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僥 倖 (1)

* * *  1  * * *

「班渠、冗祐、堯天へ行く」
「主上、お一人でお忍びとは……。また台輔に叱られますよ」
「──いいんだ。景麒はいつも怒ってるんだから。それに浩瀚にいいと言われたんだ」
「冢宰はひと休みしていいとは言いましたが、外出してもいいとは……」
「お前たちがついてこないなら、独りで行く」

 諌言する使令に冷たく言い放ち、陽子は踵を返した。いつものやりとりである。溜息のような気配をさせ、それでも使令はついてきているようだった。
 陽子は質素な袍に着替え、こっそりと金波宮を抜け出した。

 班渠の背に跨り、外に出ると、のびのびできた。班渠が訊ねる。
「行き先は堯天でよろしいのですか?」
「──含みのある言い方だな」
 勘気に触れ、班渠は黙した。
 陽子は溜息をついた。そう、堯天ではない。ほんとうは関弓に行きたいのだ。想い人がいる、関弓へ。
 関弓は遠い。あの頃は毎日会えたのに。戦の最中だった。偽王軍と戦った。初めて人を斬り、泣いた。臣の前では泣けない陽子の涙を、あのひとは知っている。玉座の重みを教えてくれたひと。
 電話があればいいのに、と何度思ったろう。そう考えては苦笑する。きっと仕事が手につかなくなる。

 あのひとに会いたい。せめて、あのひとの話がしたい。

 ……誰にも話せない。秘めた恋だった。景麒は黙認している。そうせざるを得ない。全てを知る使令は景麒に従う。そう、黙して語らない。鈴や祥瓊にさえ、話せないでいる。──前例がないから。

 あのひとは、隣国の王。

 人目につかぬところで班渠から降りた。班渠は陽子の足許に消えた。

 堯天は賑やかだった。偽王軍を破り、内乱を鎮圧し、慶は少しずつ復興に向かっていった。金波宮にいると分からない活気が堯天にはある。陽子は、只人の振りをして堯天を歩くのが好きだった。ここでは誰も陽子が景王であることを知らない。
 そぞろ歩きをし、美味しそうな匂いのする店に入ってみた。店主にお薦めのものを訊ね、注文した。陽子はまだこちらの文字をちゃんと読めないのだ。
 繁盛している店のようだった。ひっきりなしに注文の声が飛び交い、給仕の女たちはうっすら汗をかいて行き交っている。陽子はそんな様子をぼんやりと眺めていた。
「お待ちどうさま」
 威勢のいい声とともに、何か飲み物が陽子の前に置かれた。注文した覚えのないものだった。
「あの?」
「ああ、あちらの方が、お客さんにって」
「あちらの方?」
 陽子は給仕の女が指したほうを見る。そこには明るい笑顔を浮かべた男が座っている。歳の頃は二十と少しくらい、身なりの良い若者だった。陽子と目が合うと、彼は席を立って近づいくる。
「ここ、座ってもいいかな?」
 人の好さそうな笑みを向けて訊ねる。怪しい感じはしない。陽子は黙って頷いた。彼はただにこにこと陽子を見つめていた。
「私の奢りだ。飲んでみて。ここのお薦めで、女の子にも評判なんだよ」
 陽子は少し驚いた。女と見破られていた。お忍び姿はいつも男装で、終ぞ女と知られたことはない。それを察してか、彼は笑みを見せる。

「私には君が男には見えないよ」
「どうして?」
「君は、おそらく私が捜していたひとだろうから」

 彼は謎めいた微笑を浮かべた。陽子は少し背筋がひやりするのを感じた。

 ──危険かもしれない。

「そう警戒しないで。他意はないから」
 彼は朗らかに笑った。世間話を始めた彼から、もう危険な香りはしなかった。

* * *  2  * * *

 彼は旅人だった。若い風体には似合わず、驚くほどたくさんのことを知っていた。そして話し上手だった。いろいろな国のことを語る彼と話すのは楽しかった。なにしろ陽子は慶と巧と雁しか知らない。

 雁──また心が痛んだ。

「物知りなんだね、あのひとみたい」
 彼の人の好さそうな笑顔に、つい口を滑らせてしまった。彼は楽しげに訊いてきた。
「あのひと? もしかして、想い人なのかな?」
「──うん」
 陽子は俯いた。胸にあのひとの顔が浮かぶ。今頃、どこにいるのだろう。何をしているのだろう。彼が陽子の顔を覗きこみ、微笑む。
「会いたくなっちゃった?」
「会いたいけど、会えない」
 陽子の答えに、彼は不思議そうに訊ねる。
「どうして?」
「──遠くにいるから」
「遠く?」
 彼は眉を寄せる。
「うん」
「普通はさ、近くにいるひとにしない?」
 彼は苦笑気味に言う。遠甫もそう教えてくれた。でも、遅かった。
「普通はそうなのかなぁ……」
 普通がどうなのかも、知らなかった。
「──普通じゃないの? 若いのに、大変だね。いくつ?」
「──十六」
 確か、成長が止まったのは、それくらいだった。
「そんなに若いんだ。じゃあ、まだ婚姻もできないんだね」
「婚姻、かぁ……」
 結婚はできない、と遠甫は言った。王といえども、野合になる、と。ただ、伴侶に王后や大公の地位を授けることはできる、と笑った。陽子は遠い目をした。

 伴侶と決めたあのひとは、隣国の王。

「悪いこと訊いちゃったかな?」
 彼はがすまなそうに言う。陽子は、そんなことはない、と首を振る。
「会いに行けばいいのに」
 彼はそう言って笑う。旅人らしい言い方だと思う。そう、旅人ならば、気の向くまま、風まかせに行けるだろうか。

「──行けたらいいんだけどね……」

 本気でそう思った。何もかも知っているかのように、彼は優しく微笑む。

「連れて行ってあげようか?」

「え?」
 目を見開いた陽子を、彼は面白そうに見つめ、優しい笑顔を浮かべたままで言う。
「私が連れて行ってあげる」
「──いいんだ……」
 陽子は俯いた。身なりのいい人。きっと、騎獣も立派なのだろう。でも。たとえ騶虞すうぐに乗っても、班渠に乗ってさえ、丸一日かかる。──関弓は遠い。しかも、あのひとは気紛れだから、、関弓にいるかどうかも分からない。
「君にそんなに想われてるひとに、なんだか興味が湧いてきたよ」
 そう言って彼は口許に笑みを浮かべた。
「どんなひと?」
「──どんなって言われても……」
 陽子は口籠った。あのひとのことを、なんと説明したらいいのだろう。ただ、彼があのひとのことを訊ねてくれるのが、嬉しかった。あのひとの話をすることが、楽しかった。誰にも話せないことだったから。ただ、それだけのつもりだった。

 やがて料理も酒も尽きてきた。
「ねえ、もっと君の話を聞きたいな。ここはうるさいから、上に行かない?」
 彼は人好きのする笑顔でそう誘ってきた。陽子も彼ともっと話してみたいと思った。陽子は頷いた。
「じゃあ、行こう」
 彼についていこうと席を立ったとき、使令が警戒の声を上げた。
「主上、二人きりになるのは危険では?」
 陽子は軽く笑った。
「大丈夫だよ。悪い人じゃなさそう。それに、お前たちもいるし。心配ない」
「そういう問題ではないと……」
「じゃあ、なに?」
 溜息のような気配。班渠はそれ以上言うのを躊躇しているようだった。
「まあいいや。こんな機会もあまりない。彼は楽しい人だよ」
 陽子は立ち止まって待っている彼について階段を上がった。

2005.07.08.
 この「僥倖」は、「月影」に詰まって書き始め、最後まで仕上げた 初めての二次小説でございます。 初めて故に奔放に書き連ね、原稿用紙約50枚(約1万4千字)にも及ぶお話を 章分けすらしていなかったという作品でございました。 前回3つに分けておりましたが、今回、もう少し小分けにしてみました。 ついでに壁紙も替えました。読み易くなっているとよいのですが……。

2007.12.21. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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