僥 倖 (3)
* * * 5 * * *
情熱が引いた後、陽子は囁いた。
「いろいろ、ありがとう……」
彼は絶句した。そのまま額を押さえてくつくつと笑う。
「手籠めにされた女の子がお礼を言うのを聞くのは初めてだよ」
「手籠め、なの?」
「じゃあ君は、望んで私に抱かれたの?」
「──違うね」
陽子は少し考えた。
「でも、乱暴にされたわけじゃないし……それに」
「それに?」
促されて、陽子は彼をじっと見つめた。彼は苦笑して溜息をついた。
「そういう誘惑は止めなさい」
「誘惑? そんなつもりはないんだけど……」
唇が落ちてきた。ふわりと抱き寄せられ、耳許で囁かれた。
「そんなつもりはないんだけど、こんなふうにされたんじゃない?」
「──うん」
「男をそういう目で見つめたら、誘ってるって思われても文句を言えないんだよ」
「知らなかった……。でも、そんなふうにしてきたのは、あなたと、あのひとだけだよ。普通の人はみんな目を逸らすもの」
それはそうだろうね、と彼はまた苦笑する。
「だからかな、あなたに触れられるのは、嫌じゃなかった。私に触れてくる人は、限られてる」
「みんな、君の身分を憚ってるんだ。でも、君を知らない人もいるんだから、止めなさい」
「私のことを知らない人は、絶対に目を逸らすよ」
陽子は挑戦的な微笑を浮かべて、彼を見据える。彼は陽子に今度は長い口づけをした。
「だから、止めなさいと言ってるのに。目を逸らしたくない男がこうするんだよ……」
きつく抱きしめられた。さっきの情熱の名残を感じた。
「もっと早くめぐり会いたかったな」
かの御仁より早く、と彼は低く呟く。
「あのひとを知ってるの?」
彼は口許になんともいえない笑みを浮かべただけで、何も言わない。
「知ってるんだ。そういう人なわけ……。だから私に平気で触れられるんだね──」
唇が封じられた。詮索するな、ということらしい。彼の柔和な目が熱を帯びる。
「ねえ、私のものにならない?」
陽子は微笑して首を振る。
「私は誰のものでもないよ。そして私が選んだのは、あのひと。出会いの順番は問題じゃない」
「──言い切るんだね」
「うん。私をこちらに呼んだもののひとつがあのひとだから……」
そうか、と彼は残念そうに呟く。私も胎果ならよかったな、と。そこまで知ってるんだ、と思ったが、口には出すまい。きっとまた、逸らかされるだろうから。
──主上、と遠慮がちな声が頭に響いた。黙して控えていた班渠だった。
──驃騎が参っております。お迎えにあの方が、と。
──景麒か? と問うてみたが、答えは、否、だった。嫌な予感がした。
「──迎えの者が来ているらしい」
陽子は彼から身体を離した。彼は名残惜しそうな顔をする。
「また会えるかな?」
陽子はくすりと笑った。
「あなたの名前も知らないよ」
* * * 6 * * *
「うわあ、まずい。隠れて」
出迎えの者を見つけた途端、彼は小さく叫んだ。陽子も息を呑んだ。班渠、と心の中で舌打ちをした。この使令はたまにこんな意地悪をする。
質素な身なりをしていても、間違えようのない、際立つ気配。延王尚隆その人が腕組みをして壁に凭れていた。ずっと会いたかったひと──いつもなら、このまま走っていくのに。そんな陽子に、班渠が諌言する。
──おいたが過ぎるからですよ、主上。
──班渠! 告げ口はなしだぞ、命令だ。
心の中でそう念押しし、陽子は呟いた。
「──目立つなぁ、あのひとは」
「違うね」
彼は少し厳しい表情を浮かべ、言った。
「君が見つけやすいように、目立たせてるだけ。あの御仁は、いつもは街に溶けこんでる。変幻自在の古狸だからね」
「え──?」
目を見開く陽子に、彼は表情を緩める。
「ちなみに、君もあれくらい目立ってたよ。お忍びするなら気をつけたほうがいい」
「うそ──」
「ほんと」
陽子は瞠目した。彼は片目を瞑ってみせた。
「しかしなあ、御自らお出ましとはね……。あの御仁を引っ張り出すとは、君って凄いね」
「そんなこと……」
陽子は困って俯いた。
「ますます君が欲しくなる」
彼はそう言って口の端に笑みを浮かべた。そのまま陽子の頤に指をかける。
「──駄目だよ」
陽子はきっぱりと言い切った。翠の瞳の勁い輝きに打たれ、彼の動きが止まる。その目が瞬いた。へえ、と感嘆の呟きが漏れる。
「──なるほど。君の言うとおりだ。これでは手が出せない。許しを得なければ、君に触れることはできないんだね……」
「私は誰のものでもない、と言ったろう」
陽子は憤然と言った。彼は破顔する。
「ということは、少しは自惚れていいのかな? 君に気に入られたって……」
陽子は頬が染まるのを止められなかった。
「──あなたは、私が気に入らないひとを受け入れると思うわけ?」
あのひとがいるのに。
陽子の瞳に剣呑な光が浮かび、彼は瞠目した。失言に気づき、黙する。陽子の押し殺した声は、怒気を孕んでいた。
「知ってて近づいたんだろう? 私は、あなたを手にかけても、自分の身を守らなければいけない者なんだ」
そしてやろうと思えばそれができる、と陽子は低く呟く。彼は穏やかに微笑する。
「──でも、君はそうしなかった」
「あなたと戦うつもりはない、と言ったろう」
「──確かにね。でも、何故?」
彼の目が妖しく光る。陽子は彼を見つめ返す。──試されている。陽子はそう思い、ゆっくりと、噛みしめるように、問うた。
「──あなたは、私と同類のひと、なんだろう?」
「君は、己に課せられたものの重みを、よく弁えているね」
彼は陽子の問いには答えず、嬉しそうに笑った。
「私の助けが欲しいときは言って。君の力になれると思うよ」
「だから、私はあなたを知らないよ」
陽子は苛立たしげに言った。彼は怯まない。
「──私は、利広という」
彼は不思議な笑みを浮かべて名を明かした。
「言っとくけど、あの御仁に私が誰か訊くのは止めておきなよ。鋭い上にねちこいからね。ずっと苛められるよ。そんなの嫌だろう?」
「──そうだね。でも……」
隙を突かれ、唇が封じられる。そのまま強く抱きしめられた。そして、怒る間もなく、身体が前に押し出された。
「またいつか会おう、陽子。ちなみに、私はあの古狸よりも年上だよ」
陽子は唖然とした顔をした。彼──利広は楽しげに笑う。そして、片目を瞑って念押しした。──共犯者の笑みを浮かべて。
「私に会ったことは内緒だよ」
呆気に取られた陽子を置いて、利広は去っていった。あんなに印象的なひとなのに、その姿はあっという間に人ごみに紛れてしまった。彼もまた、変幻自在の古狸なのか、と納得する。
──僥倖。
こんなにたくさんの人がいる中で、めぐり会ってしまったのだ。陽子に課せられたものの重みを知るひとに。陽子を助ける力を持つひとに。在位五百年を超える延王尚隆よりも年上──となると、その人物はかなり限られてくる。鮮やかなひと──次に会うときまでには、彼が何者か分かるだろう。陽子は微笑した。そして、利広が消えたほうに向かって、深く頭を下げた。
「いつかまた、利広。──ありがとう」
2005.07.08.
さてさて、皆さま、「彼」が「利広」だと、いつお解かりになりましたか?
最初から? それとも……? 是非聞かせていただきたいものです。
2006.06.13. 速世未生 記