約 束 (5)
* * * 5 * * *
懐かしい思い出に薄い笑みを浮かべ、延王尚隆は金波宮禁門前に降り立つ。隣国の王を認めた門卒たちは恭しく叩頭した。
すぐ戻る、と告げて禁門を潜ろうとした尚隆を、恐れながら、と閽人が留めた。行く手を遮られたのは初めてかもしれない。訝しげに顔を蹙めると、閽人は平伏して述べた。
「主上はもう禁門に向かっておられます。行き違われないよう、こちらでお待ちを、とのことでございます」
「──手際がよいな」
思わず呆れて呟くと、閽人は笑いを含んだ声で答えた。騶虞の姿を認めてすぐに主に使いを出したのだ、と。それを聞いて、尚隆はくつくつと笑った。そうこうしているうちに、国主景王が班渠を従えて禁門に現れた。
「お待たせいたしましたか、延王」
「いや、そうでもない」
「それはよかった。では、まいりましょう」
艶然と告げる女王に促され、尚隆は先ほど降りたばかりの騶虞に跨る。そして、班渠に騎乗した景王陽子とともに飛び立った。
「──今年は随分と待遇がよいな」
「私の眉間の皺が消えたからだよ」
首を捻りながら苦笑すると、伴侶は軽く答えて笑った。確かに、禁門を守る門卒からして、溌剌とした雰囲気を醸していた。そこここに緊張を走らせていた昨年とは大違いだ。なるほど、と尚隆は破顔した。
枝いっぱいに花をつけた桜が見えると、笑みを湛えた伴侶の顔が歓喜に輝いた。それほどまでに花見を待っていたのか、と尚隆は密かに驚いた。
桜の根元に降り立ち、伴侶は改めて薄紅の花を眺める。満開の桜花に見とれる伴侶の姿は、風に揺れる花よりも美しい。薄紅の花弁を散らす桜と緋色の髪を風に靡かせる伴侶を見比べて、尚隆も笑みを浮かべていた。
やがて、満足いくまで花を堪能したのか、伴侶は班渠に声をかけた。その背に括りつけてあった荷物から敷物を取り出し、桜の根元に広げる。それから、伴侶は尚隆の前には酒と酒肴、自分には茶と甘味を取り出した。その手際のよさに、尚隆は目を見張る。そういえば、今日はずっと班渠が姿を見せている。それは大きめのこの荷物を運ぶためだったのだ、と尚隆は密かに納得した。荷物を下すと、班渠は姿を消した。
笑みを浮かべて、今年は随分と用意がいいな、と声をかけた。伴侶はにっこりと笑みを返す。
「うん。お花見だもの。軽くつまめるお弁当がないとね」
あなただって、去年お酒を持ってきてたじゃないか、と揶揄し、伴侶は楽しな声を上げた。花見の準備をすっかり整え、伴侶は桜の幹に背をつけて坐る。そして、柔らかな笑みで尚隆を隣に誘った。今年も和やかに花見が始まった。
薄紅の花を愛でながら杯を傾け、伴侶との他愛のない会話を楽しんだ。時折吹く風にひらひらと舞う桜花は美しく、隣に坐る伴侶の温もりは心地よい。桜から伴侶に目を移す。伴侶は寛いだ笑みを返した。
「確かに、眉間の皺がなくなったな」
「うん、ずっと楽しみにしていたお花見だからね」
笑い含みに感想を述べた尚隆に、伴侶は満面の笑みを見せる。去年は見られなかったその笑みに、尚隆は満足して頷いた。
ざあ、と不意に強い風が桜花を揺らす。ひとつに括られた伴侶の緋色の髪も、薄紅の花弁と一緒に舞い踊った。濃い紅と、薄い紅が、絡みあいながら舞う様は美しい。見とれながらも、尚隆は思う。蓬莱では、伴侶の髪は黒かったはずなのだ、と。そして、煌く瞳も、翠玉の色ではないのだ。咲き誇る桜を見上げ、尚隆は回想する。
蓬莱に泰麒を迎えに行った。泰麒は、尚隆の知る泰麒ではなかった。大きくなっているから、では済まされぬその相違。そして、じっと見つめる泰麒の眼から、己の姿も変わっているのだと知れた。
決して混じってはならぬといわれながら、常世と蓬莱はときに結びあう。それは天でさえも触れることの叶わぬ領域だという。
それなのに、何故、胎果は生まれるのだろう。何故、胎果の王が現れるのだろう。五百年の時を超えて、尚隆と陽子は出会った。今、故郷を懐かしむこの木の元に、胎果の二人が並ぶ意味は、何なのだろう。そう思いながら、尚隆はゆっくりと伴侶に目を移した。
満開の桜花が、微風に舞い踊る。降りしきる花びらを眺め、伴侶は翠玉の瞳に涙を滲ませていた。胸を締めつけられるような痛みを感じ、尚隆は言葉を失った。
もう二度と戻れぬ故郷を、伴侶は今尚恋うているのだろうか。
蓬莱に向かう命を帯びた尚隆の胸で伴侶が泣いてから、まだ何年も経っていない。
ごめんなさい、と伴侶は嗚咽を堪え、涙を零した。何を謝る、と訊ねる尚隆に縋り、ただただ、ごめんなさい、と詫び続けた。虚海を渡り、故郷に帰ることを禁じられたもうひとりの胎果の王を、尚隆は黙して抱きしめた。
故郷を恋うて泣く伴侶を、慰めることはできなかった。謝罪が拒絶に聞こえるなど、心乱す伴侶に告げられるはずもなかった。そして、呉剛の門を潜る尚隆が、留守居をする伴侶に、問えるわけもなかった。
その後、泰麒を連れ戻った尚隆に、伴侶は何も訊かなかった。そして、尚隆もそんな伴侶に何も問えずにいた。それは、今も同じ。
不意に振り返った伴侶が、淡く笑む。潤んだ翠の瞳に引かれ、そっと手を伸ばした。腕の中に収めた伴侶に、躊躇いながらも問うてみる。ずっと、訊きたくて、訊けなかったことを。
「──陽子、あちらが……恋しいか?」
伴侶は美しくも切ない笑みを浮かべ、ゆっくりと首を横に振る。そして、煌く瞳を真っ直ぐに向けて言い切った。
「──そうじゃない」
頬に伝う涙もそのままに、伴侶は尚隆の胸に身を預けた。瞬きとともに零れるその涙を、尚隆は唇で拭う。そして、瞼を閉じた伴侶に口づけた。
「所縁のこの花を──今年もあなたとともに見ることができて、幸せだよ」
吐息のような声は柔らかく、涙を浮かべながらもその顔は、桜のように匂やかだった。ふわりと微笑み、伴侶は再び涙を零す。それが、何を想う涙なのか、それ以上問う必要はない。尚隆は笑みを返し、もう一度大粒の涙を拭った。そして伴侶の朱唇に口づけを落とす。
背に回された華奢な腕に力が籠められた。確かな温もりを感じ、尚隆は伴侶をきつく抱きしめる。頭に、肩に、薄紅の花びらが舞い落ちた。
かくも潔い、この桜花に誓おう。
尚隆はゆっくりと口を開いた。
「──また、この花を見に来よう。時が許す限り、ずっと」
伴侶は潤んだ目を見張り、尚隆を見上げた。それから、花ほころぶような美しい笑みを見せて頷いた。この笑みも、尚隆にしか見せぬ涙も、若さゆえの未熟さも、伴侶の全てを愛おしく思う。そして、女王として、女として成長していく様を、傍で見守りたい。
先のことなど分からない。お前を置いて逝かぬ、とは言えない。互いに天命に縛られし王だからこそ。
桜が咲く春を、約束の季節としよう。いつか訪れるその日まで、伴侶とともにこの花を見上げるのだ。美しくも懐かしい、薄紅のこの花を、二人で。
桜の誓いを胸に秘め、尚隆は麗しき伴侶と口づけを交わした。桜は優しく二人を見守り、祝福するように花びらを散らし続けていた。
2007.06.02.
大変お待たせいたしました、中編「約束」最終回をお送りいたしました。
まさか6月まで桜のお話を書くとは思ってもみませんでした(汗)。
去年、「花見」と「故郷」を書きました。裏ではこの「約束」も書いておりました。
その中の一編を拍手として出したりもしておりました。
──なかなか纏まらず、苦労してしまいました。
それは、「黄昏」での尚隆が私の予想以上に揺れているからでございました。
「睦言」で訊き、「黄昏」で訊けず、今回やっと訊くことができた……。
桜に誓う「約束」は、陽子よりも尚隆にこそ必要なものだったのかもしれません。
書き上げて、そんな風に思いました。
これですっきりと「黄昏」第36回に進めるかしら。
──気長にお待ちくださいませ。
2007.06.02. 速世未生 記