桜 語 (上)
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空気が和らぐ季節。桜が花開くこの時季には、金波宮は静寂に包まれる。薄紅の花は、音を包んで吸い取る雪の如く、金波宮から喧騒を消し去る。
それは、麗しき宮の主が、喪われた伴侶の面影を宿す桜花に、独りそっと寄り添う季節だからなのかもしれない。
暖かな風に花びらが舞っていた。しんと静まり返った庭院で、ひらりひらりと舞い散る薄紅の花弁だけが、確かに時を刻んでいく。景王陽子は黙してそれを眺めていた。
散り行く桜は、胸の奥底に隠している忘れていたいことをも鮮やかに蘇らせる。胸締めつけられる想いに耐えかねて、陽子はふと呟いた。
「──王さまの耳は、ロバの耳……」
「──?」
隣に坐る者が、突如その存在を主張した。どうしてこのひとは自由自在に気配を操るのだろう。陽子は小さく嘆息する。己の物思いに沈みすぎて、今隣にいるひとのことを忘れていた己を恥じて。
風来坊の太子が、物言わず見つめている。陽子の呟きを聞きとがめ、不思議そうに目で問うている。陽子は苦笑を浮かべた。
このひとに、小細工をしても無駄なこと。
既に陽子はそう学んでいた。物柔らかに、けれど的確に、利広は陽子が目を背けていたい真実を暴くのだ。だから、陽子は素直に答えた。
「蓬莱の童話だよ。秘密は、隠そうとしてしても、結局知られてしまう、というお話」
「──へえ、面白そうだね」
大国奏の太子は、鷹揚に楽しげな感想を返す。それから、悪戯っぽい貌をして、おもむろに問うた。
「で、君は、いったいどんな秘密を、話してしまいたいの?」
──どうして、このひとは、そこまで分かってしまうのだろう。
陽子は目を見張り、利広を凝視した。利広は柔和な笑みを浮かべ、陽子を見つめている。陽子は思わず訊き返した。
「──何故そう思う?」
利広はその質問には答えず、陽子の唇を軽く封じた。優しげでいて、否やを許さぬその態度。いつものことながら、陽子は小さく息をつく。そして、再び苦笑を浮かべ、利広を見上げた。
「──何も問わずに聞いてくれる?」
「いいよ」
利広は朗らかに答え、陽子を引き寄せた。利広の肩に頭を凭せ掛け、陽子はおもむろに語りだす。
「──昔、蓬莱で、大きな戦があった。民をも徴兵する、大きな大きな戦だった。その召集令状は赤かったので、赤紙と呼ばれたんだ……」
赤紙が来た男は恋しい女に別れを告げに行く。一夜限りの夫婦の契りを結び、男は戦いへ赴く。そして、二度と帰らなかった。しかし、女の腹には恋しい男の子供が宿り、女はその子を男との愛の証として育てる──。
「あのひとの子供を産みたかった。あのひとの面影を宿す子がほしかった。──あのひとを喪ったとき、心からそう思った。もちろん、そんなことは無理だと知ってる。それでも、たまに夢を見る……」
次第に大きくなる陽子のお腹を愛おしげに撫でるあのひと。あのひとに似ている子供を腕に抱いて笑う陽子。そんな陽子と子供を優しく見つめるあのひと。年とともに子供は大きくなり、陽子はあのひととともに歳を取る──。
目を閉じると蘇る、陽子が望む、叶うはずのない夢。言い終えて、陽子は深い溜息をついた。
「──こんなこと、あのひとにも言ったことがない……」
誰にも言えるはずがない。
これはあちらで生まれ、あちらで育った女の考えることなのだから。
好いた男と結婚し、その子供を産むのだと漠然と思っていた。そんな当たり前だと思っていたことが当たり前でないと知ったときの、あの喪失感──。いくら同じ胎果でも、男のひとには分かるまい。だから、最愛の伴侶にすら、話さずにいた。それなのに。
「──よく分かったよ」
こちらで生まれ育ち、悠久の時を生きる利広は、不思議な目で陽子を見つめていた。陽子は瞠目し、反射的に問い返す。
「──何が?」
「君の言っていることは半分も分からなかったけれど……。君が思っていることは、よく分かった」
いったい何を分かったというのだろう。目で問う陽子に、利広は限りなく優しい笑みを向ける。
「君にとって、かの御仁に代わる者は、いないってこと」
どうして……話してしまったのだろう──。
悔いても口から出した言葉はもう戻らない。胸の痛みを耐えかねて、陽子は黙したまま顔を背けた。そんな陽子を、利広はそっと抱き寄せる。そして、宥めるように陽子の頭を撫でた。
「──陽子。責めているわけじゃないんだよ」
利広の手も声も、ただただ優しかった。それが、却って陽子の胸を切なくする。喪われた伴侶を忘れることができずにいる陽子は、利広の好意に甘えている己を恥じて俯いた。
そう、気紛れに現れる高貴な旅人は、いつしか、桜の時季にはいつも静かに傍にいてくれるようになっていた。桜とともに物思いに沈む陽子を咎めることなく、桜に宿るひととの会話を妨げることなく。
共に暮らすことができなかった伴侶。共に足許に潜む暗闇と戦い続ける宿命を負う王で、陽子の戦友でもあったひと。そして、いつか訪れる現実を覚悟させてくれた、師ともいえる稀代の名君。桜のように潔く散っていった我が伴侶。
利広は陽子に昔語りを聞かせてくれる。あるときは明るく、あるときはしみじみと、在りし日の伴侶の姿を蘇らせてくれるのだ。
風来坊の太子が語る伴侶は、陽子が知らない風来坊の旅人だった。陽子はいつも無邪気に利広の話に聞き入った。桜と語り合うしかなかった伴侶の話を、心から楽しんできた。けれど、それは陽子の甘えでしかなかったのではないか。
「──私は、あなたに、酷いことをしているだろう……?」
陽子は顔を上げ、ずっと訊けずにいた問いを投げかけた。利広はくすりと笑って応えを返した。
「君は誠実すぎるね。君には私が必要だし、私は君の傍にいたいんだ。気にすることはない」
いつも優しい利広の、いつにも増して柔らかな声。陽子はまたも胸を衝かれて俯いた。己の立場を忘れて甘え過ぎてはいけない。たとえ気にするな、と言われても。陽子は視線を利広に戻す。
「そこまでしてもらう理由はないよ……」
「私にはあるんだよ」
意を決して続けた言葉は、朗らかな断言に遮られた。利広は強く優しい眼差しで陽子を真っ直ぐに見つめて微笑む。
「私は、君が好きなんだから」
いつも言っていると思うけれど、と付け加え、利広は柔和に笑う。が、利広の態度は常とは違っていた。陽子が何も言えなくなるくらいに。
「君が、どんなにかの御仁を愛していたか、私はよく知ってる。今でも忘れられないことも、ね。それでも、私は君が好きなんだ」
「──利広」
名前を呼ぶのが精一杯だった。陽子は見張った目を逸らすこともできずにいた。微笑を浮かべつつも、利広は真摯だった。だからこそ、利広には、本音を返すしかない。陽子は小さく息をつく。
「──私は、余計なことばかり言ってしまうのに?」
「君が話したいことなら、私は全て聞きたいよ。そして、君が話したくないことも」
そう言って、利広は爽やかに笑う。陽子はその笑みから視線を外した。次に何を言われるか、予想できるのだ。利広は笑い含みに問うた。
「君は、どうしたいの?」
2009.03.31.
短編「桜語」(上)をお届けいたしました。
「来訪」連作の中で、一番書きたかったお話でございます。
書くのに迷いはないのですが、出すのにかなり迷った作品でございました。
そのせいか、3年も温めてしまったのでした。
お気に召していただけると嬉しく思います。
もう少し続きます。気長にお待ちくださいませ。
2009.03.31. 速世未生 記