月 影 (最終回)
* * * 16 * * *
とうとう玄英宮を去る日がきた。景王陽子はこれから景麒とともに蓬山に向かう。天勅を受け、正式に景王と認められるために。
「──楽俊、今は、慎みがないとは言わないでくれ」
陽子は楽俊の灰茶色の毛並みを抱きしめる。楽俊に拾われてなければ、陽子は雁に辿りつくことができなかった。もし、辿りつけても、延王尚隆を信頼することはできなかっただろう。人の温かさを、人を信じることを教えてくれた恩人──万感の思いが込みあげる。
「ありがとう、楽俊」
「──陽子……。おいらこそ、陽子のお陰で雁の大学を受けさせてもらえるんだ。こりゃあ、できすぎじゃねえかって思ってるんだぞ」
楽俊はそう言って恐縮する。そんな姿も謙虚な楽俊らしかった。陽子は笑みを浮かべる。
「──大学に無事受かるよう、応援しているよ」
「大丈夫だ、陽子。楽俊は優秀だから」
延麒六太が軽く請け負う。延王尚隆も笑顔で頷いた。楽俊はまた尻尾をぴんと立てて恐縮する。
「延王と延台輔のご期待に沿うように、頑張ります」
「そんなに畏まるなって」
六太が笑う。陽子もまた笑顔を見せた。雁に残っても、楽俊は、きっと大丈夫。そして、陽子自身も新たな旅立ちの日を迎える。
「延王、延麒、本当にお世話になりました。即位式には、是非お越しください」
景王陽子は笑顔で頭を下げた。隣で景麒も一緒に頭を下げる。延王尚隆が片眉を上げて苦笑する。
「おやおや、即位式まで行ってはいけないのか? つれないな」
「──稀代の名君に、見苦しい様をお見せしたくはないので」
そう言って陽子は悪戯っぽく笑った。その姿は自然体で、過度の緊張は見られない。尚隆は口の端で笑った。
「見苦しい様も、是非拝見させてもらいたいものだが」
「そんな意地悪ばかり言ってると、即位式も延王だけお呼びしませんよ」
勁い視線を向けてそう笑む陽子に、六太は破顔した。
「そうだな、陽子。おれと楽俊だけで充分だ」
「六太。調子に乗るな」
渋い顔をする尚隆に、皆が笑顔を見せる。別れのときとは思えない和やかな雰囲気は、それだけ皆が別れを惜しんでいるということだった。しかし。
陽子は、この別れが独り立ちの時だと思っている。今まで、尚隆が陰になり日向になり、陽子を支えてくれた。いつまでも延王の手を煩わせるわけにはいかないだろう。いろいろなことを教えてもらった。王の自覚を育ててくれたひと。
そして、ただひとりの、己の伴侶。
偉大な隣国の王に恥じない者になりたい。このひとに相応しい伴侶に。即位式には、慶の国主景王として、胸を張ってこのひとを迎えたい。そう思う陽子の瞳には、別れを惜しむ涙はなかった。
逞しくなったものだ、と延麒六太は感心した。玉座に就くことを拒んでいた娘は、己の麒麟を救いだし、偽王を倒し、臆せず大国雁の国主延王尚隆と対峙する。その思いは尚隆も同じらしい。目を細めて成長した景王陽子を見つめる。
陽子は班渠に跨り、毅然と前を見つめた。驃騎に跨った景麒とともに、景王陽子は玄英宮をあとにした。蓬山に向かうその後ろ姿を、延王尚隆は延麒六太とともに笑顔で見送った。
景王陽子、お前の未来に幸あれ。
そう願わずにはいられない。身一つで雁に逃げこんできた娘。その鮮やかな緋色の髪と、輝かしい翠玉の瞳のほかには、飾るものも持たなかった女王。ひと目で心を奪われた。
紅の光を纏う鮮烈な娘。己の愚かさを知り、玉座の重みに身を竦ませ、王になることを拒んだ。それは王の責を知る印。はたして、己の運命を受け入れた女王は劇的な変貌を遂げた。
揺るぎなく勁い瞳で前を見つめる。その反面、独りになったときに見せる涙の頼りなさ。女王と少女の狭間で揺らぐその様は、尚隆をいっそう惹きつける。その細い肩に載せられた何もかもを代わりに引き受け、甘やかしてやりたかった。そうされることを拒む矜持を持つ娘だからこそ。
出会ってから別れるまで、一緒にいられたのは、たかだか半月。しかし、尚隆がこれまで過ごした五百年の中でも、屈指の濃密な時間だった。
一閃の紅の輝きを残し、隣国の麗しき女王は去っていった。
「慶国に一声──景王即位」
景王陽子が蓬山に向かった数日後、高らかに声を上げる鳳に、延王尚隆は微笑んだ。延麒六太が感慨深げに呟いた。
「──無事に終わったみたいだな」
「六太」
尚隆は咎める声を上げる。六太は横目で尚隆を見た。
「なんだよ」
「忘れたか、終わりではないぞ。陽子の本当の試練はこれから始まるのだ」
王朝はいつも混乱から始まる。──遥か昔、尚隆が雁に降りた時も、もちろんそうだった。
「──そうだったな。荒れはてた国に、海千山千の官僚ども。新王は胎果の小娘ときたもんだ。さてさて、どうなることやら……」
実際に慶国に向かい、州候たちを説得して回った延麒六太の言葉には重みがあった。延王尚隆は口許に笑みを浮かべる。
「即位式には呼んでもらえるだろう。まあ、その前に、助力しに行ってもらおうか」
「──へえ、お前、自分で行かねえんだ」
「荒民問題の相談をしに行ってこい。雁国宰輔自らのお出ましに、官僚どもは驚くだろうよ」
六太の揶揄を無視し、尚隆はにやりと笑った。本音を言えば自分が行きたい。だが、登極直後の朝に他国の王が乗りこめば、波風が立つだろう。女王は延王の傀儡だとか難癖つける者も出てくるかもしれない。下手をすれば、下世話な醜聞を広げられる恐れもある。それでは伴侶が困るだろう。
王の矜持を持つ伴侶は、独り立ちを望んでいる。その気持ちを大事にしてやりたい。
「へいへい、ついでに楽俊の様子も教えといてやろう」
六太も笑った。本当に、自分で行きたいだろうに。そう思い、それ以上揶揄するのは止めにした。尚隆が即位式までは行かないと決めたのは、陽子を守りたいからだろう。今、延王自ら慶に行っては、景王は色仕掛けで延王の助力を得た、などと言われかねない。それでは陽子が傷つく。
それに、陽子の気持ちを慮っているのもあるだろう。小娘のくせに誇り高い新王は、稀代の名君に整う前の朝を見せたくないらしいから。
「こんなバカ殿に見られたって、なんにも恥ずかしくないと思うけどな」
つい口に出した言葉を、六太の主は聞きとがめた。
「すれっからしのお前と違って、景王には俺はちゃんと名君に見えるのだ」
「恐ろしい誤解だよな……そのうち莫迦が露見するから、その前におれがちゃんと説明しておこう。あることあることあること……」
「六太。陽子に余計なことは言うな」
尚隆は渋面を作った。六太は爆笑する。
「あることばっかじゃねえか」
やがて笑いを収めた六太は、目尻の涙を拭い、ぽつりと呟く。
「──頑張ってほしいなぁ」
遠い目をする六太に、尚隆は微笑する。
「大丈夫だ、陽子だからな」
尚隆が選んだ、ただひとりの伴侶。鮮やかな紅の光を纏い、輝かしい翠玉の瞳を持つ、東の国の女王を思う。きっと大丈夫。何が起ころうと、景王陽子はその勁い意志で乗り越えていくだろう。それだけの力を持つ娘だ。
ずっと、その奮闘を見守っていこう。遠く離れていても。久遠の時を共に歩もう。天命尽きるその日まで。
2005.07.28.
「月影」は私が書いた初めての二次小説。
何度も詰まりながらも、最後の二文に辿りついたときは、感無量でした。
結局、原稿用紙120枚分を4ヶ月近くかけたことになります。
楽しくもしんどい作業でした。
そして、楽しくしんどい作業をこれからも続けていこう、
と思わせてくれた思い入れ深い作品です。
初めてアップしたときは、ところどころ端折りながらも三つに分けました。
その後、正式にサイトを開いたときには五つに分け、あまりの重さに七つに分け、
そして、今回ようやく携帯でも切れないサイズになったのではないかと思います。
切れなければよいなと心から願います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
お気に召していただければ幸いです。
2007.12.04. 速世未生 記