独 白 (下)
* * * 5 * * *
やがて尚隆は、己に向かって駆けてくる娘を見つけた。緋色の髪を一つに括り、簡素な袍に身を包んでいる。お忍び用の男装だ。しかし。片手を挙げて迎えながら、尚隆は苦笑する。紅の輝きを帯びた気配、喜色を浮かべる勁い翠の瞳。
──目立ちすぎる。
お忍びになってないな。そんな呟きは聞こえていないように、陽子は晴れやかな笑みを見せる。
「あなたが来てくれたなんて!」
「驚いたろう」
尚隆は笑みを浮かべた。そのとき、陽子の背後に、知った顔を見つけたような気がした。確かめようとしたが、もういなかった。それは、忘れた頃に顔を会わせる、同類の風来坊に似ていた。が、場所が違う。あの男と出会うのは、いつも軋みかけた王国の首都。
尚隆の怪訝な顔に、陽子が後ろを振り返る。
「どうかした?」
「──いや、知った顔を見たような気がしたのだが……人違いだろう」
こんなところにいるはずがない。
そんな呟きを聞きとがめたのか、陽子が不思議そうに首を傾げ、尚隆を見上げる。尚隆はふっと息をつき、微笑する。久しぶりに伴侶に会えたのだ。しかも、あの景麒が時間をくれた。無駄にするわけにはいかない。
「──陽子、俺が景麒に叱られたぞ。余計なことを教えては困る、と」
勝手に出かけられては困る、と言外に含めたが、天真爛漫な伴侶は気づくだろうか。はたして陽子は無邪気な顔で訊き返す。
「お忍びのこと?」
「そうらしい。ちょっと顔を見て帰る気で、金波宮に寄ってみたら、景麒に捕まった」
ちょっと顔を見て帰る気ではなかったが、邪気のない笑顔を向ける伴侶に、そうとは言いたくなかった。
「責任を取ってお前を見つけて来い、所在不明だから時間がかかると思うが関知しない、と怒鳴られた」
尚隆は破顔した。断腸の思いでそう言った景麒には悪いが、尚隆は、してやったりと、ほくそえむところだった。
「え──? でも、驃騎が……。あれ、もしかして」
陽子は頬を染めた。景麒の譲歩に気づいたらしい。尚隆は人の悪い笑みを見せた。
「そういうことらしいぞ」
「──景麒にしては、気が利いている」
陽子は頬を染めたまま顔をほころばせた。尚隆は微笑を浮かべ、陽子の肩を抱いて言った。
「ということで、少し遊んで帰ろう」
陽子は尚隆を見上げ、嬉しそうに頷いた。そんな伴侶の耳許にそっと囁く。
「陽子」
「なに?」
「──目立ち過ぎだ。気配を抑えろ。お忍びにならんぞ」
「え──?」
陽子は目を見開く。景麒から苦情を言われた。何かあったらことだ。無用な諍いを引き起こす前に、教えておかなければ。尚隆は微笑する。
「忍び歩きするときは、そこの気配に合わせる。変装したら、その恰好の者になりきるのだ」
「──よく、分からない」
陽子は困惑する。尚隆は笑って陽子の肩を叩いた。
「さっき、俺を見つけたろう?」
「うん。すごく目立ってた」
陽子は即座に頷く。尚隆は続ける。
「あれはわざとだ。見つけやすいようにしていた。──お前は俺が後ろにいても分からんときがあるだろう」
「──うん。いつもの気配がしないとき」
「気配を殺しているときだ。お前は人の気配には聡いが、己の気配には疎いな」
軽く笑うと、陽子は少し口を尖らせた。
「そんなこと、言われても」
「少し、気をつけろ。普通の者には分からんだろうが、目端の利く者が見たら、すぐに正体を見破るぞ」
陽子は不安げに尚隆を見上げた。
「目端の利く者って……」
「俺は、お前を初めて見たとき、お前が景王だとすぐ分かった」
尚隆は声を低めて言った。陽子は気まずそうに俯く。
「──分かった。気をつけるようにする」
「あまり景麒に心配かけるな。出してもらえなくなるぞ」
陽子は不満げに黙する。心配しているのは景麒だけではない。それを、この伴侶は分かっているだろうか。足許からくすり、と笑い声がした。使令のほうが分かっているらしい。
「──班渠のほうが物分りがいいな」
尚隆は溜息をついた。陽子は足許に問う。
「班渠、驃騎は?」
「王宮に戻りました」
「じゃあ、班渠、冗祐、ちょっとだけ、離れたところにいてくれないか」
陽子は頬を染めて小さく言った。使令が咎めるような声を上げる。
「──主上」
「景麒は、私が……延王と一緒にいると、知っているんだろう──?」
そう囁くと、陽子は俯いた。確かに、本当の意味で二人きりになったことはなかった。初めて出会ったときには、もう冗祐がいた。その後も常に冗祐と班渠が陽子を守っている。
陽子は景王だ。景麒のその配慮は当然のことだった。しかし。景麒は、責任を取って迎えに行け、と言ったはずだ。尚隆は微笑し、口添えした。
「陽子の頼みを聞いてやってはくれぬか。今日は俺が責任を取ることになっているのだしな」
「──延王がそう仰るのならば」
使令が同意した。陽子は、はにかんだ微笑みを見せた。
「班渠、冗祐、ありがとう」
使令が消えた後、陽子がそっと手を伸ばしてきた。そういえば、手などつないだことはないかもしれない。若い伴侶の可愛らしい仕草に、尚隆は笑みを返し、その小さな手を取った。
* * * 6 * * *
それから堯天の街を二人でそぞろ歩いた。いつもと違う場所で、互いの立場を忘れ、他愛ない話をした。食事をし、酒を酌み交わした。といっても、陽子はほとんど飲めないのだが。そして、舎館を取った。
房室に入るなり陽子を後ろから抱きしめ、剥きだしの項に口づけた。小さく声をあげる陽子の反応を楽しむ。ちょっと待って、と喘ぐ陽子の耳許に囁く。もう充分待たされたと思うぞ、と。
そう、ずいぶん待たされたような気がする。せっかく訪ねたのに、金波宮にいなかった。景麒には嫌味を言われた。堯天まで捜しに出た。忍び歩きの極意を教えた。そろそろ、褒美が欲しい。
そのまま服の中に手を入れ、柔肌を愛撫した。戸惑いながらも陽子の身体はそれに応えていた。
陽子は尚隆の強引な手を避けるように、身を捩って前を向いた。潤んだ瞳で尚隆を見上げ、細い腕を首に絡めてくる。それは珍しいことだった。
「私もずっと待っていたよ──」
陽子はそう囁き、涙を零した。尚隆の手が止まった。、ふわりと抱き寄せ、優しい口づけを唇に落とす。涙に濡れた瞳から女の匂いがした。
今日はずいぶん可愛いな、と思わず呟いた。見つめ返す瞳に、いつもと違う色。
それは教えた憶えのない、誘惑の色──。
尚隆は陽子を愛しんでいた。その髪と同じ紅の光を纏う身体も、真っ直ぐに見つめてくる輝かしい翠の瞳も。そして、何者にも屈しない勁い心も、尚隆にとって、かけがえのないものだった。
六太は妓楼通いを止めろと諌言したが、尚隆には、まだその必要があった。陽子は、まだ幼い。女としては無防備で稚い伴侶を、大切にしたかった。陽子には、無理に女になってほしくはなかった。その澄んだ瞳に、女の媚態が宿るのは嫌だった。
どうせ、寿命は長いのだ、あせることはあるまい。それに、陽子は勁い。剣の腕はまだまだだが、その輝かしい瞳に見つめられて、平気でいられる男はそういない。目を逸らし、頭を垂れるより他にできることはなかろう。だから、余計なことは教えずにいた。
それなのに、いったい誰が、そんなことを。
そして気づく。先程、こんなところにいるはずのない男を見かけなかったか──。もしかして。そう、あの男ならば、目を逸らすことなくこの娘をその腕に抱けるかもしれない。そして、孤高の女王は拒むだろうか、己のいる高みまで登りつめた稀有な男を──。
尚隆は苦笑する。──油断したな。まんまとやられた。しかも、その逃げ足の速いこと。あの場で捕まえていたら、ただでは済まさなかったのに。あの男も事の重大さを分かっている、そう思った。
腕の中の伴侶を見つめ返す。翠の瞳には涙が溢れていた。それは、懺悔、だろうか。それとも後悔しているのだろうか。いや、その輝かしさには翳りがない。己に恥じることは、していないのだろう。
成り行きは想像がつく。──ならば、あえて問うまい。尚隆は微笑を浮かべ、その涙を己の唇で拭った。
陽子が尚隆の胸で泣かぬ日はない。王は泣いてはならぬ、泣くならここで泣け、と教えた。陽子は素直にそれを守っている。玉座に就く決心をしてからは、楽俊にすら涙を見せることはないようだった。偽王軍と戦う頃には王の自覚があった。武断の女王は、己の涙の重さを知っていた。
ずっとこの涙を受けとめてきた。陽子の涙を拭うのは己のみ。閉じた目から涙が流れ続ける。身の内から溢れる想いは、甘いのだろうか、苦いのだろうか。どこまでも真っ直ぐな心を覗いてみたい──。
そして目が合った。いつもと違う、女の眼。微かに頷き、細い身体をきつく抱きしめる。その身体に躊躇うような震えが走った。腕の力を僅かに緩める。
「──怖いか?」
優しく訊いた。怖いのだろうか。己がしたことを、尚隆に気づかれるのが。それとも、気づいた尚隆が何をするのかが、怖いのだろうか。
陽子は激しく首を振り、尚隆を見つめる。涙に濡れた瞳が、尚隆を誘惑する。それから? どうするのだ? 少し苛めてみたくなった。
「陽子? どうした?」
声に出して訊く。意地悪に聞こえただろうか。潤んだ瞳は切なげに尚隆を見上げ、震える腕が背中に回された。尚隆は微笑を返した。零れる涙を唇で拭い、わななく身体を抱きすくめた。
長い口づけを交わす。縋りつく腕に熱を感じた。戸惑い、恥じらう少女はそこにはいない。しかし、ひたむきに見つめてくる濡れた瞳は、なんと美しいのだろう。尚隆は己の伴侶に言葉もなく見とれた。
紛れもなく匂いたつ女の眼。それなのに、そこに媚びた色は少しもない。
──ああ、何を怯んでいたのだろう。いったい何を惜しんでいたのだろう。
この娘は、自身を統べる王。己の意に染まぬものを容れることはない。
己が守り、愛しんできた娘。真っ直ぐな心に昏い闇が降り積もらぬよう、その涙を受けとめてきた。しかし、己が選んだ伴侶は、ただ守られるばかりのか弱い女ではない。改めてそれに気づかされる。だからこそ、こんなにも心惹かれるのに。
「陽子」
己の運命と定めた女の名を呼ぶ。女は濡れた瞳で見上げ、優しく名を呼び返す。他の誰も呼ばぬ、真の名を。
「──尚隆」
そして、昏い深淵に灯りが点る。この女が抱きとめてくれる。その名のごとく、眩しい紅の光を纏うこの女が、昏い闇の拡がりを喰いとめてくれる。 その輝かしい瞳に己の運命を映す。この勁い翠の眼に見つめられる限り、昏い闇に呑まれることはあるまい。
お前が連れて行ってくれるのだろう。俺の知らぬ世界へ。お前が俺の運命。ずっと待ち続けた俺の伴侶。しかし──。
お前は俺のもの。
そう口に出してしまったら、お前はきっと、怒るのだろうな……。
2005.07.08.
「僥倖」「残照」を書き上げた後、ふと、陽子がしたことを尚隆は気づくだろうかと思いました。
きっと気づくよな〜と思い、どんな反応するか楽しみに書いてみました。
──怒らないんだ! (私が驚いてどうする!?)
尚隆の「独白」です。思ってても絶対口に出すことはないだろう、と思いつつ書きました。
18禁しか書けないのか、お前は!って感じですね。
「僥倖」の前後、そして、「残照」の尚隆サイドのお話です。
2005.09.08. 速世未生 記