僥 倖 (2)
* * * 3 * * *
房室は彼の身なりと同様に立派だった。陽子は珍しそうにきょろきょろした。彼はくすりと笑った。
「そんなに珍しい?」
「うん。私は、こんな立派な房室に泊まったことがないから」
「そうなんだ」
そう言いながら、彼は酒肴を頼んだ。陽子が房室の中を検分している間に、酒肴を持った店の者がやってきて、用意を済ませた。そして、一礼し、扉を閉めて出て行った。
「そろそろ座ったら? 食べ物も来たよ」
彼がくすくすと笑う。ぴたりと閉められた扉が少し気になったが、陽子は彼に促され、榻に並んで腰掛けた。
「どんな房室に泊まってたの?」
彼が面白そうに訊く。陽子は楽俊と旅をしたときの房間を思い浮かべた。彼は陽子の話に、楽しげに耳を傾けた。彼は聞き上手でもあった。
しばらく会話が続き、そして、途切れた。彼はおもむろに口を開いた。
「──どうして私についてきたの? そんなに想うひとがいるのに」
気がつけば肩を抱き寄せられていた。彼の顔が間近にある。しかし、不快な気はしなかった。
「──分からない」
「帰れないかもしれない、とは思わなかった?」
「──」
陽子は返答に窮した。彼の言うとおり、そんなことは考えもしなかった。彼の腕が、優しく搦めとるように陽子の身体に回された。
「……君は無防備すぎる。私が君の想い人なら、決して君を独りで外に出したりしないよ。それくらい、君は危なっかしい」
そんなことは初めて言われた。腕には自信があった。桓魋に鍛えてもらっている。無論、まだまだ禁軍の将軍には遠く及ばないが、お忍びで歩くくらいなら雑作もない。しかも、男装を見破られたことは、これまで一度もないのだ。それに使令が憑いている。本当に独りきりで出かけたことは、まだ、ない。
「君はきっと強いんだろうけど、殺気を帯びた者だけが敵なわけじゃないんだよ」
彼は諭すようにそう言って苦笑し、陽子の頬を撫でる。陽子は彼の目をじっと見つめ返す。彼は目を逸らさなかった。不思議な笑みを見せて囁く。
「綺麗な瞳だね……」
唇が重なった。
陽子は抗わなかった。この人は、陽子の視線を受けとめられるひと、だ。あのひとと同じ。お前の目を直視できる者はそういないぞ、あのひとはそう言った。玉座に就いて理解した。景麒でさえ視線を逸らす。己の目の勁さを知った。
軽く触れた唇が離れた。彼の瞳には、陽子の反応を窺うような、大人の余裕が感じられる。見た目どおりの歳ではなさそうだ。只者であるはずがない。彼の正体に興味が湧いてきた。
「あなた、何者?」
あのひとにも同じ質問をしたことがある。その時よりは、陽子にも心にゆとりがあった。彼の返しを想像できた。
「人に名前を訊くときは、自分からって習わなかった?」
「──あのひともそう言った。でも、あなた、ずるいよ」
予想どおりの返答に、陽子はくすりと笑う。素直に名乗ってくれるはずがない。勁い視線で答えを促す。
このひとは、陽子が誰なのか、知っている。
「答えなくちゃ駄目?」
彼は軽く笑う。陽子も笑みを返す。
「うん、教えて」
こんな駆け引きを楽しめる自分に、陽子は少し驚いていた。
「──いいけど……答えたら、もう逃がさないよ」
彼は挑戦的にそう言った。陽子は少し躊躇った。その隙を突かれ、唇を奪われた。そして耳許で囁かれた。
もう遅いよ、と。
帰してくれる気はないようだった。物柔らかだが有無を言わせない、どこか憶えのある態度。彼は、人を従わせることに、慣れている。
* * * 4 * * *
──こういうひとには、逆らっても無駄。
経験上、よく知っている。心を嬲られ、揺さぶられ、気力を削がれ、限界まで追いつめられる。そうなる前に。──何をされるか分からないほど、初心ではない。
陽子は溜息をつき、目を閉じる。それを受けて、身体に回された彼の腕に力が籠められる。長い口づけの後、榻に横たえられた。覆い被さってきた彼は、悪戯っぽく笑う。
「怖がらないんだね」
「怖くないから」
彼を見上げ、正直に答える。彼が陽子に危害を加えるとは思えない。今日初めて会ったのに、懐かしい人に会ったような、そんな気持ちがした。彼は苦笑する。
「確かに怖いことする気はないけど、そんなふうに信用されると、やりづらいな」
「そう?」
「うん。君は不思議なひとだ……。目が、離せなくなった」
彼は陽子の目をじっと覗きこんでいる。
「こんなつもりじゃ、なかったんだけど。なんだか、君には──そそられる」
彼の意図は明らかだが、何故だろう、抗う気は起きない。ただ、静かに、彼の目を見つめ続ける。彼は微笑する。
「──いいの? 嫌だって逃げると思ったのに」
「いいわけじゃないんだけど……嫌だって言ったら、離してくれる?」
彼は目を見張り、少し黙した。そして、離さないな、とまた笑う。
「──別な手を考えるね」
「だろう? それなら、無駄な労力を使わないほうがいい」
無駄な労力ね、と彼は苦笑いする。陽子の意図に気づいたらしい。
「ということは、無駄じゃない労力なら使うんだ……。この期に及んで、まだ諦めてないってこと?」
「──でも、あなたと戦う気はないよ」
なるほど戦いときたか、と彼は破顔する。
「君ってほんとに面白い。胆が据わってるね。──これも一種の戦いだと思うんだけど、経験ない?」
「──あると思う。だから」
「無駄な労力は使わない? そうか。君の想い人、ね。で? もしかして、私に似てる?」
そう言って、彼は人の悪い笑みを浮かべる。それは、陽子の想い人がよく見せる表情だった。懐かしい感じがした。思わず笑みが浮かぶ。
「……あのひとは、もっと強引」
「逃げようと思ってるなら、駆け引きの最中に手の内を見せるものじゃないよ。相手に隙がなくなるから」
彼は微笑し、軽く陽子の手首を掴んだ。口づけを落とし、そのまま唇を陽子の首筋に這わせてくる。身体がその愛撫に反応した。確かに、彼から隙がなくなった。様子見は止めにしたらしい。
あのひとの顔が浮かぶ。ごめんなさい、もう、逃げられそうもない。心でそう呟く。
あのひとは、怒るだろうか──。
ただ、思うほど罪悪感は、なかった。どうしてだろう、分からない。陽子は溜息をついた。
「──どうして、そんなに、いろいろ、おしえてくれるの……?」
「君が、可愛いから」
彼は柔和な笑顔を見せた。
「──そんなこと、言われたこと、ないな」
「そうなんだ。私ならもっと言ってあげるのに。──君は、とても可愛いよ」
耳に心地よい言葉とともに、身体が指でなぞられる。熱を帯びた目が陽子をじっと見つめる。
「綺麗な瞳だ──目が離せない」
いつの間にか、括ってあった髪も解かれていた。緋色の髪のひと房を手に取り,口づけた彼は言った。
「印象的な髪だね。紅の炎──君そのもののようだ」
彼は微笑する。そう、このひとはいつも笑みを浮かべている。物柔らかな、穏やかなひと。どこの誰かも分からないのに、安らぎを与えてくれる。このひとが懐かしいのは、あのときと同じだからだろうか。
──あのひとと初めて会った日もそうだった。陽子は初対面のあのひとの腕の中で泣きながら眠った。あのひとは陽子が寝入るまでずっと、この髪を撫でてくれた。
僥倖──という言葉が頭に浮かぶ。
この出会いは必然なのかも。このひとは、ただの旅人ではない。今の陽子には、このひとの癒しが必要なのだろうか。もしかしたら、このひとにも。陽子は彼に微笑を返す。
「今のあなたには、私が必要?」
彼の顔から笑みが消えた。もの問いたげな顔をして陽子を覗きこむ。陽子は微笑を浮かべたまま、応えを促す。彼は真顔になった。
「──君が欲しい、今すぐに」
「だったら、いいよ──今だけは……」
そう囁き、陽子は目を閉じた。唇が重なり、素肌が触れあった。彼はもう何も言わず、陽子を強く抱きしめた。陽子は、そんな彼に身を委ねた。
2005.07.08.
不道徳な話ですみません。
「月影」を書いているときに、あまりの長さに途中で詰まってしまいました。
そのとき、気分転換的に書き始めたものです。
長い人生、誘惑もあるだろうな〜と思うと止まらなくなって一気に書きあげました。
そして、陽子を誘惑して、受け入れてもらえるのは、この人しかいない!
2006.06.13. 速世未生 記