夜 想 (1)
* * * 1 * * *
桜の季節はいつも胸が痛む。この花が咲けば伴侶に会える。無邪気にそう思っていた若い頃を、そして、この花を愛し、この花と共に散っていった伴侶を思い出すから──。
花びらが乱舞する。渦巻く桜吹雪が闇に吸いこまれていく。愛しいひとの大きな背中を隠しながら。手を伸ばす。届かない。声をかける。伝わらない。そのまま、夥しい薄紅の花弁は、夜の帳に消えていった。
いかないで。
己の声が遅れて聞こえる。
私を置いて逝かないで。
口に出したことがないはずの言葉が、耳の奥でいつまでも谺する。それでも、涙は瞳の奥に隠されたまま。
そう、目覚めれば、陽子はいつも独り。そうして大きく溜息をつく。過去に囚われたまま、動くことができない己に呆れて。心配そうに見守る幾つもの瞳に応えることができない己を嘆いて。それなのに。
葉ずれの音がした。暖かな風が頬を撫でていた。そして、温かなものが陽子の手に触れていた。いったいそれは何なのだろう。そっと目を開ける。己の手に重なる手が見えた。手から腕へ、腕から首へ、首から顔へとゆっくりと辿っていく。愛しむように見つめる瞳と目が合った。
「おはよう。よく眠れた?」
楽しげな口調。頭が混乱する。今は朝ではない。思い出すまで少し時が必要だった。風来坊の太子はただ笑みを浮かべて陽子を見つめていた。
陽子は宮城の庭院にいた。桜の幹に背をつけて、気紛れな旅人に凭れていた。身体の右側が温かい。そして、一回り大きな手が重ねられた右手も温まっていた。陽子はゆっくりと身を起こし、隣に坐る太子に声をかけた。
「──利広。私……眠ってた?」
「うん、気持ち良さそうに」
だから一人で飲んでいたよ、と利広はにっこりと笑う。酒肴を乗せた盆がすぐ傍にあった。二人で桜を見上げていた時には何もなかったはず。怪訝な顔をして見つめると、利広は楽しそうに続けた。
「さっき祥瓊が置いていってくれたよ」
どうやらお許しが出たようだね、と利広は笑う。確かに、他に人の気配はない。いつも誰かがあの回廊に佇んでいるのに。心配そうに陽子を見守っているのに。
春になると、陽子はいつも独り静かに庭院の桜と語っていた。桜に、喪われた伴侶の話をしていた。いつしか伴侶の古い知り合いが陽子の知らない伴侶の話をしてくれるようになった。春風のように気儘に現れて、そよ風のように優しく陽子を包んでくれた。けれど、風は優しいだけではない。
(君は、どうしたいの?)
物柔らかでいて、目を逸らすことを赦さない、その問い。王である陽子にそんな問いかけをするのは、風来坊の太子のみ。陽子は利広にそう問われる度に、いつもは見ないようにしている内なる自分と向き合わねばならなかった。そうして、己がほんとうは何を望んでいるのかを知り、驚いたり戸惑ったりした。そう、今回も。
喪われた伴侶が残した豊かな国は、大きな荒廃に曝されることなく次代の王に受け継がれた。陽子が憧れ、目標としてきた隣国は、新王の許で落ち着きを取り戻しつつある。これからは陽子を頼ることもなくなっていくだろう。伴侶と交わした遠い約束は果たされたのだ。
肩の荷が下りた。と同時に、生きる目的を失った。
己の国のために意識しないようにしてはいたが、陽子は胸の奥底ではそう思っていた。そんなときに利広は問うた。陽子は己が抱える空虚な想いを口に出さなければならなかった。そして、虚ろな心を埋めるために何をすべきかをも。
陽子は黙して利広を見上げる。見つめる瞳も重ねられた手も温かかった。そう、陽子は漸くこの手が必要なのだと気づいたばかりだったのだ。
もう一度、利広の肩にそっと頭を預ける。利広は空いている左手で陽子の肩を優しく抱いた。何も言う必要はない。緩やかに時が流れていく。やがて、散りゆく花弁を見つめ、利広は静かに問うた。
「今夜は君と一緒に眠らせてくれる?」
陽子は目を見張った。どんな時にも決して口に出されることがなかった問い。利広はゆっくりと陽子に視線を移した。陽子は唇を緩める。優しく熱く覗きこむ瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。そして、はにかみながらも笑みを浮かべて頷く。利広は柔らかに笑み、陽子に甘く口づけた。
* * * 2 * * *
夜に誰かを待つなど久しぶりだ。そう思うだけで恥ずかしさが募り、陽子は熱い頬を両手で包んだ。冷えた手が温められていく。そう、冷たいものは、温めることができる。気紛れなはずの春風は、そんなふうに陽子を包んで温めてくれたのだ。
凍えていた心が融けるまで、幾歳を要しただろう。気づけば傍にいてくれたひと。気づいてくれればそれでいい、と言ってくれたひと。これが愛と呼べるものなのかは分からない。けれども、陽子にとって利広は、生きていくために必要なひとだ。
ずっと心を閉ざしていたのは、埋めようのない虚ろな穴を忘れていたかったから。気づいてしまえば、生きる意味を失ってしまう。王にとって生き続けることは義務だというのに。だから、王で在り続けることが己の望みだと思おうとしていた。そうでなければ、すぐにでも伴侶の後を追いたくなっていただろう。
「──何を考えこんでいるの?」
不意に声をかけられて、陽子は顔を上げる。待ち人が楽しげに笑って歩み寄っていた。気配の殺し方は並みでない。それは、このひとが生きてきた悠久の時を感じさせる。陽子は小さく息をついて立ち上がった。
「あなたに問われたことを」
「これからゆっくり考えるのではなかったの?」
「そうも思ったんだけどね」
考えずにいられないのだ。苦笑を浮かべて見上げると、利広は陽子を抱き寄せて優しく頭を撫でた。焦ることはない、とその手が告げる。陽子はくすりと笑った。
「あなたはいつも私に考えさせる」
「そうかい?」
「そして……こうやって私に触れるのも、あなただけだ」
「触れてほしかったの?」
端的に返されて、陽子は息を呑む。目を上げると、柔和に笑む瞳が、心の奥底まで見透かすように覗きこんでいた。答えたくない。そんな思いが胸を走り、陽子は思考を停止した。
「──あなたは、いつも誰も訊かないことを訊くね」
目を逸らして溜息をつくと、あっさり唇を塞がれた。答えなければならないらしい。女王である陽子に黙秘を許さないのは、利広だけだ。それは、利広が陽子の臣ではないからなのだろう。陽子は視線を戻し、躊躇いながらも頷いた。
「そう……かもしれない」
「そう言えばよかったのに。君を拒める者などいない」
「だから嫌だった」
間髪を容れずに零れた言葉に驚いた。このひとはどうして陽子の内からこんなものを引き出してしまうのだろう。自ら口にした言葉の重さに怯み、陽子は言い淀む。利広は少し首を傾げ、陽子に続きを促した。陽子は視線を足許に落とし、小さく呟く。
「私の命に逆らう者はいない。それでは意味がない……」
「命がなければ誰も君に触れることなどできないのに?」
そうは思わないの、と利広は笑う。陽子はただ目を見張って利広を見つめ返した。確かに、そんなふうに思ったことはない。思えるはずもなかった。
陽子が見つめると、誰もが目を逸らす。当たり前のように陽子の目を受けとめ、抱きしめてくれた伴侶はもういない。そんな辛い現実を見せつけられるような気がしていた。目を合わせてくれる人さえいない。ましてや、触れてくれる人など、望むべくもない。
物想いに沈むと、自然と視線も落ちていた。そんな陽子を、利広は可笑しそうに覗きこむ。
「思わないみたいだね」
だから君には私が必要なんだ、と利広は陽子の耳朶に囁く。そのまま抱きしめられて、陽子は目を閉じた。温かな身体が、強張る心をも温める。そう、淋しくて、切なくて、誰かに触れてほしかった。けれど、それを口にすることはできなかった。王の口から出る言葉とは、即ち勅命だ。誰も逆らうことができない命を出すつもりはなかった。
「――そんなこと、思ってもみなかった」
「そうだろうね。でも、君は王なんだ。許しがなければ、誰も玉体に触れることはできないんだよ」
柔和な笑みを浮かべつつも、利広は厳しい指摘をする。陽子は何も言えずに俯いた。
「昔、教えてあげたのにね。ほしいものには自ら手を伸ばすんだよ」
こうやって、という声と腕が、陽子を強く熱く抱きしめた。
2012.03.23.
中編「夜想」第1回ををお届けいたしました。
短編「桜語」の続編でございます。
というか、「桜語」はこの「夜想」が纏まらなかったために
先に出したお話でございました。
その「桜語」を書いたのも3年も前になりますね(苦笑)。
「来訪」連作の中で最も書きたかったお話でございます。
祭中に書き終われることを切に願っております。
あまり需要がない作品かと思いますが、しばらくお付き合いいただけると嬉しく思います。
2012.03.23. 速世未生 記