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約 束 (2)

* * *  2  * * *

 尚隆は夜半にそっと伴侶の堂室に忍んでいった。疲れた女王は榻に凭れて眠りこんでいた。扉を閉める音にすら気づかぬ伴侶を、尚隆は静かに抱き上げた。薄く目を開けた伴侶が気怠るげに名を呼ぶ。
「──尚隆なおたか
「そのまま眠っていてよいぞ」
「ううん、眠るつもりはなかったんだ……」
 眠そうな声で答える伴侶の朱唇を、尚隆は甘く塞ぐ。華奢な腕が尚隆の首に回された。牀に横たえると、伴侶は小さく呟いた。
「昼にもあんまり話せなかったのに……」
「お前が仕事を止めぬからだ」
「だって……」
 笑い含みに揶揄すると、伴侶は口を尖らせ、仕事がちっとも終わらないのだ、と不平を言った。
「たまには休まないと、効率も上がらぬぞ」
「休んだら、仕事は溜まる一方だよ……」
 更に言葉を続けると、伴侶は深い溜息をついた。尚隆は苦笑する。きっと、これ以上言っても堂々巡りだろう。そう思い、尚隆は開きかけた伴侶の朱唇を再び塞ぐ。女王は諦めたように目を閉じ、尚隆に身を任せた。
 伴侶の疲れた身体を、尚隆は労わるように抱きしめた。誰もが心配するほど、景王陽子は根を詰めて仕事をする。尚隆には、その理由が分かるような気がした。

 蓬莱からやってきた若き女王は、常世の常識に捕らわれず、改革を断行した。慶東国は波乱の国といわれて久しい。そんな慶国には珍しい、武断の女王に対する反発は、水面下で燻っていた。故に、女王の側近くに侍る者を重臣が厳選していたほどだった。それでも尚、ある日、内宮を閉め出された内宰が謀反を企てたのだ。
 他国の王や宰輔を王宮に迎え入れて自国を蔑ろにした、と罵り、臣が王に刃を向ける。所詮は女王だ、という毒を含んだ言葉とともに。それは、景王陽子の張りつめた糸をぷつりと切るに足る出来事であった。佩刀すらもしていなかった女王は、そのまま弑逆を受け入れようとした。己を縛る頚木からの解放を求めて──。

 陽子はあのとき、己の意志を実現すべく腐心していた。即ち、他国を助けることにより諸国が助け合う前例を築き、己が斃れた後の慶を救う道を敷く、という崇高なる理想を。それは、胎果の変わり者と呼ばれる延王尚隆や延麒六太でさえ面食らう、画期的な提案であった。その真摯な思いは、雁を、範を、奏を動かし、救国を嘆願した戴国将軍李斎とともに天をも動かした。
 しかし、若さゆえの無謀さで動いていた景王も、事態が進むにつれて事の大きさを思い知った。王どころか天ですら万能ではないという重すぎる現実。若き女王は己の浅慮を恥じ、割り切れぬ思いを飲み下す。そして、麒麟に選ばれし己こそが王なのだ、と単純に信じることができなくなっていた。当の民がいらないと言うならば、王としてあり続けようとしても仕方ない、と思うほどに。
 天命ある限り王は斃れない。そう分かっていても、報せを聞いた尚隆は胸が潰れる痛みを感じた。景王陽子は、賊に抵抗しようとしなかった。それは、消極的な自殺ともいえる。陽子は、尚隆を、置いて逝こうとしたのだ。

 五百年待ってようやく巡りあえた、運命の女とも言える伴侶に、置いて逝かれるなど──。

 直ちに金波宮に駆けつけた尚隆は、やりきれない想いを全て若き伴侶にぶつけた。陽子は尚隆の烈しい怒りを、黙して受け入れた。その翠玉の瞳に浮かぶ涙は、自責の念を伝えていた。
 景王弑逆未遂は、尚隆と陽子の秘密の恋に、はっきりと危機感を齎す出来事であった。それは、六太がその場にいなければ、雁にまで伝えられはしなかっただろう。いや、国の威信を鑑み、慶の重臣はひた隠しにしたに違いない。伴侶の窮地を知らずに終わったかもしれない、と思うだけで背筋に戦慄が走った。

 それまでも無防備に王宮を抜け出す女王を牽制する意味も籠めて、気紛れに金波宮を訪れていた。慶の前王は宰輔景麒に恋着して斃れた。故に慶が女王の恋を望まないことも重々承知している。しかし、主の伴侶の存在を疎む景麒しか事実を知らぬこの状況は、尚隆にとって我慢の限界を超えた。
 せめて陽子の側近には秘密を明かそう、尚隆はそう決心した。女王の友でもある女史と女御が、この密やかな恋に理解を示せば、陽子の煩悶も少しは減少するだろう。そして、冢宰浩瀚が主の恋に気づき、黙認していることも、尚隆は既に知っていた。

 尚隆は、景王陽子が秘めた恋を忠実な臣に自ら打ち明けるよう誘導した。主の告白は、もちろん側近たちを驚かせた。しかし、尚隆の思惑通り、皆は温かく生真面目な女王の想いを受け入れた。その反応に、頑なだった景麒でさえ対応を和らげた。陽子の心の緊張は、かなり解れたようだった。
 それから、景王陽子は大人しく金波宮で政務に励むようになった。恋に現を抜かしていると思われたくない。そして、二度と内乱を許してはいけない。根を詰める姿から、若き女王のそんな矜持が感じられた。しかし──。

 こんなに気を張っていては、いつかまたぷつりと糸が切れるときが来る。生真面目な伴侶は取り合わないが、尚隆はそれを恐れていた。
「──そんなに、心配しないで。私は、大丈夫だから……」
 腕の中の伴侶が、柔らかに微笑んだ。小さな手が優しく頬に触れる。そんなに不安が面に出ているのだろうか。尚隆は伴侶の額を軽く弾き、苦笑してみせた。
「無茶ばかりするから、目が離せんのだ」
「無茶ばかり、とは酷いよ」
 くすくす笑いながら、伴侶は抗議する。自覚がないのも困りものだな、と囁いて、尚隆は華奢な身体をきつく抱きしめる。微かに喘ぎ、伴侶は尚隆の情熱に応えた。

 そのまま、しばしまどろんだ。目覚めたときに、腕の中に温もりがある。それだけで心満たされる想いがした。
 微かな音でも目を覚ます武断の女王が、生まれたままの身体と無防備な寝顔を曝す。尚隆は微笑して安らかな寝息を立てる麗しき伴侶に見入った。
 有明の月が、次第に薄れていく。そろそろ、公にできぬ伴侶の許を去らねばならない。尚隆は名残惜しげに眠れる伴侶の頬に口づけた。
 微かに睫毛が動き、伴侶はゆっくりと目を開ける。輝かしい翠の瞳が少し翳った。半開きの朱唇に口づけを落とし、尚隆は身を起こす。その腕を、伴侶がそっと引いた。どうした、と訊ねると、伴侶は愁いを帯びた瞳で見つめるばかり。尚隆は破顔し、再び伴侶に口づけた。
「朝が来るまでこうしていようか?」
「そんなわけにはいかないよ……」
 消え入りそうな声で呟く伴侶に人の悪い笑みを向け、それでは今宵はここまでだな、と告げた。見る間に潤む瞳とは裏腹に、女王の唇は、そうだね、と応えを返す。それでも小さな手は尚隆の腕を離さなかった。
「──俺は、どうすればよいのだ?」
 苦笑を零すと、伴侶は微かな声で、意地悪、と呟き、俯いた。泣き顔を見せまいとするその様がいじらしく、尚隆は伴侶を抱き寄せる。
「──それでは、月が見えなくなるまで、こうしていよう」
 優しく声をかけると、陽子は幼い子供のようにしがみつき、小さく頷いた。そして、二人は細い残月を眺めた。月が、明けてゆく空に、融け去るまで──。

2007.05.09.
 中編「約束」連載第2回をお届けいたしました。 「黄昏(含む残月)」〜「所顕」〜「花見」〜「故郷」と繋がって絡まっていたお話が、 大分解けてまいりました。 「約束」を無事に書き上げたら、「黄昏」の続きが書けそうな気がいたします。
 ──気長にお待ちくださいませ。
 昨日「満開宣言」が出されました。 「桜」連作も佳境に入りそうでございます。最後までよろしくお願いいたします。

2007.05.09. 速世未生 記
背景画像「篝火幻燈」さま
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