約 束 (4)
* * * 4 * * *
「……そのときは、私だけでも、笑って送ってあげるよ」
隣国の女王は確かにそう言った。己の伴侶でもある景王陽子の淡い笑みを見つめる延王尚隆は、二の句が継げなかった。
散り際は潔く。花の盛りに散る、この桜のように。
尚隆はいつもそう思っていた。しかし、口にしたことはなかった。王が、気軽に言葉にしてよいことではないのだから。
己と同じくその背に一国を載せる王だからこそ、尚隆は伴侶に訊いてみたかったのかもしれない。しかし、そんな応えを予期してはいなかった。
いったい、どういうつもりでそんなことを口に出したのか。それを、率直に訊ねることは何故かできなかった。ややしばらくして、尚隆はようやく揶揄めいた問いかけをすることができた。
「──哀しんではくれぬのか?」
「無論、哀しいよ……想像するだけでもね。でも、それであなたが解き放たれるのなら……私は……」
景王陽子は少し声を震わせ、真っ直ぐに尚隆を見つめて応えを返す。延王尚隆は再び声を失い、麗しき伴侶を凝視した。
王は神で、寿命がない。だがしかし、王朝は必ず終焉を迎え、王は斃れていく。どんなに善政を布いた王であっても、だ。否、永きに渡り玉座を守った王ほど、その末世は悲惨を極める。それほどまでに、王を蝕む狂気は深く昏い。
尚隆でさえ、豊かで整った雁を滅ぼしてみたい衝動に駆られるときがある。そんな誘惑を、何度も凌いできた。だからこそ、散り際は潔く、と思うのだ。しかしそれは、残される者にとっては、ただの我儘に聞こえるだろう。それなのに。
お前は、それを解放と呼び、笑って寿ぐというのか──。
若き女王の勁く輝かしい瞳に涙が滲む。それでも景王陽子は微笑んだままだった。それは、いつかと同じ、別れを惜しむ涙と受け入れる笑み。その気高い美しさに、尚隆はしばし言葉なく見とれた。手を伸ばすことさえ躊躇われる、あまりにも神々しい女王の貌。
尚隆は唇に笑みを浮かべる。そう言うお前こそが、延王尚隆の唯一の伴侶。だからこそ、お前を置いて逝かぬ、とは言えない。それは、いつか訪れる現実なのだから。己と同じ重い荷を背負う伴侶に、気休めを言うつもりなどない。
それを責めることも、不安を口にすることもない伴侶。その若さで、この娘は、王が玉座という頚木に繋がれる者だということを識っているのだ。そしてそれは、景王陽子が、王の足許に潜む暗い深淵に囚われかけたことがあるからに他ならない。
歳若き伴侶に置いて逝かれそうになった、あのときの苦い想いが蘇る。己の中に、あれほど烈しい感情があるのだ、と気づかされた、あのときを──。
尚隆は、無理をするな、と一声かけて、伴侶の細い肩を抱き寄せる。伴侶は素直に尚隆の肩に頭を凭せ掛け、黙して目を閉じた。
己の運命と定めし女は、隣国の女王。その鮮烈な紅の輝きに、ひと目で心を奪われた。臆せず見つめ返す翠の瞳に魅せられた。己の弱さを知る勁さに惹かれた。そして、己の責を放棄しようとする脆さに振り回された。
その心は、勁さと弱さを併せ持ち、少女と女の間で揺らぐ。この華奢な身体の内側で、女王の矜りと女の想いがせめぎあう。それを浅ましいと恥じる女だからこそ、こんなにも愛おしいと思うのに。
尚隆は、己の価値を未だ知らぬ伴侶を愛しんだ。そう、景王陽子は、老獪な延王尚隆を、その未熟さと無邪気さで翻弄する、稀有な女なのだ。
「──陽子」
尚隆は、想いを籠めて、伴侶の名を呼ぶ。ゆっくりと、潤んだ翠の瞳が尚隆を見上げた。尚隆は笑みを湛え、宝玉のような双眸を見つめ返す。遠い先のことは分からない。だから、せめて近い未来の約束を交わそう。
「また、来年もここに来よう」
「──うん」
伴侶は瞳に浮かべた愁いを払い、花ほころぶような眩しい笑みを見せた。満開の桜花を思わせる伴侶は、口づけを落とすことも憚るほど美しい。麗しき桜の女神に見とれ、尚隆はえも言われぬ幸せな想いを抱きしめた。
やがて立ち上がった伴侶は、懐かしいような、切ないような笑みを浮かべて桜を見上げる。それから手巾を取り出して、降りしきる薄紅の花びらを受けとめた。
「それはどうするのだ?」
「お土産だよ。帰ったらお茶にしよう」
尚隆が訊ねると、、伴侶は笑みを見せつつ、花びらの入った手巾を隠しに仕舞う。楽しげな伴侶に、そうだな、と応えを返し、尚隆は騶虞に騎乗した。
二人は再び蒼穹に舞い上がった。満開の桜を何度も振り返りながら、伴侶は温かな笑みを浮かべる。その笑みを引き出せたことに、尚隆は充足感を覚えていた。
金波宮に帰城した景王陽子は、早速茶会の用意を始めた。急遽呼び出された側近たちは、もちろん驚いた。しかしながら、眉間の皺の取れた女王に笑みを誘われ、それを咎めることはなかった。
女王の昼の住処にて、ささやかな茶会が催された。主催は無論国主景王陽子。招かれし者は、延王尚隆、冢宰浩瀚、宰輔景麒、太師遠甫、左将軍桓魋、大僕虎嘯、そして女史祥瓊と女御鈴。女王の伴侶と側近中の側近であった。
「みんな、突然呼び立てて申し訳ない。けれど、忙しいからこそ、花でも愛でて、休息しないとね」
そう言いながら、女王は桜の花びら入りの茶を、尚隆と側近に自ら振る舞った。女王の柔らかな笑みと、馥郁とした茶の香りが堂室を優しい空気で満たした。
「花見は、よい気晴らしになったようですね」
「うん。とっても綺麗な桜だったよ」
宰輔景麒が穏やかに声をかけた。女王はにっこりと笑んで応えを返す。主の伴侶によい顔をしない女王の半身も、微かな笑みを浮かべて主が淹れた茶を啜っていた。
「桜が……こちらにもあるんですね」
「数は多くないがな」
海客の鈴が懐かしげに茶杯の中の花びらを見つめる。陽子と同じことを言う、と尚隆は笑い、伴侶に返した応えを鈴にも返した。
「──みんなにも見せてあげたかったなぁ」
「それでは主上、王宮の庭院にもその花を植えては如何でしょうか」
蓬莱では普通に咲く桜が、どうしてこちらには少ないのだろう、と溜息をつく女王に、冢宰浩瀚が提案した。金波宮でお花見ができるね、と言って女王は冢宰ににっこりと笑みを返す。それを受けて、尚隆は、今度苗木を持ってこよう、と伴侶に約した。伴侶は鈴と顔を見合わせて、嬉しげに笑ったのだった。
そして秋に、尚隆は延麒六太とともに桜の苗木を抱え、再び金波宮にやってきた。庭院を巡る回廊のどの窓からでも見えるように植えるよう庭師に命じ、伴侶は小さな苗木に笑みを送る。それから、この桜の下で花見ができる頃、慶はどんな国になっているだろう、と呟いた。きっと今より豊かな国になっているさ、と答えると、伴侶は花のような笑顔で頷いた。
2007.05.23.
お待たせいたしました、中編「約束」第4回をお届けいたしました。
──なかなか終わらなくてごめんなさい。
31枚書いても全く終わりが見えないなんて……(汗)。
いつもの如く、気長にお待ちくださいませ。
2007.05.23. 速世未生 記