夜 想 (2)
* * * 3 * * *
ほしいものに自ら手を伸ばす。そんなことをしたことがあっただろうか。
利広の温かな胸に身を預けつつ、陽子は考える。自分から何かを望んだことなど、ないような気がした。
いつも受け身だった。与えられるものを受けとめることしかできなかった。熱く求められて、優しく包まれて、それに甘えていた。手を離されて、初めて気づいた。喪う間際に、やっと。
伴侶との最後の逢瀬が胸を過った。早春の夜、花見に来た、と笑み、愛の言葉のみを繰り返し陽子の耳に注いだ伴侶。止め処なく溢れる涙を拭ってくれた唇は、限りなく優しかった。陽子が自ら伴侶を求めたのは、あの時が最初で最後だった。
あれから幾歳が過ぎたことだろう。頑なに数えることを拒んでいたような気もする。気づけば月日が流れていた。そう、いつの間にか、また桜の季節が巡りくる。それを、何度も何度も繰り返してきた。そして、今。
冷え切っていた身体は、ずっと求めていた人肌に温められていた。抱きしめる腕の強さが愛おしい。陽子はそっと利広の背に手を回す。今ほしいものは、このひとの温もり。その想いを受けて、微笑んだ利広が陽子に口づける。その唇の熱さに、陽子は己を委ねた。
躊躇いのない腕が陽子を抱き上げる。軽々と牀榻まで運ばれて、そっと下ろされた。そのままこの身を横たえ、隣に滑りこむひとを、陽子はじっと見つめる。利広は苦笑を浮かべた。
「――怖い?」
「どうして?」
「不安そうな貌をしている」
意外な答え。陽子は思わず目を見張る。これから起こることを不安に思うほど幼くはない。陽子は小さく笑い、困ったように見つめるひとに軽口を返した。
「見た目ほど初心な小娘じゃないよ」
「――知ってる」
笑いを含んだ意地悪な答えがして、きつく抱きしめられた。陽子はこの腕を知っている。陽子を女王だと知りつつ伸ばされた、この腕を。
(こんなつもりじゃ、なかったんだけど)
あのとき、そう言って苦笑した利広。陽子には意味が分からなかった。命がなければ触れることができない王の身体、利広がそんなふうに思っていたとは。知って陽子はくすりと笑う。己をそんな大層な者だと思ったことはない。昔も今も同様だ。それはきっと、躊躇わずに伸ばされる手を、既に知っていたからなのだろう。
喪われた伴侶は、いつも当たり前のように陽子を引き寄せ、ゆったりと抱きしめた。躊躇っていたのは、寧ろ陽子の方だ。愛しい男の腕の中でただの女になることを恐れていた。王である己の責務を忘れ、溺れてしまいそうで、怖かったのだ。
今はどうだろう。陽子は己を抱きしめる男の眼を真っ直ぐに見つめ返す。男の瞳に映る己は、ただの小娘に見えた。利広は苦笑気味に言葉を零す。
「相変わらずだね、君は」
わけを問う前に、唇が落ちてきた。眼を閉じると、重ねられた唇の熱さが増していく。ずっと忘れていた熱を呼び覚まされて、陽子は甘い吐息を漏らした。利広は唇を離し、陽子を見やる。
「──痩せたね」
しみじみとしたその声に、今度は陽子が苦笑を零す。もとより女らしい身体ではない。
「ますます貧相になったよね」
「君は綺麗だよ、昔も、今も」
覗きこんでくる利広の眼が熱を帯びる。臆面もない称賛を浴びせられ、陽子は頬を朱に染めた。慌てて首を横に振る。
「あなたは、いつも口が巧いから……」
陽子の言葉は楽しげに笑う唇に遮られた。身体に絡みつく手が、熱く優しい愛撫を繰り返す。昔、何もかも奪いつくすような烈しい情熱をぶつけたひととは思えぬほどに。身体の芯を熱くさせながらも労わりを忘れないその手に、陽子は安らぎを感じた。
眼を開けると熱を帯びた瞳と柔らかな笑みがある。見つめる度に愛しむような口づけが返される。ゆっくりと、身も心も解かれていく。陽子は笑みを浮かべて己を求める男を受け入れた。
月日が流れたのは己の上だけではない。気づけば傍にいてくれたこのひともまた、時の流れをその瞳に刻んでいた。
* * * 4 * * *
ふと眼を開けると、柔和な瞳が見つめていた。寝顔をずっと見られていたのか、と思うと少し恥ずかしい気がする。そして、陽子は己が利広の腕の中で眠っていたことに改めて気づき、唇を緩めた。人肌の温もりは、心地よい。陽子はそのまま眼を閉じた。やがて。
「――五百年の孤独は理解できたかい?」
囁くような声が気怠い沈黙を破った。陽子はおもむろに顔を上げる。緋色の髪を弄ぶ利広は、不思議な笑みを浮かべていた。
(五百年の孤独ってどういうものなんだろう)
かつて、陽子は利広に訊くとはなしにそう訊いたことがある。陽子が登極するとき助力してくれた隣国の王は、当時五百年もの永きに亘り玉座に君臨する稀代の名君だったのだ。
(そんなことを真面目に考えていたの?)
聞いた利広はそう言って吹き出した。訝しげに見つめる陽子の視線に頓着することなく、気が済むまで笑い続けた挙句、利広はいつもの科白を吐いた。君ってほんとに面白い、と。そして、拗ねた陽子を引き寄せて、耳許で囁いた。
(──特別に教えてあげる)
意味深長な言葉で陽子の視線を己に戻した利広は、楽しげに笑んで続けた。
(かの御仁は、それを知りたくないからこそ、独りで勝手に逝ってしまったんだよ)
煙に巻くようなその応え。陽子は首を傾げることしかできなかった。そんな陽子の頬に口づけて、利広はただ不思議な笑みを見せるばかりだった。
あのときと同じ貌。思い出して陽子は溜息をつく。どうして今頃そんなことを問うのか。眉を顰めて見つめても、答えは返ってこなかった。きっと、黙秘は許されないのだろう。再び小さく嘆息し、陽子はゆっくりと首を横に振る。
「――分からないよ」
そうだろうね、利広は笑う。そして、目を逸らす陽子を抱き寄せた。
「君は、独りにならない術を知っているから」
私と同様にね、と続け、利広は真っ直ぐに陽子の瞳を覗きこむ。陽子はただ目を見張るばかりだった。
「――どういうこと?」
「言葉どおり」
漸く訊ねることができたというのに、答えは意味が分からないものだった。陽子は深い溜息をつき、意地の悪い男に背を向ける。利広はくすりと笑い、後ろから陽子を抱きしめた。
「――君は、独りだったのかい?」
陽子は動きを止めた。背を温める素肌の心地よさ。それはずっと傍にあった。利広が敢えて陽子に触れなかったことには気づいていた。
旅人の気紛れな訪問は陽子を驚かせ、また楽しませた。時折伸ばされる腕は、あくまで紳士的でさりげない。そして、時に頬や唇に触れるその唇は、言葉以上に陽子を促した。そう、利広は陽子に黙秘を許さない。利広の問いに答える度に、陽子は己の隠された想いに気づかされたのだ。
一陣の風は、己の物想いに沈みがちな陽子を現に戻した。それは、不快なものではなかった。寧ろ、心待ちにしていたのかもしれない。
いつの間にか傍にいたひと。いつの頃からか、気づけば隣に坐っていた。肩が触れ合うほどすぐ傍に。それでも、陽子はその肩を意識しないようにしていた。それは何故だろう。友や臣に心配をかけるからだろうか。
皆が陽子を見守っていた。桜とともに閉じ籠るこの季節も、それ以外の時も。振り返れば幾多の瞳があることを知っていた。けれど、背に感じるその視線に気づかぬ振りをしていた。それは、何故だろう――。
「私は……」
独りではなかった。
そう思うだけで胸が詰まる。黙して腹に回された温かな手に己の手を重ねた。密やかに笑う唇が耳朶に触れる。促されるままに言葉を紡いだ。
「独り、じゃなかったね……」
口を開くと掠れた声が漏れた。利広は楽しげに笑って首肯する。そうして、言い聞かせるように囁いた。
「そう、君は独りではなかった」
ただ手を伸ばすだけでよかったんだよ、と続け、利広は陽子の腹に回した手に力を籠める。それから、再び陽子の動きを止める一言を放った。
「かの御仁も、それをよく知っていたよ」
2013.12.12.
大変お待たせいたしました。中編「夜想」第2回をお届けいたしました。
今年の桜祭に出せなかった作品でございます。
「突発ぷち利陽祭」開催効果か、何とかここまで書くことができました。
次で終われると思います。
「来訪」連作の中で最も書きたかったお話でございます。
桜の時季までに書き終われることを心の底から願っております。
あまり需要がない作品かと思いますが、お付き合いいただけると嬉しく思います。
2013.12.12. 速世未生 記