桜 語 (下)
* * * 2 * * *
時が止まったように静かな庭院。時折風に散らされる花弁が落ちる音でさえ聞き取れるほどの静寂。その静けさを破る一言を発したひとは、それ以上問いを重ねることはなかった。
桜の梢を揺らす風のようなひと。時に優しく、時に悪戯めいた強さで枝を揺さぶる春の風。まどろむ花に目覚めを促すもの。
俯いていた陽子は、ゆっくりと桜に目を移す。利広はいつも優しい。けれど、時に陽子が目を逸らしている現実を知らしめる。そう、今のように。
舞い散る花びらに手を伸ばす。思い出の花を、喪われた伴侶の縁にと、国中に植えた。春になると、慶はこの花に包まれる。
花開く度に、桜に話しかけていた。誰にも言えない伴侶の話を、桜に語っていた。いつの頃からか、桜と一緒に利広が傍にいてくれるようになった。それは、とても自然なことに思えた。でも、何故そうしてくれるのか、ずっと分からずにいた。
どうして、と訊ねると、分かっていないのは陽子だけだよ、と笑い含みの答えが返ってきた。その言葉を聞く度に、胸が痛くなった。その痛みのわけさえ、考えないようにしていた。答えなど、陽子の胸の内に隠されていたのに。
(──お前は、何故、俺を受け入れる?)
陽子を腕に抱く伴侶はよくそう問うた。陽子はいつも同じ応えを返した。あなたが私を求めるから、と。それだけか、と重ねられる問いにも、それだけです、と答えていた。伴侶は苦笑とともに口づけを落とし、それ以上問うことはなかった。
求められる限り、受け入れようと思っていた。風を名乗る伴侶を縛る存在になりたくはなかった。けれど、それは単なる言い訳だったのかもしれない。
求めるのが、怖かった。溺れてしまうのではないか、と怯えていた。女王である己を忘れて、ただの女になることを恐れていた。
結局、愛してるから、と本音を告げたのは、最後の逢瀬の時。どうしてもっと早く伝えなかったのか、と心底後悔した。失うよりも、喪うほうが、ずっとずっと辛いことだ、と気づけなかった愚かな陽子──。
伴侶が浮かべていた苦笑の意味が、今なら分かる。あのひとは、陽子の想いなどお見通しだった。ただ、陽子の口から、直接ほんとうの気持ちを聞きたかっただけ。
利広はいつも陽子の問いに本心を答えていた。それなのに、陽子は信じなかった。利広の求愛を、社交辞令と受けとめて。挨拶代わりの軽い言葉なら、陽子の聡明な側近たちが、あれほど大国奏の太子を警戒するはずもないというのに。
(君は、どうしたいの?)
利広の今と同じその問いに、分からない、と答えたのはいつのことだっただろう。正直ではあるが、甘えた回答だ。あのときはかなり若かった。けれど、今の陽子は──。
(それでも、私は君が好きなんだ)
利広の告白は、陽子の胸に深く沁みた。利広の問いは、陽子の胸を激しく揺さぶった。利広を拒むことは容易いだろう。一国を預かる女王の立場としては、当然のこと。けれど。
それは、陽子の本音なのだろうか。己はいったいどうしたいのだろう。そんなことは考えてこなかった。己を保つことができなくなるのが怖かったから。
薄紅の花びらが、風に舞う。桜は、毎年静かに花をつけ、何も語らずに散っていく。繰り返し、繰り返し、その様を見続けてきた。
視線をゆっくりと戻す。利広と目が合った。このひとは、ずっと陽子を見ていたのだろうか。陽子が桜を眺めるように。陽子は唇を緩めた。
「──考えたことがなかったから、やっぱり分からない。王で在り続けることかと思ったけれど……。それは私の義務であって、やりたいことじゃない」
言葉を手繰りながら、ゆっくりと己の思いを口に出す。利広は笑みを浮かべたまま静かに頷いた。陽子は今胸に抱く気持ちを素直に伝えた。
「これから、ゆっくり考えていくことにするよ」
「うん」
利広は簡潔に答えただけだった。けれど、向けられた瞳は優しいまま。厳しいことを言っても、利広は笑みを絶やさない。
「あなたは……いつも、誰も訊かないことを訊くね」
「そうかい?」
利広はそう言って柔和に笑む。愛の告白をしながら、答えを要求しないひと。利広をどう思っているかと訊かれたならば、陽子はこんなに悩まなかっただろう。いつものように、私もあなたが好きだよ、と答えたに違いない。けれど、それはきっと、利広が求めている答えとは違う。
陽子は利広を真っ直ぐに見つめ返す。利広はいっそう優しく微笑んだ。景王陽子の視線を、臆せずに受けとめられるひと。そして、景王陽子の臣ではないひと──。
「──私には、あなたが必要みたいだ」
陽子はようやく利広に伝えるべき素の想いを言葉にすることができた。利広は爽やかに笑んで頷く。
「やっと分かってくれたようだね」
「うん。ずいぶん時間がかかってしまったけれど」
「気づいてくれれば、それでいいんだ」
利広は限りなく優しい笑みを見せる。それは、切なげで、嬉しげで、陽子は胸に痛みを覚えた。
(そろそろ私が必要な頃だと思ってね)
そう言って利広が陽子を訪れるようになってから、長い時が過ぎた。南国の太子の気紛れな訪問を、陽子はいつしか楽しみに待つようになっていた。そうして、気づけば桜の時季にはいつも隣にいてくれる利広──。
そっと利広の肩に頭を預け、陽子は微かな声で呟く。
「……ごめんなさい。待っててくれて、ありがとう……」
「謝る必要はないよ。私は、君を抱きたいだけの狡い男なんだから……」
利広は人の悪い顔を見せて陽子を抱き寄せる。そして熱く唇を重ねた。再び陽子を見つめる利広は、少し残念そうに囁く。
「それでも君は泣かないんだね」
「──あなたは、いつでも私を抱けたでしょう?」
陽子は薄く笑み、答えにならない応えを返す。利広は何も言わずに微笑んだ。そして、陽子を抱く腕に力を籠める。陽子は利広の胸に身を委ね、小さく呟いた。
「──温かい」
愛おしげに見つめる瞳、優しく抱きしめる腕、口づけを落とす唇。人の身体の温もりをこんなに心地よく思ったのは久しぶりだった。
このひとに、どれほど癒されたろう。凍えていた身と心を温めてくれたひと。心痛む季節にずっと傍にいてくれたひと。けれど、陽子には何も返すものがない。だから、利広が望めば、拒むつもりはなかった。それなのに──。
「──ごめんね」
もう一度、心から詫びた。言わずにはいられなかった。そんな陽子の耳許に、利広もまた囁いた。
「私は、狡い男なんだよ」
小首を傾げる陽子に口づけて、利広は楽しげに笑った。
2009.04.10.
短編「桜語」(下)をお送りいたしました。
「来訪」連作の中で、一番書きたかったお話を、ようやく書き上げることができて
感無量でございます。
書くのに迷いはないのですが、出すのにかなり迷った作品でございました。
そのせいか、3年も温めてしまったのでした。
お気に召して下さる方は少ないかと思いますが、一言いただけると嬉しく思います。
2009.04.10. 速世未生 記