「続」 「戻」 「目次」 「玄関」

月 影げつえい (2)

* * *  4  * * *

 月光が射しこんでいた。
 陽子はやはり、広い牀の片隅に丸くなって眠っていた。もう少し真ん中で寝ればよかろうに、と尚隆は苦笑した。貧しい旅に慣れすぎてしまったのだろうか。
 尚隆は牀の傍に腰を下ろし、陽子の寝顔を眺めていた。気配を感じたのか、微かに睫毛が動き、陽子は目を開けた。
「──お母さん?」
 小さな呟きに、尚隆はくすりと笑った。陽子の頬が紅潮する。慌てて飛び起きた陽子に、尚隆は人の悪い笑みを浮かべ、おはよう、と言ってみた。陽子の顔が見る間に真っ赤に染まる。
「……まだ、おはよう、の時間ではないと思いますが、今宵は何用ですか?」
 それでも陽子は気丈に言ってのけた。今晩は剣を向けられずに済んだな、と尚隆は軽く笑った。

「お前を、口説きにきた」

 尚隆は悪戯っぽい顔をして言った。陽子は無言で尚隆を睨めつける。尚隆はそんな視線をものともせずに言葉をかけた。
「顔色が良くなったな」
「……よく眠れましたから。昨日はありがとうございました。お礼が遅くなってしまって……」
 陽子は真顔になり、頭を下げた。その頬はまだ少し紅潮している。昨夜の出来事を恥じているようだった。
「礼には及ばんよ。俺のためでもあるのだからな」
 翠の瞳が真っ直ぐに見つめてくる。尚隆は微笑でその視線を受けとめ、静かに語りかけた。
「天啓を受け、延麒は俺を王にした。天命を以って景麒がお前を王にした。そして、天啓が下りた。お前が俺の運命だ」
 陽子は目を見開き、息を呑んだ。
「天啓──?」
「無理強いはしない。選ぶのはお前だ」
 でも、と陽子は目を逸らす。
蓬莱あちらへ帰るときは送ってくださると言われましたよね?」
「無論だ。言は違えん。あちらへ帰るかこちらに残るか──選ぶのはお前なのだ」
 陽子は俯いた。重い沈黙が流れる。尚隆は陽子の顔を上向かせ、そっと唇を重ねた。陽子の肩がぴくりと跳ねた。尚隆は唇を離し、陽子をじっと見つめた。

「お前が、俺の運命だ」

 威圧したくはない。無理を強いたくはない。だが、陽子を欲する想いは止められなかった。陽子の厭う浅ましさをも一緒に受け入れたい、と思った。そして、陽子に受け入れて欲しい、と切に思う──。
「延王、私は──」
「俺は、小松尚隆なおたかという。おんでショウリュウと呼ぶ者も多いが、お前に
は──
 なおたか、と呼んで欲しい。今更あちらが恋しいわけではない、が。
尚隆なおたか……」
 陽子は俯いてしばし黙し、そして小さく呟いた。

「──私が延王あなたに相応しいとは思えない……」

「それを決めるのは、お前ではないな」
 尚隆は片眉を上げ、微笑した。陽子は、はっと顔を上げ、尚隆を見返す。輝かしい瞳だ。この娘は、己の力をまだ分かっていない。
「俺に相応しい伴侶おんなは、俺が選ぶ。他人ひとがどう思おうと関係ないな。そして、お前が選ぶのだ、お前の道を」
 そう諭す尚隆を、陽子は無言で見つめ、やがて微かに頷いた。
「──自信は持てないけれど……やってみます」
 声は小さいが、強い口調だった。尚隆を見上げるその瞳は、初めて出会ったときと同じ、勁い光を帯びていた。尚隆は破顔した。思わず陽子を抱き寄せ、もう一度唇を重ねた。陽子は小さく震えながらも、尚隆を受け入れた。
「これから忙しくなるな。まずは景麒の奪還からだ。でもその前に──
 尚隆は陽子の耳許で囁いた。

「夜這いの意味を教えてやろう」

 陽子は耳まで赤くなった。上目遣いに尚隆を睨む。
「からかわないでください」
「怖いか?」
 笑い含みに訊いてみる。陽子は首を横に振った。少し意地悪をしてみたくなった。尚隆は陽子を牀に押し倒し、長い口づけをした。唇を離して見つめたとき、陽子はもう泣きそうだった。尚隆はくつくつと笑った。
「──正直に言ったほうがいいと思うぞ」
 陽子はそれでも首を横に振り、涙目で尚隆を睨めつける。尚隆は楽しげに笑った。なんと気が強い。これは苦労をしそうだ。だが、この手応えを求めていたのかもしれない。
 陽子は尚隆の腕から逃れようと身を捩った。もちろん尚隆はその身体に自由を与えなかった。陽子の眼から涙が零れた。しかし、その瞳は勁い色を湛え、尚隆の眼をはたと捕らえた。
「──嬲るのは止めてほしい。あなたは私をどうしたいの!? あちらへ帰るかこちらに残るか、どちらを選んでも、私はあなたに頼ることしかできないただの小娘に過ぎないというのに!」
 激しい問いかけ。翠の双眸が炎となって燃えている。尚隆は沈黙した。それでも陽子を離す気にはなれなかった。今離せば運命は去っていってしまう、そんな不安に駆られた。尚隆は陽子の涙を唇で拭った。
「嬲るつもりなど毛頭ないよ。そんなことをしたら、俺の分がますます悪くなる。──分かっているか? 小娘に過ぎないお前は、まだ俺に屈したわけではない。お前の主はお前のみ。俺はただ、お前の選択を待つことしかできぬ」
 噛んで含めるようにそう言い、尚隆は苦笑する。
「無体なことはせぬ。お前に嫌われたくないからな」
 陽子は目を見開いた。そして自失したように身体の力を抜いた。やがて陽子はくすりと笑った。それは自嘲めいていた。
「──稀代の名君が、取るに足らない小娘の機嫌を取り結ぼうとなさるわけ?」
「別に、俺が稀代の名君というわけではないが──
 それは他者の勝手な評価だ。王に選ばれし者は、誰もが名君の素質があるはず。少なくとも尚隆はそう思う。
「小娘が己の目を信じられないのならば、お前の言う、稀代の名君の見る目を信じてみる気はないか?」
 少しおどけた尚隆を、陽子は静かな眼で見つめる。。やがて決意に満ちた口調で答えた。
「……信じてみましょう」
 穏やかな微笑を見せ、陽子は目を閉じた。尚隆はもう一度陽子を抱き寄せ、その朱唇に唇を重ねた。

「お前を得て、俺がどんなに嬉しいか、お前には分かるまい……」

 低く囁くと、尚隆は陽子をきつく抱きしめた。陽子はもう抗わなかった。

 目覚めたとき、最初に目に入ったのは緋色の髪だった。腕に確かな重みと温もりを感じた。隣で陽子が寝入っていた。その安らかな寝顔をしばし眺め、尚隆は微笑した。
 月は曙に隠れて見えなくなっていた。尚隆は服を着ると、眠っている陽子の頬に軽く口づけた。陽子はふと目を開けた。
「──女官がお前を起こしにくるだろう。その前に夜着を着ておけよ」
 陽子は真っ赤になった。尚隆は笑みを残して堂室を出て行った。

「尚隆、お前──」
 自室に戻ると、六太が待ちかまえていた。六太は尚隆が姿を見せるなり怒声を上げた。
「信じられねえな、お前って奴は! 嫁をもらうなんて冗談じゃねえとか言ってたくせに!」
「それはそうだろう。まさか隣国の王をさいにするわけにはいかぬ」
 尚隆はあくまで涼しい顔で答えた。六太は呆れて絶句した。頭を抱え、それでも言い募る。
「まさか……脅迫したわけじゃねえだろうな? 助力と引きかえに」
「そんなことはせぬ。──天啓だ。陽子あれは俺の運命だ。麒麟の気持ちがよく分かったぞ。天啓には本当に逆らえぬものなのだな」
 軽く笑う尚隆に、六太は卓子から飛び降りて詰め寄った。
「何ふざけてんだ、お前は! こともあろうに、隣国の王に手を出しておいて、天啓だと!?」
「六太、風が吹くぞ。嵐になる──陽子を中心にな。俺は確かに天意を感じた。──まあしばらくは退屈せずにすみそうだ」
 太い笑みを見せた尚隆に、六太はもう何も言えなかった。
 今回のサイト改装で、原稿用紙120枚にもなるこの長編を、 7つにしか分けていないことに気づいてしまいました。 長すぎて、携帯で見たとき、切れちゃうんです。 なので、今回はもう少し分けることにいたします。 実は、この4章だけで、10枚分の量がありました……。驚きました!
 内容的には、尚隆と陽子が初めて結ばれる、思い出深い場面でございます。 今読むと、少し照れますが……。

2007.08.10. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「続」 「戻」 「目次」 「玄関」