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招 聘 (下)

* * *  3  * * *

陽子あれを──連れて逝ってもよいのか?」

 風漢は殊更に人の悪い笑みを向ける。利広は大きな溜息をついた。即行で問い返すのは答えたくないからだと知れる。伴侶である隣国の王を連れて逝く。それは即ち、雁州国だけでなく慶東国をも荒廃に晒すということだ。まともに考えれば有り得る話ではない。利広は嘆息し、風漢を真っ向から見返した。
「そうじゃなくて……」
「俺が滅王にならずに済んだのは、陽子あれのお蔭だ。感謝するのだな」
 風漢は利広の問いを笑いながら遮った。それ以上聞きたくない、そんな拒絶を感じた。それを承知で問いかける。こう対峙していても、乱心しているようには見えないのだ。ならば、何故。
「──そうじゃない。一緒に残る道は、ないの?」
「ないな」
 淀みない即答に、利広は思わず怯む。屈託のない笑みは却って末期の決意を物語っていた。そうと思い立って即断即決する男ではない。先程、自身で深謀遠慮を率直に告げた。利広を招聘したのはこれが初めてではない、と。
「彼女は……知っているの?」
 悠久の時を生きる気の長い御仁は、周到に準備を済ませて博打を打った。ならば当然愛して已まぬ伴侶のことをも考えているだろう。分かっているからこそ、利広は躊躇いがちに問う。風漢は微笑した。

陽子あれは──己が独りにならない術を知っている。──お前と同様にな、利広」

 答えにならない応えを返し、風漢は柔和に利広を見つめる。その瞳には伴侶を愛しむ想いが滲み出ていた。利広は、風の漢を名乗るこの男の孤独を、今更ながら実感する。同じく風と嘯きながら、家族が集う大卓へと帰っていく利広。そして、王のいない国からやってきて、臣と己を同列に扱う陽子。
 紅の女王の鮮やかな笑みを思い浮かべ、利広は深く溜息をつく。風漢は、最愛の伴侶に仔細を告げてはいない。彼女は、未だ、何も知らないのだ。
「それ……彼女に言ってあげたの?」
「俺が言う必要もなかろう?」
 風漢は利広を静かに見据えて眼を眇めた。あくまでも己が告げるつもりはない、と言うのか、この男は。

 ありがたく受け取れ。

 事もなげに言い放たれたその言葉の重みを、ひしひしと感じる。

 陽子。

 利広は胸で呟き、嘆息した。知れば彼女は嘆くだろう。しかし、自身もまた王である彼女は、きっと踏み止まるのだ。でなければ、熱愛する伴侶を置いて逝くこの男が、ここまで泰然とするわけがない。
「──ずるいね、相変わらず……」
 伝言は確かに承った。永い付き合いだ。それが末期の願いならば叶えよう。そうは思う。しかし、それは利広の本意ではない。利広はゆっくりと立ち上がり、風漢を睨めつけた。
「陵墓は──私と彼女の立ち入りを自由にしておいてくれよ」
「手配しておこう」
 大国の王は薄く笑い、鷹揚に頷いた。この男が、こんな言葉で動じるとは思わない。それでも言わねば気が済まない。利広は鋭く言い放った。
「──いつか、二人で行くから」
 そのまま即座に踵を返す。これ以上話すことなどないのだから。長居は無用、とばかりに歩き出す利広の背にかけられた最後の言葉。

「ではまたな、利広」

 聴いて利広は思わず足を止める。いったいどんな貌でそんなことを言うのか。我知らず握った拳が震える。しかし、利広は歯を食い縛り、そのままその場を立ち去った。

 厳重に人払いされた回廊に人影はない。利広は壮麗な国主の執務室の扉に凭れて肩の力を抜く。延王尚隆は末期の決意を語った。恐らく雁の官吏は何も知らない。ならば、誰にも悟らせてはなるまい。そしてそれは、延王尚隆の深謀遠慮の一部。そう思うとまたも怒りが甦る。利広は深呼吸を繰り返した。ゆっくりと歩き出す。そのうちに、控えていた下官が現れて利広を禁門へと導いた。
 蒼穹に舞い上がった利広は眼下の王都関弓を見下ろす。繁栄を謳歌する活気に満ちた都。これで見納めだ。稀代の名君と称えられた王を近く喪う国を悼み、卓郎君利広は瞑目した。

* * *  4  * * *

 北の大国の主が語った昏い告白を胸に秘め、奏南国太子は恭州国国主が住まう霜楓宮を訪ねる。突然の訪問に、供王珠晶は常の如く小言とともに卓郎君利広を迎え入れた。
「相も変わらず無礼な訪問ね」
「――人払いを」
 いつもの軽口を返すことすら惜しんで低く囁き、利広は少女王を見つめる。眼を逸らすことなく頷き、供王は直ちに全ての者を下がらせた。
 静まり返った室内、利広は言葉を手繰りあぐねて窓の外を見やる。これから起こる凶事を知らせなければならない。落ちることがないと謳われた大国の白雉が落ちる、と警告を与えなければならない。雁州国国主延王尚隆はそのために奏南国太子卓郎君利広を招聘したのだろうから。それなのに。
 無為な時間が過ぎていく。やがて、小さな溜息とともに湯気の立つ茶杯が差し出された。誇り高い女王が自ら運んだその茶杯を受け取り、利広は重い口を開く。窓の外に眼を向けたままに。
「ねえ、珠晶。王はどうして斃れるのだと思う?」

「王は自ら斃れるものよ。他に理由がある?」

 女王の即答は揺るぎなく、しかも簡潔だった。利広はおもむろに珠晶を見つめる。王の矜持に満ちた勁い瞳が静かに見つめ返していた。王は王を識る。東の国の女王に同じことを問うても、きっと同様の答えが返ってくるのだろう。利広は僅かに唇をほころばせ、そうだよね、と呟いた。
「言いたいことは、はっきり言ったほうがいいんじゃないの?」
 軽く溜息をつき、供王珠晶は利広を睨めつける。何を聞いても揺らがない。そんな強い意志を感じ、利広は唇を緩める。
「──変わらないね、珠晶」
「人はそう変わるものじゃない、っていうのは利広の口癖でしょ」
 珠晶は即座に切り返す。利広は大きく破顔した。その変わらなさに心癒される。珠晶は眉根を寄せて利広を見つめていた。
「それとも……変わってしまったひとがいるの?」
 少し躊躇うように問いかける珠晶は年相応の少女のように見える。その様はもう一人の歳若い女王を彷彿させた。そして、何ら変わりなく利広と対峙した大国の王を。
「いや……哀しいほど、変わっていなかった」

 人はそう変わるものではない。

 風漢は、いや、延王尚隆は、そのままだった。最初に出会ったのがいつだったか覚えていないほど悠久の時の中で、軋み始めた国の首都で、思わぬ邂逅を繰り返した。いつしか互いの正体を察しても――。
 心尽くしの茶を飲み干して、利広はゆっくりと立ち上がった。珠晶は物問いたげに見つめている。しかし、何も言う必要はない。利広は笑みを浮かべた。
「邪魔したね、珠晶」
 利広、と不満げに珠晶は呟く。利広は敢えて明るい笑みを湛えて告げた。
「──でも、君は、いつも自分のすべきことを弁えているから助かるよ」
 供王珠晶は何も問わなかった。何も言えなかったのかもしれない。人払いを願いながら肝心なことは仄めかしただけ。それでも、珠晶は利広が帯びた重責を分かってくれたのだろう。事が起きても珠晶ならば大丈夫。的確に動いてくれるはず。
 霜楓宮を後にし、利広は再び蒼穹に舞い上がる。恭州国王都連檣も繁栄を謳歌していた。眼下を見下ろし、利広は東の国を思い浮かべる。景王陽子が愛する薄紅の花に包まれた王都堯天を。
 かの御仁は、愛する伴侶にどうやって末期の決意を語るのだろう。かの女王は、それをどう受け止めるのだろう。互いに王、いつかはこんな日がやってくる。神なる王に寿命はない。が、王は常に足許に潜む暗闇と戦っているのだ。
 延王尚隆はその暗闇を語らなかった。末期を告げるその瞳に翳りは終ぞ浮かばなかった。かの御仁は、何故、決意したのだろう。

 漸くお前に出会えた。

 そう告げて笑った顔が忘れられない。託されたものの重みをも、また。利広は瞑目する。愛しい女の緋桜の如き美しい笑みは、胸の痛みを呼び覚ますのだった。

* * *  終 章  * * *

 奏南国王都隆洽。帰り着いた南国の都は鷹揚に栄えていた。北の都との空気の違いを改めて感じ、利広は眼を閉じる。そしてまた、己がこの安寧を守る立場にあることを痛感した。

 いつもの如く清漢宮後宮の露台に降り立つ。窓から入ると、相変わらず大卓に家族が集っていた。帰山する度に胸安らぐ光景も、今回は利広の心を動かすことなかった。
「お早いお帰りで」
「そこは出入り口じゃないと言っているだろう」
「まあ、掛けなさい」
「お帰りなさいませ」
 英清君利達が、宗后妃明嬉が、宗王先進が、宗麟昭彰が、一斉に口を開く。その中で、文公主文姫の声が鮮明に耳に残った。

「御用は何だったの?」

 妹の無邪気な問いかけに、利広は黙して口許を引き締める。胸に甦る人の悪い笑み。何も知らぬ公主を恨むな、と釘を刺した稀代の名君。
 押し黙る利広に、察しのよい兄が眉を上げる。が、問いかけたのは父だった。
「どうやら慶事ではなさそうだな」
 聞いて利広は声なく頷く。茶を注ぐ母の眼が翳った。賑やかだった場に緊張が走り、皆が利広を注視する。妹が不安げな貌をしていた。利広は茶を啜り、喉を湿す。そして、おもむろに口を開いた。

「――近々、雁の白雉が落ちます」

 しんと静まった暖かな堂室の中、利広の暗い一言だけが冷たく響き渡るのだった。

2015.05.12.
 短編「招聘(下)」をお届けいたしました。 短編「伝言」の利広視点でございます。
 中編「夜想」を書きながらちびちび書き綴っておりました。 「伝言」を書いていた時にはさっぱり解らなかった 利広の気持ちを理解できたように思います。
 お気に召していただけると幸いでございます。

2015.05.12. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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