっていった。常に監視を怠らない有能な側近の感謝に、利広は会心の笑みを浮かべる。一人だけ状況が分かっていない女王は、焦れたように利広に訊ねた。
「──いったい、どうしちゃったの?」
「お許しが出たみたいだから、今晩は眠らずに花見に付き合っておくれよ」
呆れて首を捻る女王の頬に口づけて、利広は耳許でそっと囁いた。女王はほんのりと頬を染め、物問いたげに利広を見つめる。利広は爽やかに笑ってみせた。
「もちろん不埒な真似はしないよ」
掌客殿に女史が現れたのは、陽が落ちてしばらく経ってからであった。いつも眉間に皺を寄せて利広を睨めつける女史は、無表情に頭を下げた。
「庭院にお席が用意できました」
「──不本意そうだね」
「お分かりになりますか」
女史は利広の軽口に唇を緩めた。そりゃあもう、と答えると、女史はくすりと笑う。滅多に見ることができない美しい笑みに、利広は思わず口笛を吹いた。
「──そのようなふざけた態度は、大国の太子の振る舞いではございませんよ」
「それは失礼」
柳眉を顰める女史に、利広はおどけて頭を下げた。そのまま女史の先導で庭院に足を運ぶ。女王は既に佳氈に坐り、桜を見上げていた。穏やかな、懐かしげな貌をして。月光に照らされた、世にも美しい情景に、利広は足を止めて感嘆の溜息をつく。
「──綺麗だね、夜桜も、緋桜も」
「ええ、どちらも慶国自慢の美しき花にございます」
あの桜は、今は亡き隣国の主従が女王のために植えさせたものだ、と続け、女史は切なげに笑う。国中に植えられた様々な桜は、女王と同じく胎果であった二人への手向けである、と。
女史の目には、桜を見やる女王の隣に喪われた二人が映っているのかもしれない。女王の側近は、その頃も、ここから女王を見守っていたのだろうか。利広は複雑な貌をしている女史をしばし見つめた。やがて女史は利広の視線に気づき、頬を少し赤らめた。そして深く頭を下げて利広を促した。
「──失礼いたしました。どうぞ」
女史に笑みを返し、利広は庭院に降り立つ。佳氈の前で立ち止まると、女王が顔を上げて微笑した。女王は利広を隣へ誘い、昨夜の埋め合わせをするように手ずから茶を淹れてくれた。女王の隣に腰を下ろし、茶を受け取る。お酒はあとでね、と笑い、女王は再び桜を見上げた。茶を啜りつつ女王を眺める。沈黙の後、女王は桜を見つめたまま微かに呟いた。
「──あのとき、夢を見ていた」
「哀しい夢かい?」
軽く答えると、女王はおもむろに振り返った。それから、淡い笑みを見せて頷いた。
「うん……だから、あなたが来てくれて嬉しかった」
「そう言ってくれるのは陽子だけだよ」
利広はにっこりと笑って断じた。この場を見下ろす回廊には数人の気配がする。心配性の側近たちが気を揉んでいるに違いない。けれど、彼らも今宵はあからさまな監視を控えている。女王はちらりと回廊を見やり、小さく呟いた。
「──心配をかけていることは分かってる」
「陽子を心配するのも彼らの役目なんだよ」
「私の臣と同じことを言うんだね」
目を見張る女王は、無邪気な子供のようだった。利広は昨夜を思い出す。寄る辺のない幼子のようにしがみついてきた陽子を。利広は笑みを浮かべ、女王の頭を優しく撫でた。
「君は、したいことをすればいい」
「そんなわけにはいかないよ……」
「したいようにしていいんだよ。誰が何と言おうとね」
君は女王なんだから、と続けると、陽子は困ったように俯いた。自制心の強い女王が、与えられた強大な権を行使することはない。ただ、桜を見上げて物想うだけ──。
「──私だけは、君を止めたりしないよ」
細い肩をそっと引き寄せて、励ますように叩いた。躊躇いがちに見つめてくる翠の瞳を覗きこみ、利広は万感の想いを籠めて囁く。愛しい女は桜花の笑みを見せて頷いた。
2010.05.01.
大変お待たせいたしました、短編「心守」後編をやっとお届けできました。
敢えて手を出さない風の御仁の胸中は複雑なようで単純ですね。
それが解って少し嬉しくなりました。
あまり需要のない連作とは存じますが、お気に召していただけると嬉しく思います。
2010.05.01. 速世未生 記