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約 束 (1)

* * *  序  * * *

 今年もまた、この季節がやってきた。咲き誇る薄紅の花を見上げ、延王尚隆は満足げに頷く。我が伴侶、景王陽子も、満開の桜花を待ち焦がれていることだろう。
 確認を済ませた尚隆は騎獣に跨り、麗しき女王の住まう金波宮に向かう。伴侶は、今年もまた、眉間に皺を寄せて政務に励んでいるのだろうか。それとも、桜に想いを馳せつつ、笑みを浮かべているのだろうか。尚隆は胸に伴侶の面影を思い浮かべ、昨年の出来事を懐かしく思い出していた。

* * *  1  * * *

 春まだ浅い頃、雁州国国主延王尚隆は公にできぬ伴侶に会いに、ふらりと隣国の王宮を訪れた。禁門にて騎獣を預け、正寝を抜け、国主景王の執務室の扉を開けて、尚隆は少し首を傾げる。金波宮内のそこここに漂う、この緊張感は何だろう、と。
「──陽子」
「延王……。せっかくいらしてくださったのに申し訳ないのですが、取り込み中なんです」
 いつものように軽く声をかけた尚隆に、女王は顔も上げずに応えを返す。書卓の上には堆く書簡が積まれ、雑事を手伝う下官が、更なる書類を届けに参じていた。榻に腰を下ろして寛ぎながら、尚隆はのんびりと声をかける。
「──のようだな。俺は勝手にやっているから気にしなくていいぞ」
「恐れ入ります」
 応えを返す女王は相変わらず顔も上げず、切羽詰った様子で仕事を続けている。御璽を押された書簡を運び出す下官も、主から伝染されたかのように切迫して退出していった。尚隆は苦笑してそれを見送った。

 伴侶が治める慶東国は、雁の東隣にあった。波乱の国と呼ばれていた慶も、国を蹂躙する偽王を討った武断の女王により、落ち着きつつある。そして、若き女王を中心に、金波宮はいつも活気づいていた。伴侶に会うためにふらりと立ち寄るたびに、それを確認し、尚隆は満足していた。しかし。
 榻で寛ぎながら、尚隆はそれとなく女王を観察した。最近の景王陽子は、肩に力が入りすぎているように見える。臣はそうは思わないのだろうか。
 やがて、冢宰浩瀚が女王の執務室を訪れた。延王尚隆に恭しく拱手した後、浩瀚は女王と打ち合わせを始めた。それが終わった頃、浩瀚は涼やかな笑みを見せて主に進言した。
「主上、お客さまもいらしていることですし、少しご休憩なさっては如何ですか?」
「──休んだら、仕事がますます溜まるじゃないか」
 女王は相変わらず顔も上げずに不機嫌な応えを返す。浩瀚は僅かに眉を顰め、小さく嘆息した。それを聞きとがめた女王は顔を上げ、蹙め面で冢宰を睨めつける。
「浩瀚、私の前で、景麒みたいな溜息をつくな。休む必要はない」
「失礼仕りました」
 浩瀚は苦笑しつつも慇懃に応えを返し、それ以上諫言することはなかった。そして、再び尚隆に拱手して出て行った。その背を黙して見送りながら、如才ない冢宰の言うことにも耳を貸さないのか、と尚隆は内心溜息をついた。

「夕食の準備が整いました」
 掌客殿に迎えに来た女史はそう言って恭しく頭を下げた。その美しい顔が少し疲れたように見えて、尚隆は不思議そうに問うた。
「祥瓊、どうした? そんなに塞ぎこんでは麗しい花のかんばせが台無しだぞ」
「まあ、延王……。いいえ、我が主上の眉間の皺を消す方法を考えていただけなのです」
 尚隆の軽口に頬を朱に染めながらも、祥瓊はそう憂いを語った。顔を曇らせる祥瓊に、尚隆は重ねて問う。
「陽子がどうかしたのか?」
「はい……いつも眉間に皺を寄せて考えこんでおりますの。休息をお勧めしてはおりますが、私たちの申し上げることなど……」
「ふむ……」
 自嘲の笑みを見せ、小さく溜息をつく女史の後ろを歩きながら、尚隆は昼に見た女王の様子を思い浮かべる。景王陽子の余裕のなさは歴然としていた。右腕である冢宰も休憩を勧めるほどに。

 正寝に着くと、陽子はもう夕食の席に座していた。その眉間に刻まれた皺。給仕をする女御鈴も、気遣わしげに主を見つめていた。やはり、主の様子に憂慮しているのは冢宰や女史だけではないのだ。
「延王をご案内いたしました」
「ああ、ご苦労さま、祥瓊」
 女史を労い、陽子は尚隆に笑みを見せた。しかし、その疲れて生気のない顔はどうだろう。およそ陽子らしくない貌だった。
 生真面目な女王は、自ら休もうなどとは思いもしないのだろう。そして、休息を勧める臣や友人の声にも耳を貸さない。それはあまりにも陽子らしくて、尚隆は想像に難くなかった。
 確かに仕事は膨大な量に上り、休めば休むほど溜まっていく。しかし、上に立つ者が気を張りつめれば、それだけ下の者の緊張も増していくものだ。まだ若い景王陽子には、それを察することができないのだろうが。

 臣が女王を休ませることができないのならば、己が伴侶のために一肌脱ごうか。

 そう思い、尚隆はまた少し考えを巡らせる。それから、よいことを思いつき、にやりと口許に笑みを浮かべた。それに気づいた陽子が訝しげに首を傾げる。
「延王?」
「いや……。祥瓊、鈴、あまり心配するな」
 人の悪い笑みを見せて片目を瞑る尚隆に、祥瓊と鈴は互いの顔を見合わせる。それから、ゆっくりと期待に満ちた笑みを見せた。そんな中、陽子だけが目をぱちくりさせていた。

2007.04.28.
 中編「約束」第1回をお届けいたしました。 中編と言いつつ、実は皆目終わりが見えていないのですが、 桜が散るまでに書き終えてしまいたいので、 自分に発破をかける意味での見切り発信でございます。 よろしくお付き合いくださいませ。

2007.05.06. 速世未生 記
背景画像「篝火幻燈」さま
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