月 影 (10)
* * * 14 * * *
通いなれた尚隆の堂室までの道のり。もう、ここをこんなふうに歩くこともなくなる。そう考えると切なかった。そして陽子は華美ではないが壮麗な扉を叩く。
「開いてるぞ」
明朗な男の声が中から響く。この声にいつも慰められてきた。そう思いつつ、陽子は堂室の中に入った。
「ご苦労だったな」
延王尚隆は優しい笑みで陽子を迎えた。明るい時間にはあまり見せないその貌に、陽子は胸の痛みを感じた。
このひとは、知っている。別れが近いことを。このひとは、最初から知っていた。こんな日が来ることを。
「──どうした?」
扉に凭れて立ち尽くす陽子に、尚隆は笑みを湛えて訊ねる。それに答えず陽子は目を伏せた。
責める言葉が、口から溢れそうになった。
──どうして。何故、教えてくれなかったの。
あなたは、最初から、何もかも知っていたくせに。何も分からない愚かな小娘には、教える価値もないというの。私だって、知っていたら──。
はっとした。知っていたら、どうしただろう。差しのべられたこの手を取ることができたのだろうか。このひとを、信じることができただろうか──。
陽子はゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥に隠された涙は、面に出ることはなかった。唇に仄かな微笑を浮かべる。
「──いいえ、私は何も……。全て延王のお陰です」
「そんなに畏まる必要はない。──誰もいないのだから」
尚隆は苦笑し、陽子を差し招く。陽子は、自分が扉の前で立ち尽くしていたことに、やっと気づいた。ゆっくりと尚隆に歩み寄る。尚隆の眼差しは、いつもよりいっそう優しく温かい。その手が届く距離まで近づくと、そっと抱き寄せられた。
「お前に会うのは久しぶりだな」
「──異なことを。毎日会っていたじゃないですか」
「──景王にはな」
そう言って尚隆はくすりと笑う。陽子は顔を上げる。いつも明朗なこのひとには珍しい、ひっそりとした笑み。そして重ねられる唇。まるで、陽子の視線を避けるように。
──あなたの瞳をもっと見つめていたいのに。
心で呟く。あなたを、もっと、知りたいのに。もうじき、離れなくてはならないから、余計にそう思うのに。
唇を離した尚隆は、陽子を見つめ、ただ微笑する。その穏やかな笑みに、陽子もまた言葉を失くす。このひとは、全てを知ってなお、陽子を望んだのだ。
──今このときが、ずっと続けばいいのに。
想いをのせて、微笑を返す。涙が一筋、零れた。陽子は気がついてしまった。
過ぎ去ってしまうものからこそ、愛おしいのだ、と。
涙を零しながらも、陽子は微笑みを絶やさない。別れが近い。離れてしまう前に、存分に見つめておこう。愛しいこのひとを。
尚隆の大きな掌が陽子の頬を包む。流れる涙がその手を濡らす。深い色を湛えた瞳が陽子を覗きこむ。瞬きさえ忘れてその眼を見つめる。何もかも知っているがために、昏い深淵を隠すその双眸を。
尚隆は、陽子の嘆きも責めも、きっと受けとめてくれるだろう。静かな瞳がそう語っている。そうと分かっているから、言葉にできなかった。口に出してしまったら、本当に一人で立てなくなるような気がした。
妖魔との戦いに、助力してくれた確かな手。躊躇い、迷う陽子を導いてくれた。玉座の重みを教えてくれた。そして、陽子を支えてくれた。初めて人を斬ったときも、ただ傍にいてくれた。
涙がどっと溢れてきた。このひとと、離れるのだ。助けられ、支えられ、守られてきた。差しのべられたこの手を、離す時がきた。哀しかった。切なかった。こんなにも、このひとの存在が大きくなっていたことに、今頃気づくなんて。別れの間際に初めて分かるなんて。
目の前の尚隆が滲んでよく見えない。陽子は目をしばたいた。滂沱と流れる涙を、尚隆の唇が拭う。陽子は目を閉じた。そして、きつく抱きしめられ、口づけを受けた。重ねられた唇が熱い。ああ、別れを、このひとも惜しんでいる。陽子は声も出せず、ただ肩を震わせて尚隆に縋りついた。
声を上げて泣くことを、恥じたわけではなかった。そんなことを考える余裕もなく、ただ、このときを惜しんだ。見つめあい、触れあい、抱きしめあう──このときを、心に、身体に刻みたい。それだけを願った。この日の涙は、陽子にとって特別なものとなった。
ふと我に返った。柔らかな視線に気づく。驚くほど間近に尚隆の顔があった。陽子は急に恥ずかしくなった。いつも、月光に包まれていた。こんなに明るい時間に顔を見られるなんて。尚隆の視線に耐え切れず、横を向こうとした。しかし、頤にかけられた指が、それを阻止する。目に入るのは、人の悪い笑み。
「──そんなに、見ないで」
「何故?」
たちの悪い笑みを浮かべた唇が訊ねる。分かってるくせに。このひと特有の意地悪に、頬が火照っていく。答えようが答えまいが、このひとは陽子の反応を面白がる。そのたびに拗ねたり怒ったりした日々が懐かしい。感傷的になる心を、励ますように微笑する。
──二度と会えないわけではない。このひとを失うわけではない。
このひとは陽子を伴侶に選んだ。陽子はそれを受け入れた。離れても、それは変わらない。
そして気づく。通いなれた尚隆の自室であったが、臥室に入るのは初めてだった。もちろん、尚隆の牀で眠ることも。それは、陽子を伴侶と思ってのことだろう。その心遣いも、忘れまい、と胸に誓った。
会えなくなる前に、どうしても伝えたいことがあった。陽子は尚隆の眼を真っ直ぐ見つめる。
「あなたが私を王にしてくれた」
「おやおや、俺ではないぞ。お前を王に選んだのは、景麒だ」
尚隆は軽く笑って否定した。陽子は微笑する。
「もちろん、景麒が私を選んだ。楽俊が私を人間にしてくれた。そして、あなたが私を王にしてくれた」
玉座の重みを教えてくれたひと。王の自覚を促してくれたひと。感謝を伝えたかった。
「──あまり俺を買いかぶるな。手痛くお前を裏切るやもしれぬぞ」
ふっと息をつくと、尚隆は口許に皮肉な笑みを浮かべた。意地悪な口調だが、きっと心配してくれているのだろう。しかし、陽子は動じない。
「私があなたを信じることと、あなたが私を裏切ることは、別問題だ。──もっとも、これは楽俊の受け売りなんだけど」
笑顔で答える。そう、信じることを、もう恐れたりしない。誰に強制されたわけでもない。見返りを期待しているわけでもない。陽子は、尚隆を信じる、と己の意思で決めた。
尚隆は一瞬目を見張った。その双眸に複雑な色が浮かぶ。それから愛しむような目を向け、何も言わずに陽子をふわりと抱きしめた。
* * * 15 * * *
気づかれた、と尚隆は密かに溜息をついた。
陽子は、泣いている。そして、どうして教えてくれなったのか、と責めている。そう思われても仕方ない。最初から知っていたら、陽子は尚隆を選ばなかったかもしれない。尚隆は全て知っていた。知っていて黙っていた。
それを罪と言われるならば、受け入れよう。
やがて陽子は面を上げた。その瞳に涙はなかった。憂いを含んだ微笑は、息を呑むほど美しかった。
こんなに綺麗な娘だったろうか。
確かに、輝かしい光を纏っていると思っていた。しかし、この美しさは。全てを受け入れて微笑む陽子は、清麗だった。
扉の前に立ったまま動かない陽子を手招きする。陽子は、いま初めて気づいたように、尚隆に歩み寄った。立ち止まる陽子を抱き寄せ、腕の中に収める。お前に会うのは久しぶりだな、と呟いた。陽子は怪訝そうな顔をする。毎日会っていたはずだ、と。確かに毎日会ってはいた。ただし、延王が、景王に、だ。
尚隆が景王ではない陽子に会うのは、久しぶりだった。尚隆を見上げる真っ直ぐな瞳。見つめると吸いこまれてしまいそうな、翠玉の輝く双眸。
──会いたかった。抱きしめたかった。
言葉に出せない想いを口づけに託す。そして見つめあう。
──美しいな。
心で呟く。己の前に見える一本の道を進むことに躊躇っていた娘。戦を前にして竦み、独り涙していた。細い腕に剣を携え、己の麒麟を救いに走った。初めて人を斬った夜、独りで肩を震わせていた。そんな娘は、戦いを重ねるごとに、王の顔になっていった。民と民が争う不毛な戦など、早く終わらせねば。そんな決意が陽子の自覚を育てていった。
それは、たかだか半月前のことだというのに。
己に定められた運命を選び取った娘は、揺るぎなく前を見つめる。その蝶が羽化するような劇的は変化を、尚隆は間近で見守った。悠久の時を過ごしてきた尚隆にとって、陽子のその変容は目を見張るものだった。
自ら血に手を染めて、それでもなお、陽子は清麗に微笑む。その頬に流れ落ちる一筋の涙。瞬きもせず、見つめ返す涙を湛えた瞳。
それがお前の気持ちならば、受けとめよう。 その真っ直ぐな視線を避けることなく。
濡れた頬を両手で包み、輝かしい翠の瞳を覗きこむ。別れを受け入れる微笑と惜しむ涙。せめぎあう二つの想いになお、揺らがない勁い瞳。魅入られずにはいられない。
陽子の目から滂沱と涙が溢れる。唇に微笑を浮かべたままに。
もう、いい。そんなに無理をしなくともいい。
尚隆は零れる涙を唇で拭う。陽子はようやく目を閉じた。尚隆はそんな陽子を固く抱きしめ、熱く口づけた。
少し前ならば、声を上げて泣いていただろう。しかし、肩を震わせながらも、陽子は声ひとつ出さなかった。ひたむきに見つめる瞳、縋りつく細い腕。その全てが愛おしい。常よりも情熱的に応えるその肢体を、尚隆は存分に眺め、愛でた。
情熱が果てたあと、茫と我を失っている伴侶の顔を眺めた。陽光の許に晒される、乱れた紅の髪が眩しい。額にうっすらと浮かぶ汗。空をたゆたう翠玉の瞳。それから、腕の中に収まった華奢な肢体に目を移す。
出会った頃は、貧しい暮らしのせいで、丸みが削ぎ落とされていた身体は、玄英宮に来てから、均整のとれたしなやかさを取り戻していた。王として剣戟を振るい、女らしいとはお世辞にも言えないその肢体は、細く引き締まり、並の女よりもずっと魅力的だった。
やがて陽子は尚隆の視線に気づき、羞じらった。今頃恥ずかしがっても、もう遅い。ずっとお前を見つめていたのだから。羞恥し、顔を逸らそうとする陽子の顎に指をかけ、その瞳を覗きこむ。そんなに見ないで、と小さな声を上げる伴侶に、何故、と問いかけた。その言葉だけで頬を染める初々しさが愛らしい。
その反応の全てが新鮮で、刺激的だ。若いせいか、胎果なせいか、陽子は尚隆が知っている、いかな女とも違って見える。真っ直ぐで、女の媚がなく、そのくせ可愛い。──離したくない、改めてそう思う。
頬を染めた陽子は、不意に尚隆を見つめる。
「あなたが私を王にしてくれた」
「おやおや、俺ではないぞ。お前を王に選んだのは、景麒だ」
笑って首を振る尚隆に、陽子は笑みを浮かべた。
「もちろん、景麒が私を選んだ。楽俊が私を人間にしてくれた。そして、あなたが私を王にしてくれた」
玉座の重みを教えてくれた、と輝かしい翠の双眸が尚隆を真っ直ぐに見つめ返す。その美しさに、思わず感嘆の溜息が漏れる。しかしそれは若さゆえの純粋さに思えて、尚隆は口許に皮肉な笑みを浮かべた。
「──あまり俺を買いかぶるな。手痛くお前を裏切るやもしれぬぞ」
「私があなたを信じることと、あなたが私を裏切ることは、別問題だ。──もっとも、これは楽俊の受け売りなんだけど」
そう言って陽子は屈託なく笑う。尚隆は目を見張った。この瞳がこんなに輝かしいのは、信じることを恐れないからだ、と気づく。意地悪を言ったことを恥じた。この信頼に応えよう、そう思い、尚隆は陽子を優しく抱きしめた。
別離──解っていても辛いものです。ましてや、知らなかったら?
陽子は尚隆を責めるだろうか。そう思いつつ書きました。
かなりの思い入れある場面です。
2006.03.21. 速世未生 記