夜 想 (最終回)
* * * 5 * * *
暖かな風が吹き抜けた。薄紅の花弁が吹雪のように乱舞する。そして、さわさわと揺れる枝が笑いさざめいた。
ここにいるよ。
そんな囁きすらも聞こえるような気がした。
見事な花を満開にほころばせる桜の古木が胸に甦る。伴侶が陽子のために見つけてくれた、あの美しい桜花が。いつもふたりで眺めた桜の太い幹に背を凭せ掛けているのは、朗らかな笑みを浮かべた伴侶。そして。
執務室から見下ろせる庭院に植えられた細い若木が目に浮かぶ。毎年すくすくと伸び、大きく枝を広げ、桜は豊かに花を咲かせた。見上げる全ての者を抱くかのように。
伴侶が贈ってくれた小さな苗木は、今や見違えるほど太く大きくなっている。その樹の下に集う人々は、昔も今も変わらずに穏やかな笑みを湛え、飽かず淡紅の花を眺めた。
陽子の胸を温める二本の樹。毎年、その開花を待ちかねていた。誇らかに花開く桜を見上げて感嘆の溜息をついた。伴侶と、そして金波宮の仲間たちとともに花見を楽しんだ。伴侶が逝ってしまうまで、ずっと。
愛している、の一言で永遠の別離を告げた伴侶。それは、いつか必ず訪れる現実だった。共に王、どちらが先かは分からない、そう思っていた。けれど、それはただの詭弁だった。
延王が斃れたときに借りを返す。
遠い昔、泰麒捜索の折にそう約束した。あの時から、伴侶が逝き、陽子が残ることは必然だった。稀代の名君と称された大国の王は、始めから何もかも承知していた。ならば、伴侶は残された陽子がどうなるかをも把握していたに違いない。
時が許す限り毎年ともに眺めよう。
かつて、桜の古木の下でそう誓った。その言葉どおり、独りを受け入れてから、陽子はあの桜を訪れてはいない。その上、常に見守り、いつでも手を差し伸べようと後ろに控える仲間をも拒絶し、己の中に閉じ籠っていた。
伴侶はきっと、そんな陽子をも見越していたのだろう。常に先を見据え、確実に手を打つ。延王尚隆はそういうひとだった。そして。
風は風と相通じる。
気儘で気長な、悠久を旅する風。たまさかな邂逅を繰り返し、風は風と交流を深めたのだろうか。風の漢を名乗っていた我が伴侶と、風来坊を自称する太子は。
利広は動きを止めた陽子を静かに抱きしめていた。後ろから、そっと。このひとは、陽子を急かしたことがない。いつもこうして包んでくれた。背に触れる素肌が温めてくれたものは、身体だけではない。
陽子はゆっくりと振り返る。腹に回されていた温かな手は、陽子の動きに合わせて背に移っていった。柔和に笑う男の瞳は、慈愛に満ちている。このひとは、ずっとこんなふうに陽子を見守っていたのだろうか。永い間、ずっと。唇を緩め、陽子は自嘲する。
「私は……愚かだね……」
淋しくて、切なくて、温もりが恋しくて。それでも桜に縋っているだけだった。受けとめてくれるのは桜だけだと思いこんでいた。振り返れば、いつも誰かがそこにいてくれたのに。手を伸ばせば、誰かが抱きとめてくれたのに。それを禁じていたのは、他ならぬ陽子自身だった。命令などする必要もなく、誰もが陽子を見守ってくれていたというのに。
利広だけが、誰も近づけようとしなかった陽子への働きかけを止めなかった。気紛れな春風は、いつも己の物想いに沈む陽子を現に戻した。
「私にとっては幸いだったよ」
お蔭で君を抱くことができたからね、と利広は軽く笑った。陽子は首を横に振る。利広はいつでも陽子を抱けたのに、敢えてそうしなかった。
君が好きだ、と言われる度に、私も好きだよ、と気軽に返していた気がする。苦笑する利広を不思議に思ったし、過剰に反応する友たちを宥めたりもした。分かっていないのは陽子だけ、と笑っていた利広。そう、陽子は利広の本気に気づかぬ振りをしていた。そして、利広はそんな陽子の甘えを永い間許してくれていた。けれど、今は。
埋めようのない虚ろな穴を吹き抜けた暖かな春風。陽子は柔らかな光を浮かべる瞳に心からの笑みを送った。そのまま利広の首に腕を絡める。額を肩にあてて身を預けると、くすりと笑う声がした。
「私でいいの?」
落ちてきたのは、密やかで楽しげな問いかけだった。
* * * 6 * * *
(ほしいものには自ら手を伸ばすんだよ、こうやって)
その言葉どおり、利広は陽子を熱く優しく抱きしめてくれた。気紛れに現れて、時に厳しい問いかけを笑顔で放ち、陽子を揺さぶる風。友でも臣でも王でもない、不思議で稀有なひと。陽子は顔を上げて真っ直ぐに利広を見つめ返した。
「――あなたがいい」
今ならば言い切れる。陽子に必要なのは、優しく厳しいこの風。柔和な瞳に陽子を映した利広は、笑みを湛えて頷いた。陽子は再び利広の肩に頭をつける。首に絡めた腕に力を籠め、小さな声で本音を告げた。
「きっと……初めからあなたに惹かれていた……」
出会いは登極から幾年も経っていない頃。陽子は冗祐と班渠だけを伴に微行を繰り返していた。堯天の飯堂で、男装の陽子を女と見抜いた慧眼の持ち主が利広だった。初対面のはずなのに何故か懐かしいひと。自分でも不思議なほど、すぐに打ち解けられた。そして……それを、伴侶には知られたくないと思った。伴侶がいながら他のひとにも惹かれる己が理解し難かった。だから、ずっと深く考えないようにしていた。
「うん、知ってた」
利広の応えは簡潔だった。笑いを含んだ意地悪な答えに、陽子は思わず顔を上げる。
「私も、かの御仁もね」
利広は事もなげにそう続け、楽しげに陽子を抱きしめた。陽子はまたも目を見張る。どうして、と問う前に、利広は口を継いだ。
「ほんとうは、君を訪ねて金波宮に行くことも考えていたんだよ」
せっかく結んだ縁だからね、と利広は語る。そう、あのとき利広は、陽子が女だということだけではなく、景王であることも見抜いていたのだ。
「でもね、せっかく逃げおおせたと思ったのに、芝草で風漢に会ってしまったんだよ」
まるで昨日のことのようにそう話し、顔を蹙めた利広は深い溜息をつく。陽子は唖然として呟いた。
「――そんな話、聞いたことがない」
「言わなかったからね」
言えるはずもないけど、と利広はまた笑う。ほんとうに、今日は何度このひとに驚かされているのだろう。陽子は口を開けたまま絶句していた。利広は陽子の頬に口づけて、耳許で囁く。
「私は、天啓を信じているんだよ」
だからずっと待っていた。そう言って利広はにっこりと笑う。陽子は戸惑うばかりだった。
「堯天で陽子に会い、芝草で風漢に会った。これも天啓だと思って金波宮を訪ねるのは止めにしたんだ」
でも、と利広は淋しげに笑った。続く沈黙に、陽子は首を傾げる。陽子を抱き寄せた利広は、意を決したように問うてきた。
「かの御仁が……どうして逝ってしまったか知ってる?」
陽子は静かに首を横に振る。延王尚隆が末期を決めたわけを景王陽子に語ることはなかったし、陽子がそれを訊くこともなかった。
「――私に会ってしまったから、だよ」
君に悪いことをした、と掠れた声がした。陽子はくすりと笑う。このひとは、ずっと胸を痛めていたのだろうか。気にすることなどないのに。陽子はその想いを素直に口にする。
「そんなこと、気にしなくていいよ。あのひとがそう言ったとしても、あなたを口実にしただけ」
伴侶は、延王尚隆は、あの頃、全てのものに倦んでいた。ただ、陽子のためだけにこの世に留まってくれていた。陽子はそれを知っていた。利広の呟きが聞こえた。
「君は独りにならない術を知っている、と言っていた」
「伝えてくれてありがとう……」
それは伴侶の言葉だったのか。陽子は納得し、仄かに笑んだ。陽子は独りではなかった。利広がそれを教えてくれた。そして、伴侶は、尚隆は、それを知っていた――。
それでも君は泣かないんだね。
密やかな声が聞こえた。陽子は唇を緩める。伴侶との最後の逢瀬の日、涙など涸れてしまうくらい泣いた。そして、涙を流す陽子は、伴侶が連れて逝った。だから、今の陽子が泣くことはない。けれど、それを利広に告げる必要もないだろう。
「――雁に行こう、ふたりで」
穏やかな笑みを湛え、利広はそう囁く。そして、吐息のような微かな声でそっと続けた。
「いつか行く、と……約束、したから」
陽子を見つめる柔和な瞳が、ふと遠くを見やる。陽子は黙して利広の横顔を眺めた。
悠久の時を渡る風は、何度も邂逅を繰り返す同類の風と深く結びついていた。喪われた伴侶を忘れない陽子を丸ごと受けとめてくれたこのひともまた、逝ってしまった者との遠い約束を胸に秘めていたのだ――。
最後に雁を訪れたのはいつのことだったか。遠い記憶の彼方だった。だからこそ、新しい雁州国を己の眼で見てみることも悪くないだろう。陽子は利広を優しく抱き返し、微笑んで頷いた。
2014.05.23.
中編「夜想」最終回をお届けいたしました。
なんとか桜祭中に仕上げられました。大変お待たせいたしました。
「来訪」連作の中で最も書きたかったお話を書き終えて感無量でございます……。
あまり需要がない作品かと思いますが、お付き合いくださりありがとうございました。
2014.05.24. 速世未生 記