月 影 (1)
* * * 1 * * *
「困ったことになったな」
尚隆は卓子に頬杖をつき、溜息をついた。
「せっかく景王を見出したのに、本人は玉座に興味がないと言う」
六太は肩を竦め、両手を広げた。
「そんなこと言ったってしょうがねえだろ。本人がやだと言うのに、おれたちが無理強いするわけにもいかないさ」
「それが麒麟の慈悲というものか?」
「だってそうだろ」
「──なかなかな王気を具えていると思うのだがな……」
尚隆の呟きは残念そうだった。
「ずいぶん気に入ったみたいだな」
六太は面白そうに言い、尚隆を見た。尚隆は口許に笑みを浮かべたが、何も言わなかった。
雁州国首都、関弓。その雲をも凌ぐ関弓山の頂に、国主延王の住まう玄英宮がある。夜陰に紛れ、延王尚隆は、密かに賓客を招いた。慶東国の新しき国主、真の景王である。
隣国、慶の内乱は、かねてから尚隆にとって頭の痛いことのひとつだった。前国主予王が慶から女を追放し、雁にも荒民が溢れた。その後、新王践祚の報を聞いたが鳳が鳴かない。偽王だった。しかし民衆にはそれを知る術もない。新王に期待し国に戻る民と、戦を厭って国を出る民とで国境は大混乱だった。
予王が崩御した後、慶東国宰輔景麒は新王の選定を急いだ。新王が玉座に就かねば混乱は収まらないのだが、なかなか見つからない。景麒は王が蓬莱にいるのではないかと考え、隣国の胎果、雁州国宰輔延麒に相談を持ちかけた。延麒六太の助言を受け、景麒は蓬莱へ向かった。そして消息を絶った。
尚隆は密かに慶へ六太を遣わし内情を調べさせていた。景麒は偽王に捕らわれていた。その最中、尚隆は党に届けられた書状を手にしたのである。
差出人は張清。巧国の者だった。内容は、蓬莱より巧国に流された新景王が胎果の延王を頼り雁国に入った、というものだった。簡潔にして明快、そして乱れのない美しい文字だった。
真偽を自ら確かめなければならぬ、と尚隆は思った。折しも巧国の塙王より、雁国に逃げこんだ海客を引き渡すように、との強い要請を受けたばかりだった。おそらくこの情報は真だ、と妙な確信があった。そしてそのとおり、尚隆は景王陽子を見出したのである。
陽子は雁の街中で妖魔に襲われていた。尚隆はその身を保護するため、陽子と書状を書いた張清こと楽俊を玄英宮に連れ帰った。そこで陽子の話を一通り聞いた尚隆は愕然とした。偽王を打ち破るための助力を請うだろうと思われたその口が語ったのは、故郷に帰りたい、ただそれだけだったのだ。
「時間をくれと言っていたろう。何も知らずに連れて来られたみたいだから、頭の整理も必要だろうし……。もしかしたら気が変わるかもしれないしさ」
「だといいがな……」
六太の慰めも、尚隆には気休めにしか聞こえなかった。
* * * 2 * * *
広い牀の片隅に、陽子は丸くなって眠っていた。尚隆は薄く笑んだ。牀の傍らにそっと腰を下ろし、しばし陽子の顔を見つめた。
眠れずにいた。そしてここまで来てしまった。陽子の顔が見たくなったのだった。
頬は削げ、顔色も悪い。涙の跡が一筋残っていた。そっと手を伸ばしかけて、尚隆は躊躇った。陽子の睫毛が微かに動いた。尚隆が手を引いたその瞬間、陽子は剣を構え、尚隆を見据えた。
「何者!」
「物騒なお出迎えだな」
「──延王。何用ですか、こんな夜更けに」
陽子は剣を下ろし、息をつく。
「夜這いに」
「……?」
眉を顰める陽子に、尚隆は軽く笑った。
「知らぬか。あちらにはもうそういう風習はないのかな? それとも……」
尚隆は人の悪い笑みを見せた。陽子は憮然とした表情で尚隆を見つめ返す。
「そんな顔をするものではない。ちょっとお前の顔を見たくなっただけだ。思い悩んでいたようだったしな」
楽俊と陽子の会話は、六太の使令によって尚隆には筒抜けだった。が、もちろん陽子には伏せられていた。
「その物騒なものは置くのだな。ここは雁の奥殿。いかな敵も入っては来られまいよ」
陽子は無言で頷き、剣を鞘に収めた。
「しかし、見事な腕だな。あちらではもう剣などなくても暮らしていけたろうに。……不憫だな。こちらで磨かれた技か?」
陽子は目を見開き、俯く。苦い沈黙──その胸に去来するものが見えるような気がした。
六太により事前に説明され、納得して虚海を渡った尚隆にとっても、この世界はかなり異質なものだった。妖魔に襲われ、切羽詰まった景麒に、何も聞かされずに連れて来られた陽子にとっては──。
「よく生き延びたものだ」
尚隆は感嘆した。契約によりほとんど王となり、怪我をしにくい身体になったとはいえ、この娘は悪意により襲ってくる妖魔を躱しながら、巧からこの雁まで辿りついたのだ。遠大な旅だったろう。
陽子は無言だった。尚隆は陽子の頬に触れた。濡れた温かいものが手に残る。尚隆はふっと息をつくと、陽子をそっと抱き寄せた。陽子は少し身動ぎをし、尚隆の手から逃れようと抗った。
「延王の前で泣くわけにはいかない──」
囁くような微かな声。──そうか、と尚隆は笑った。この娘は、もう王の矜持を持っている。──愛しい、と思った。
初めて陽子を見た時の衝撃を思い出す。「雁国に景王有り」との書状を受け取り、自ら迎えに出向いた尚隆だった。事実確認と景王の為人の確認。軽い興味で出かけてみたのだが、尚隆はひと目で景王をそれと認識した。
襲いくる妖魔に、独りで立ち向かい、薙ぎ払う、少年のような娘。紅蓮の炎を纏うこの娘を、殺させてはなるまい、と強く思った。助太刀に驚く娘を諌め、戦いに専念させた。その後、尚隆に向けられた、臆することのない勁い光を帯びた翠の瞳──。天啓が下りた、と不覚にも思った。この娘が、運命なのだと。
「無理をするな。ここには他には誰もいない。泣ける時に泣いておけ。これからはそんな暇は無くなるぞ」
景麒の使令は憑いているだろうが、と思ったが口には出すまい。今は安心させて休ませねば、と思う。この娘は、気力体力ともに限界だろう。
陽子は大きく息をついた。気が緩んだのだろう、もう涙を堪えはしなかった。尚隆は陽子を抱えたまま牀に横になった。そして、背にかかる髪を撫でながら言った。
「眠るがいい……」
陽子は抗わなかった。尚隆は腕の中でしゃくりあげる陽子を抱き寄せた。啜り泣きはじきに寝息になった。
尚隆は月明かりが薄暮に紛れるまでずっと陽子を眺めていた。穏やかな顔をしていた。
「幼いな……」
夜這いも知らぬとは。無防備に眠る陽子を愛しく思い、尚隆は微笑した。安心させてやりたかった娘を自らの腕に抱き、自身もまた驚くほど安らいでいた。
* * * 3 * * *
翌朝、大分顔色のよくなった陽子の答えは、否、だった。尚隆も六太も、そして楽俊も失望を隠せなかった。ただ、それが結論ではない、景麒を取り戻すことに異存はない、と陽子は言った。
「──やっぱり何も知らねえな。景麒の奴、ほんとに説明もなしに連れてきたのな」
六太はぶつぶつ文句を言っていた。
朝食の席で陽子と話をした。六太が危惧したとおり、陽子はこちらのことは何も知らなかった。王が虚海を渡るためには蝕を起こさなければならないことも、蝕はこちらにもあちらにも災害を起こすということも。
ただ、蓬莱に帰っても、塙王が妖魔を送ってくるかもしれないことは分かっていた。あちらへ帰る前に塙王を討っておくわけにはいかないか、と訊いてきたのだ。王が犯してはならない罪を教えなければならなかった。
六太は気を取り直して言った。
「それでも、知ろうとする気はあるみたいだし、少し柔らかくなったな。……お前、何かしたか?」
「いや、何も」
してない、と答えた尚隆を、六太は疑わしげに見つめる。
「なんか怪しんだよな、お前……」
横目で見る六太の視線を、尚隆は意にも介さなかった。口許に笑みを浮かべ、六太を促す。
「さて、戦になるぞ。やっとお前の同輩を救いに行ける」
「ああ。麒麟を戦場のど真ん中に置きやがって……。早く助けに行ってやんないと」
六太は血を厭う麒麟の性質を考えない偽王軍に憤慨していた。捕らわれた景麒の身体が心配だった。戦は嫌いだが、正統な景王である陽子が仕掛けなければ景麒を救うことはできないのだ。
「陽子がそれだけでも了承してくれてよかったよ」
「そうだな。さて、しばらくあの二人の相手はしてやれない。六太──」
「わかってるって。もうつけてある」
尚隆が言外に含んだ意味を、六太は了解していた。朝食後から既に六太は使令を陽子に張りつけてあった。
夜が更けた頃、六太の使令が戻り、陽子が水禺刀を用いて塙王の真意を確かめたこと、楽俊が陽子を説得したことを報告した。
「……全く、どこが無理でどうしてダメなんだか」
「たしかに、うまく操る術を覚えれば過去未来、千里の彼方のことでも映し出すと教えてやったがな」
六太は呆れ顔だった。尚隆も苦笑していた。
とても王になどなれない、と陽子は尻込みしていた。が、慶国の宝重である水禺刀をそれと知って操り、見事に己の知りたいことを掴んで見せたのだ。水禺刀の主は景王のみ。そして、水禺刀は主を幻で惑わせる。それを御した陽子には、見たくないはずの過去の誤ちを、受け入れる度量がある。それを、王の資質というのではないか。
「尚隆の科白じゃないけど、なかなかな王気を見せてくれるよな。塙王が恐れるわけだ」
「その塙王だが……胎果は国を治める秘訣を知っている、ときたか。そんなことで襲われ続けたとは、陽子も気の毒に。国を治める秘訣など、俺が教えて欲しいくらいだ」
愚かな、と尚隆は嘆息した。国を営むことは簡単なことではない。どの王も精一杯やっている。それでも力及ばず沈んでいく。尚隆は五百年の間、いくつもの王朝の興亡を見つめてきた。国を治める秘訣などない。ただ、想像できる範疇のことは回避してきた。そうでなければ破格と呼ばれるほど生き永らえることはできないのだ。
「愚かさゆえに自ら滅びるのは勝手だが、隣国の王を道連れにしようとは感心せんな」
「ほんとに陽子が気の毒だ。お前のとばっちりを受けるなんて。やっぱり、お前が責任を取って助太刀してやんなきゃな!」
六太が軽く笑った。尚隆は嫌な顔をした。
「俺のせいだとぬかすか」
「だってお前は疫病神だもんな」
六太は大口を開けて笑いころげた。尚隆は渋い顔をし、立ち上がった。
「どうした?」
「もう寝る」
背を向けて堂室を出て行く尚隆を、六太は妙な笑みで見送った。
「月影」は私が初めて書いた二次小説です。
書いても書いても終わらなくて、途中で嫌になったりしました。
それだけに、書き上げたときは物凄く充実感がありました。
今回、ルビを足そうと思い、挿入してみたら……入らない!
ギチギチに詰め込みすぎていたんですね〜。
というわけで、少しゆとりを持つため編集しなおしてみました。
ついでに背景も変えてみました。
2006.02.08. 速世未生 記