「続」 「管理人作品」 「玄関」

招 聘 (上)

* * *  序 章  * * *

 いつもの如く、ふらりと旅に出ていた。そろそろ帰ろうか。そう思ったのにも、深い意味などなかった。単純に家を思い出しただけだった。それなのに。
「兄さま、お帰りなさい。はい、どうぞ」
「――いきなりだなあ」
 久しぶりに清漢宮に帰郷すると、妹が楽しげに書簡を差し出した。利広は苦笑気味に応えを返す。早く早くと促されて受け取った書状に印された見慣れぬ紋章。利広は思わず眉を顰める。無論、知らぬわけではない。それは北の大国のものであった。
「文姫、これ……」
「留守中に届いたものよ。いったい何の御用かしらね。私が代わりに行きたいくらいだわ」
 その口振りから、中を検めたことが知れる。返信をよろしくね、と言い置いて妹は出ていった。その背を見送ったのち、利広はおもむろに書簡を開く。そして顔を蹙めた。それは、雁州国国主延王から奏南国第二太子への正式な招待状であった。

 延王尚隆とは長い付き合いだ。しかし、それは非公式な邂逅を重ねた末にできた絆に過ぎない。出会う場所はいつも軋み始めた国の首都。身を窶した風来坊同士としてで、公の場で王と太子の立場で顔を合わせたことなど数えるほど、ましてや雁に招待されたことなど一度たりともない。利広にとって、延王尚隆とは即ち風漢。
 用があるならば、ふらりと奏まで来てもおかしくはない身軽な御仁。自国まで利広を呼びつけるとは、その意図はどこにあるのか。二つ返事で従うのは癪に障るが、好奇心を的確に刺激されてしまっては仕方ない。
 利広はひとつ溜息をつき、新たな旅の準備を始めたのだった。

* * *  1  * * *

 雁州国を訪うのは久しぶりだ。豊かに栄える北の大国は、相も変わらず活気に満ち溢れていた。鷹揚な南国とは違う闊達な空気に、利広は唇を緩める。王が如何に無軌道であっても、盤石な基盤を築いた国は簡単に揺らいだりはしない。大国が荒れる、それは国主が乱心したときのみ。そこまで考えて、利広はおもむろに首を横に振った。

(想像の範疇のことは起こらぬ、そんなものはたいがい回避済みだ)

 かつてそう断言したあの延王尚隆が乱心するなど。そんなことが起こるわけがない、とまでは言わないが、もしそうならば、雁の首都がここまで賑やかなはずはない。王都関弓をざっと検分し終えた利広は、雁国国主に指示されたとおり、荘厳なる玄英宮の禁門前に降り立った。
 即座に門卒が現れ、恭しく叩頭した。稀なる騎獣を操る客人の訪問は、事前に周知されているらしい。騶虞すうぐを預け、案内の者に従って中に入ると、早々に宮殿の奥まで連れていかれた。待たされることなくあっさりと国主の執務室に辿りつき、利広は苦笑する。こうもすんなりと大国の中枢に招かれるとは。そんな利広を、明朗な男の声が気安く出迎えた。
「よく来たな」
 奏南国の高官よりも質素な身なりの延王尚隆が満面に笑みを浮かべている。人少な室内、正装に身を包んだ卓郎君利広は気軽に応えを返した。
「そんなに歓待されると、何かあるのかと勘繰ってしまうよ」
「察しがよいではないか」
 にやりと笑う雁国国主はそれ以上語ろうとはしない。利広は嘆息した。これでは話が進まない。おもむろに跪き、深く頭を垂れて丁重に口上を述べた。
「延王にはご機嫌麗しゅうございます。此度は私に御用がおありとのこと、奏南国太子卓郎君利広、至急馳せ参じ仕りました」
「長旅ご苦労だったな、卓郎君」
 ごゆるりと休まれるがよい、と雁州国国主延王尚隆は鷹揚に受け答え、人の悪い笑みを見せた。奏南国太子として正式な挨拶をした利広は、跪礼のまま大きく嘆息する。ゆっくりと顔を上げて苦笑してみせた。
「──呼びつけられた挙句にそんな不穏な応対を受けて、ごゆるりできると思う?」
「お前ならできるだろう?」
 延は楽しげに笑い、利広に榻を指し示した。小さく息をつき、利広はその指示に従う。すると、女官が酒杯と酒肴の支度をした。酒席の準備が調うまで二人はどちらも黙していた。やがて膳立てを終えた女官が頭を下げて退出していく。扉の閉まる音を確認し、利広はおもむろに口を開いた。
「で? 御用はなんだい?」
「──そう急くな」
 笑みを浮かべた国主が殊更ゆっくりと酒杯を上げる。利広は肩を竦め、己も杯を手に取った。
「──何に乾杯するつもり?」

「そうだな……。それでは、麗しき緋色の桜に乾杯」

 しばしの沈黙の後、男は柔らかな声でそう言った。鮮烈な東の国の女王を緋桜に例えるその雅な様は、延王でも風漢でもない。しかし、かつて利広は稀なるその貌を見たことがあった。遠い昔、登極して間もない麗しき女王が治める慶東国の都、堯天で。

 その鮮やかさと潔さで利広を魅了した鮮麗な慶国国主。あのとき、武断の女王は、年相応の少女の貌をして風の漢を名乗る北の大国の王に駆け寄った。そして、彼女を迎えた男は、愛おしげに年若い伴侶を見つめていたのだ。

 一筋縄ではいかない老獪なこの御仁にそんな貌をさせる稀有な娘。その美しい笑みを思い浮かべ、利広は唇を緩める。乾杯、と唱和し、酒を飲み干した利広は再度問うた。
「──いつまで焦らすの?」
「相変わらず、お前は問うてばかりだな」
「破天荒な御仁がまともなことをするなんて、何かあるに決まってる」
 呆れたように苦笑する相手に、利広は即座に切り返した。知らず顔を蹙める利広の酒杯になみなみと酒を注ぎ、延王尚隆は楽しげに笑う。そして。おもむろに口を開いた。

「──これから荒民が増える、と忠告しようと思っただけだ」

* * *  2  * * *

 利広は大国の王を凝視する。咄嗟に言葉が出てこなかった。何気ない口調だが、この上なく不穏なその告白は、何処が、と問うまでもない。延王は、これから雁が荒れる、と言っているのだ。それこそが本題なのか。
 目にしたばかりの光景が胸に甦る。活気に満ち繁栄を謳歌する王都関弓。そして、高岫の果てまで整えられた美しく豊かな国土。愛しみ、育んできたこの国を、この男は捨ててしまうつもりなのか。そう思うと向ける視線がどんどんきつくなっていく。しかし、笑みを湛えたままの雁国国主は、利広から眼を逸らすことなかった。
 本気か、と卓郎君利広は低く問う。相手の意図をその様子から確信しつつも、訊かずにはいられない。延王尚隆は薄く笑んで頷き、無論、と応えを返した。

「でなければ、お前を呼びつけたりはしない」

 何故、と利広は即座に畳みかけた。そんなに不思議なことか、と延は心底意外そうに利広を見やる。国主の執務室にて風漢の貌をする気紛れな男を真っ向から見つめ返し、利広は姿勢を正した。
「延王……茶化すのはお止めください」
 利広は奏南国太子として雁州国国主延王に物申す。男は楽しげに肩を揺らして笑い、ゆったりと返した。
「お前に号を呼ばれると、むず痒いな」
「では、もう一度。何故なのですか、延王」
 あくまでも明言を避ける大国の王に、卓郎君利広は鋭い眼を向ける。延王尚隆は不敵な笑みを浮かべ、厳かに答えた。

「お前に、とうとう巡りあえたからな」

 聞いて利広は眼を瞠る。わけが分からない。戸惑う利広に、延は我が意を得たり、と質の悪い笑みを見せた。利広は大きく息をつく。途轍もなく嫌な予感がした。それでも問い質さずにはいられない。
「──ちょっと待ってよ。どういうこと?」
「お前を呼びつけたのは、これが初めてではない、ということだ」
 断定的で揺るぎないその応え。挑戦的に利広を見据えるその瞳。俄かに心臓が早鐘を打つ。招待状を差し出した妹は、何も言ってはいなかった。しかし、この御仁の言うことがほんとうであるならば。すぐさま問いかけようとした利広を遮り、延王尚隆はきっぱりと断じた。

「──利広、俺は気が長いのだぞ、お前と同様にな」

「──まさか」
 言って利広は大きく眼を見開き、今度こそ絶句した。文姫。利広は悪戯を仕掛けては楽しむ妹の顔を忌々しく思い浮かべる。文姫は何も言わなかった。そう、きっと妹は大国の王の提案に面白がって乗っただけ。退屈凌ぎの共謀気分だったにすぎないのだろう。しかし、利広にとっては。
「いったいいつから……。ああ、もう。勘弁してくれよ」
 脱力した利広は榻にどさりと背を預けた。額に手を当てて天井を見上げる。物騒なことを軽く言ってのけた延王尚隆は楽しげに揶揄した。
「昔、お前が言ったことだろう」
 眼を向けると人の悪い笑みを浮かべる顔があった。取り澄ましたところのない、いつもの風漢だ。利広は眉根を寄せた。確かに昔、酒の肴代わりに延王の最期を予想して聞かせたことがある。この男は他人事のように、悪くない、と笑ったのだ。利広は大きく肩を竦めて応えを返す。
「確かに言った覚えはあるけれど……実際には碁石を数えていたはずだったよね?」
「もっと面白い賭けを思いついただけだ」
 軽口を返されて、利広は大きな溜息をつく。やってられない、とばかりに見やった酒杯はとっくに空だった。利広は酒を手酌し、一気に煽る。
「私を使うのは勘弁してほしかったな」
 恨み言を言わずにはいられない。その気持ちを知ってか知らずか、風漢は破顔した。
「なに、ほんの意趣返しだ。ありがたく受け取れ。だが、文公主は何も知らぬ。逆恨みするなよ」
 何の意趣返しだ。そう思いつつ、訊くまでもない、とも思う。乾杯の際に持ち出された、鮮烈な緋桜。利広をも魅了した、風漢の麗しき伴侶――。
「──ああ言えばこう言う……」
 利広は堪らずに嘆息した。意趣返し、と笑いながら、ありがたく受け取れ、と言い放つ。多分に嫌がらせが入ったその本意を、利広が分からない、とでも思うのだろうか。利広は風漢を見つめ返し、哀しく問うた。

「──何故、彼女を置いて逝けるの?」

2015.05.07.
 短編「招聘」(上)をお届けいたしました。 短編「伝言」の利広視点でございます。 「伝言」から7年も経っておりますね(苦笑)。
 ちびちび書き綴り、漸く出すことができました。 (下)も近々出せると思いますが、気長にお待ちくださいませ。

2015.05.07. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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