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僥 倖 (4)

* * *  7  * * *

 陽子は踵を返し、今度こそ恋しいひとに向かって駆け出す。尚隆はすぐに陽子を見出し、片手を挙げて迎えた。
「あなたが来てくれたなんて!」
「驚いたろう」
 尚隆はそう言って破顔した。それから、陽子の背の後ろを怪訝そうに見やった。陽子は振り向いた。が、何もいない。
「どうかした?」
「──いや、知った顔を見たような気がしたのだが……人違いだろう」
 こんなところにいるはずがない、という小さな呟きを、陽子は聞き逃さなかった。背筋がひやりとするのを感じた。陽子は小首を傾げて尚隆を見上げた。尚隆はふっと息をついて微笑する。
「──陽子、俺が景麒に叱られたぞ。余計なことを教えては困る、と」
「お忍びのこと?」
「そうらしい。ちょっと顔を見て帰る気で、金波宮に寄ってみたら、景麒に捕まった」
 尚隆は破顔した。
「責任を取ってお前を見つけて来い、所在不明だから時間がかかると思うが関知しない、と怒鳴られた」
「え──? でも、驃騎が……。あれ、もしかして」
 陽子は少し赤くなった。尚隆は人の悪い笑みを見せた。
「そういうことらしいぞ」
「──景麒にしては、気が利いている」
 陽子は嬉しそうに笑った。尚隆は微笑を浮かべ、陽子の肩を抱いて言った。
「ということで、少し遊んで帰ろう」
 陽子は尚隆を見上げ、晴れやかな笑顔で頷いた。

「──危ない危ない」
 利広はふうと息をついた。姿を晦ますのがもう少し遅かったら、確実に見つかっていた。鋭い上にねちこい、変幻自在の古狸に。
「へえ──あの御仁、あんな顔するんだ」
利広は薄く微笑った。
「手を出したことが知れたら、殺されそうだな……」
 愛おしむような笑顔。彼女を大切にしていることが、遠目からもよく分かる。さすがに、いま姿を見られたら、無事に帰れないだろう──そう思わせる顔だった。利広は溜息をつく。
「あの御仁にあんな顔をさせるひと、か……」
 彼女と別れた後、利広は気配を殺して様子を窺った。彼女が微笑みを湛え、利広の消えた方角に向かって深々と頭を下げるのを見た。
 ありがとう、と彼女は言った。そのとき、利広は絶句してしまったが、彼女は本気で言っているようだった。礼は強制されるものではない。心動かされれば、自然に頭が下がるもの。そして、彼女はそうすることを躊躇わない。伏礼を廃した女王の感謝の礼に、利広は感嘆した。──彼女を汚すことなど、できはしないのだ。

「今のあなたには、私が必要?」

 彼女の言葉が鮮やかに甦る。類い稀な僥倖に巡り合った。紅の光を纏う女王に。

* * *  8  * * *

 景王が直接内乱を平定したと聞いて、堯天へ行く気になった。もしかして、お忍びで歩く女王かもしれないと思ったからだ。もちろん、本当に会えるとは期待していなかった。
 流行りの店に陣取って飲んでいたら、彼女が現れた。紅の髪に深い翠の瞳、よく日に灼けた快活そうな肌の色。簡素な袍に身を包み、小柄な少年のように見える。しかし。
 利広には、彼女が景王だと、ひと目で分かった。身に纏う輝きが違う。これではお忍びにならない、と苦笑してしまった。ふと、昔、北西の小さな女王に出会ったときのことを思い出す。あのときのように、声をかけるきっかけを待った。
 飲み物を注文して彼女に送った。彼女が送り主を探す。そして目が合った。利広は、人懐こい笑顔を武器に、彼女に近づく。男装を見破られた彼女は、少し利広を警戒した。が、その緊張を解くことにも、利広は慣れていた。
 女性にしては低い声、ぶっきらぼうな話し方。なんだか女であることを厭っているような、そんな気がした。正直言って堅い娘だと思った。ところが、話しているうちに、好いたひとがいることが分かった。それが誰かもじきに分かった。

 驚いた。かの御仁が、隣国の王に手を出すなんて。前例がない。

 そしてまた思い出す。北西の女王に会ったときのことを。あの小さな女王が妙齢の女性だったら──自分はそうしただろうか? 考えられないことだった。確かめてみたくなった。
 話せば話すほど、分からなくなる。彼女は不思議な娘だった。隙がなさそうで、実はまるで無防備だった。殺気さえ出さなければ、搦めとるのは簡単だった。
 首尾よく房室で二人きりになった。抱き寄せ、その細腰に腕を回す。あまりの無防備さに、思わず危なっかしい、と諭してしまった。彼女は訝しげに見つめ返してきた。武人としての自信があるのだろう。それは身のこなしで分かる。ただ、女としては、あまりにも無防備だ。それを彼女は理解できないようだった。
 翠の瞳がじっと見つめてくる。吸いこまれそうな瞳だった。その奥に潜むものを確かめたくなるような──。いけない、これ以上は。深みにはまる。戻って来れなくなる──。しかし、止められなかった。
 その勁い視線を避けるように、唇に口づける。彼女は抗わなかった。ただ、目を見張り、驚いていた。利広に興味を持ったようだった。
 あなた何者、と誰何された。ずるいよ、と笑みを浮かべつつ勁い目で見つめてくる。確かに彼女の言うとおりだ。利広は、彼女が何者か、知っている。翠の瞳の勁い輝きに気圧されそうになった。
 答えなくちゃ駄目? と軽く笑うと、彼女は笑みを返し、頷く。そこを突いた。答えたらもう逃がさないよ、と脅しをかける。彼女は躊躇ったようだった。思う壺だ。そのまま唇を奪い、もう遅いよ、と囁く。彼女は溜息をつき、観念したように目を閉じた。利広は薄く笑い、彼女を強く抱きしめ、長い口づけをした。堕ちた、と思った。
 そのまま榻に横たえる。彼女はやはり抗わない。拍子抜けした。怖くないの? と訊くと、怖くない、と澄んだ目を向けてくる。強がりだと思ったが、抱き寄せた彼女の身体には緊張感がない。信用されているのか。
 その目を覗きこむ。何を考えているのか、知りたい。危険なのは分かっている。不用意に見つめたら、逆に取り込まれる。はたして、彼女には自覚があった。利広が彼女の視線に屈するのを、彼女は穏やかに待っていた。

 そうはさせない──静かに闘争心が湧いてくる。

 無防備な小娘は、やはり女王だった。女の自覚はないくせに、己の勁さを本能で知っている、手強い女。これが、かの御仁を本気にさせたものだろうか、とふと思った。
「こんなつもりじゃ、なかったんだけど。なんだか、君には──そそられる」
 つい、本音が漏れる。さっきまで、彼女を奪うつもりはなかった。一国の女王に、そんな不遜な真似をする気は、さらさらなかった。それなのに。
 この瞳の輝きから目が離せない。この澄んだ瞳に己の姿を映してみたい。この瞳の奥に隠されたものを探したい──心がこんなにも掻きたてられる。
 利広の目に燃える欲情の炎を見取っても、彼女は微動だにしない。どうせ離してくれないのなら無駄な労力は使わない、と言い放った。あまつさえ、あなたと戦う気はない、と。怪我をしたくなければ手を離せ、と命じられたような気がした。

 胆が据わってる。武断の女王は、剣を遣わずとも戦えるのか。

 自覚があるのか、訊いてみる。これも戦いだと、彼女は分かっていた。かの御仁のことを意識せざるを得なかった。わざと人の悪い笑みを浮かべ、私に似てる? と訊ねる。あのひとはもっと強引、と彼女は笑みをみせる。挑発、なのだろうか。
 躊躇いが消えた。もう、逃がさない。君を奪う。利広の熱に、彼女の身体が反応する。

「どうして、こんなに、いろいろ、おしえてくれるの……?」

 甘い溜息が、利広の官能を刺激する。君が無防備だから、とは教えてあげない。代わりに、甘い言葉を囁いてあげる。君を奪いつくすために。
ふと、彼女が微笑んだ。

「今のあなたには、私が必要?」

 意味深な科白。虚を突かれ、笑顔の武装が剥がれた。そして気づく。彼女はまだ降伏したわけではない、と。利広の返答如何によっては、ただでおかない、という凄み。跪いて許しを請わなければ。この期に及んで、追い詰められたのは、利広のほう──。
 彼女は微笑を浮かべ、利広に応えを促す。もう、逸らかすことはできない。覚悟を決めた。正直に、本心を語ろう。真顔で返す。 君が欲しい、今すぐに、と。

「だったら、いいよ──今だけは……」

 神託を下すと彼女は神々しい笑みを浮かべ、輝かしい瞳を閉じた。その唇に口づけを落とし、きつく抱きしめた。今度こそ、逃がさない。君を、確かめる。女王は微笑んで利広を受け入れた。

* * *  8  * * *

 情熱が引いた後、彼女は言った。いろいろ、ありがとう、と。利広は絶句した。普通に考えれば、利広は彼女を辱めたことになると思うのだが。想い人のいる彼女を誘い出し、閉じ込め、押し倒した。そう指摘したが、彼女は首を傾げた。じゃあ望んで抱かれたの? と訊ねると、違うね、と答えた。でも、と彼女は利広を見つめる。あの、吸い込まれそうな瞳で。
 抗いがたい力を持つ瞳。彼女の甘い吐息を知ってしまってからは、余計に惑わされる。それを連発されてはこちらが参る。唇を奪い、誘惑の力を教え諭す。見開かれる翠の瞳。やはり分かっていなかった。──幼いな、と思う。かの御仁の苦労が偲ばれて、苦笑する。かの御仁、か。

 もっと早くめぐり会いたかった。かの御仁より、早く。

 彼女は呟きを聞きとがめる。あのひとを知っているの、と。聞こえないふり。知っているとは、言いたくない。知っているんだ、と溜息をつく彼女の唇を封じた。そのまま細い身体を強く抱きしめる。そう、武断の女王は、こうしていると、驚くほどか細い。情熱が甦ってくる。
 私のものにならない? と答えの分かっている問いを投げる。私は誰のものでもないよ、と彼女は笑う。そして、予想通りの答え。

「私が選んだのは、あのひと」

 出会った順番は問題ではない、と言い切った。そして。
 迎えの者が来ているらしい、と呟き、彼女は利広から身体を離す。名残惜しい。思わず訊いた。また会えるかな、と。彼女はくすりと笑った。

「あなたの名前も知らないよ」

 出迎えの者は景麒ではなかった。遠くからもはっきりと分かる、際立つその気配は、かの御仁。彼女の顔色が変わる。利広がいなければ、彼女はすぐにでも駆けて行っただろう──もう少し、引き止めたかった。その輝かしい瞳に、もう一度、己を映してみたくなる。気軽に伸ばした指は、見事に拒絶された。
 少し動揺したか、利広は珍しく失言してしまった。翠の瞳に浮かぶ剣呑な光。怒気を孕んだ叱責。迸る王の威厳。彼女が身に纏うもの。その身に課せられたもの──。
 その重荷を、利広もまた知っている。それを教えてあげたかった。けれど、素直に教えてあげるのも悔しかった。負けっぱなしは性に合わない。謎掛けをした。そして、隙を突いて唇を奪い、素早く抱きしめた。怒られる前に、身体を離し、奥の手を出す。
 最後に与えた大きな手がかり。利広の思惑通り、彼女は唖然とする。一矢報いた利広は、呆気に取られた彼女に、共犯者の笑みを送る。かの御仁には内緒だよ、と。その代わり、口外無用にする、君と、かの御仁のことは。

 いつか、また会おう、陽子。旅の空で聞こう、君の噂を。慶が栄えていく様子を。君は、きっとよい王になるだろう。

 不思議なひと。堅いくせに、しなやかで、隙がないくせに無防備で。全てを受け入れる広さと、意に沿わぬものを拒絶する勁さを併せ持つひと。
 そっと別れを告げる。彼女とかの御仁の寄り添う姿に、少し妬けた。利広は溜息をつく。
「景麒が来たと思ったのになあ」
 宰輔景麒とよしみを結ぼうと思って、彼女と一緒に外に出た。それなのに、現れたのは、かの御仁。これ以上の悪さをするな、と警告されたような気がする。これもまた天意なのだろうか。
 そして、利広はまた思い出す。北西の国の小さな女王を。久しぶりに訪ねてみようか。突然の来訪を訝しみ、鋭い指摘をしてくれるだろうか、あの勝気な女王は。その姿を胸に思い浮かべ、利広は口許に笑みを浮かべる。

 行こうか、また、旅の空へ。

2005.07.08.
 不道徳なお話に付き合ってくださって、ありがとうございます。
 陽子サイドから書いてみて、あまりの天然ぶりに頭が痛くなり、利広サイドからも書いてみました。同じシチュエーションでも 受け取り方がこんなに違うぞ! と、書いた本人もびっくりです。
 初めてお終いまで仕上げた二次小説です。 横書きすることを意識していなかったので、非常に編集しづらいお話でした……。

2006.06.14. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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