「続」 「連作慶賀」 「玄関」 

宝 珠 (上)

* * *  1  * * *

「関弓へ降りるから付きあえ」

 お忍びの恰好をした尚隆が、そう言ってにやりと笑った。なんだか嫌な予感がして、陽子はじりじりと後退る。しかし、その警戒は、既に遅かったのだ。
 たちまち後ろに控えていた女官に取り囲まれ、陽子は奥の間へと連れ去られた。目を白黒させている陽子の耳に、伴侶の楽しげな笑い声が響いた。
 あっという間に着ていた袍を脱がされ、括った髪が解かれた。そして、着せかけられたのは、艶やかな襦裙だった。勿論、お忍びで街に降りるのだから、本来王が着用するような気の張るものではなかったが。
 襦裙の着付けが終わると、鏡の前に座らされ、髪を結い上げられた。品のよい瀟洒な歩揺を挿され、唇に紅を差され、爪を綺麗に磨かれた。支度が終わったとき、鏡の中には疲れきった顔の女王と、感嘆する女官たちの姿が映し出されていた。
「──まあ、景女王、なんてお綺麗なのでしょう」
「本当に、よくお似合いでございますわ」
「これならば、主上も満足されることでございましょう」
 女官に手を引かれて陽子は立ち上がる。勘弁してくれ、と胸で呟き、情けない顔をしながら。様子を見に来たらしい尚隆は、女らしく装った陽子を認め、楽しげに頷く。
「たまにはよいものだろう?」
「──よくないよ」
 嬉しそうに破顔する尚隆を、陽子は恨めしげに睨めつける。尚隆は憮然としている陽子に、にやりと笑って言った。
「そう言うな。ちゃんと新妻に見えるぞ」
「なんで街に降りるのに、襦裙を着なくちゃいけないわけ?」
 襦裙の動きにくさに溜息をつきつつ、陽子は眉根を寄せて訊ねる。尚隆はくつくつと笑い、逆に問いかけた。

「景王陽子、ここはどこだったかな?」
「──雁」
「そうだ。で、俺は何者だ?」

 嫌々答える陽子に、尚隆は畳みかける。陽子は大きく溜息をつき、尚隆を睨んだ。尚隆は可笑しくて仕方ない、とばかりに陽子の応えを待つ。

「雁州国国主延王、だね。──ああ、もう。だから雁に来るのは嫌なんだ」
「察しがよいな。では参ろうか」

 そう言って尚隆は左腕を差し出す。きょとんと見つめる陽子の右手を引いて、尚隆は己の左腕に絡める。陽子は頬が熱くなるのを感じた。尚隆は片目を瞑り、ゆっくりと禁門に向かって歩き出した。
 禁門には、既に騶虞すうぐが待機していた。足許に声をかけようとした陽子に、尚隆は笑顔で首を振る。
「──関弓に辿りつく前に、落ちたら困るからな」
「班渠が私を落とすわけがないじゃないか!」
「まあ、そう言うな」
 笑い含みに言って、尚隆はさっさと陽子を抱き上げた。抗議をする暇もない素早い行動に、陽子は呆れて嘆息した。慣れぬ襦裙を着た陽子を騶虞に乗せ、尚隆は後ろに腰を落ち着ける。そして、騶虞の手綱を取って禁門を飛び立った。陽子は憮然としたままだった。

「──街に降りるなら、名がいるな」

 関弓に向かいながら、尚隆はひとりごちる。襦裙を纏い、横座りしてその腕に収まる陽子は、不安げに尚隆を見上げた。
「何を急に……」
「名がないと、お前を誰にも紹介できぬではないか」
 尚隆は陽子を見下ろし、楽しげに笑う。陽子は質の悪いことを考えてそうな伴侶を軽く睨んだ。
「──いったい誰に紹介するつもり?」
「話を逸らすな。さて──」
「あなたに任せるのは不安だな。馬鹿だの無謀だの、ろくでもない字ばかりじゃないか」
 陽子の抗議にも頓着せず、ふむ、と尚隆は思いを巡らせる。それから、楽しげに己の考えを口にした。
「姓名は、紅と翠──楊紅翠ようこうすいでよかろう。字は……」
「何それ。紅と翠なんて、そのまんまじゃないか」
「間違って陽子と呼んでも、簡単に誤魔化せるぞ」
 陽子は憮然と言い返す。尚隆は片眉を上げてお気楽な理由を述べた。陽子は呆れて嘆息する。
「──そんな理由なの?」

「字は、宝の珠で宝珠だな」

 相変わらず陽子の言葉に応えを返さず、尚隆は破顔した。陽子は一瞬言葉を失い、頬を染めて呟いた。
「……それ、すごく恥ずかしいんだけど」
「よいではないか。お前は俺の掌中の珠なのだから」
「……」
 真っ赤になって絶句する陽子の耳朶に、尚隆は低い笑い声とともに口づけを落とす。そして、陽子の耳にはもうひとつ、姿なき笑い声が聞こえた。陽子は不機嫌にその声を叱責する。
「──班渠。笑いすぎだ」
「申し訳ございません」
 そう応えを返しつつも班渠はまだ笑う。その忍び笑いに、楽しげな尚隆の笑い声が唱和した。

* * *  2  * * *

 やがて、騶虞は関弓の街に降り立つ。尚隆は騶虞の背から降りると、陽子に手を差しのべた。陽子が己の手を重ねると、尚隆は陽子を抱き下ろす。ふわりと地面に足がついたとき、尚隆が耳許で囁いた。
「俺のことは、風漢と呼べよ」
 陽子は黙して頷く。それから尚隆は、お前は宝珠だからな、と言ってまた笑った。それには答えず、陽子は大きな溜息をついた。
 右手に騶虞の手綱を引き、左手は陽子の右手を取り、尚隆は歩き出す。慣れぬ襦裙に戸惑う陽子に合わせる、ゆったりとした歩調だった。陽子はそっと尚隆を見上げ、微笑する。その視線に気づくと、尚隆は優しい笑みを返した。
 それから、二人で賑やかな関弓の街をそぞろ歩いた。やがて、尚隆は騶虞を預けられる格式の舎館の前で足を止める。そして、今日の目的はここの飯だ、と告げた。
 かつて初めて尚隆に連れられて入った華やかな舎館に、陽子は圧倒されたものだった。しかし、王宮での暮らしを知った今では、それすら最高級のものではないと学んでいた。くすりと思い出したように笑う陽子を、尚隆は訝しげに見下ろす。
「どうした?」
「──昔のことを、思い出していた」
 陽子は懐かしげに語り、笑みを零す。尚隆は片眉を上げて更に問うた。
「昔のこと?」
「うん。あなたと初めて会ったときのこと」
 あのとき、陽子は楽俊に連れられて、巧から雁に入ったところだった。粗末な袍子を着て、安宿に泊まっていたのだ。聞いて尚隆は呆れたように笑う。
「──えらく昔のことだな」
「あなたが気が向いたように入っていった舎館は、こんな感じだった。私は、なんて立派な舎館なんだろうって思ったんだよね……」
 そのときと同様の格式の店に、今、身分を窶して足を踏み入れている。あのとき見上げていた、このひとの隣に立って。
「ずいぶん感慨深そうだ」
 言って尚隆は楽しげに笑う。袍を纏い、佩刀しているときには、そんなふうに言ったことはなかったのに、と。
「──だって、いつもは、もう少し庶民的な店に行くじゃないか」
 伴侶を見上げて、陽子は小さく抗議した。それに、着慣れない襦裙を着ているからかもしれない。そう告げて、陽子は伴侶にはにかんだ笑みを返した。尚隆は、そんなものなのか、と言ってまた笑った。
「いらっしゃいませ。──あれ、風漢、お久しぶり」
「無沙汰したな」
 店に入ると、主人らしき人物が親しげに声をかけてきた。軽く頭を下げて、尚隆は破顔する。そんな尚隆の横に立つ陽子をしげしげと眺め、店主はほうと溜息をついた。
「──えらい別嬪さんをお連れだけど、何者なんだい?」
「俺の妻だ。宝珠という」
 我が意を得たり、とばかりに人の悪い笑みを浮かべ、尚隆はさらりと告げた。紹介されて、陽子は頬を染めつつ店主に会釈する。店主は間抜けな顔をした。
「──へ?」
 それと同時に、けたたましい音がした。給仕をしていた娘が、下げ物を載せた盆を落としたらしい。はっと目を引く美しさを持つその娘は、蒼白な顔で謝罪した。
「──し、失礼しました!」
「何やってるんだ、客の前で」
 店主に叱られ、娘は慌てて割れた食器を片付けようと、震える手を伸ばす。陽子はそっと腰を落とし、娘より先に鋭く割れた破片を拾い上げた。娘は驚いたように陽子を見上げる。
 近くで見ると、ますます美しい娘だった。つややかな黒髪を、邪魔にならぬよう、しかも洒落た髪型に結い上げている。そして、見開かれた瞳は黒曜石のように輝いている。陽子は仄かに笑みを湛え、娘を見つめた。
「──その手で触れたら、怪我をする」
「──いいえ、私が叱られますから。どうぞお坐りください」
 娘はつっけんどんにそう言うと、陽子から目を逸らす。そして、さっさと後片付けを始めた。どうやら手の震えは止まったらしい。陽子は気遣わしげに娘を見ながらも、尚隆の許に戻る。それを確認して一つ頷くと、店主は陽子に笑いかけた。
「奥さま、始末は店の者がやりますから、どうぞお寛ぎください。──しかし風漢に、こんな別嬪の嫁さんがいたとはねえ」
「最近、やっと口説き落としたのだ。なかなか難儀な女でな」
 店主と尚隆は、再び楽しげに会話を続けた。陽子はその話を聞くともなく聞いていた。しかし、陽子は娘の態度が気になっていた。娘は血の気のない顔で時折尚隆に視線を走らせる。その瞳は、切羽詰った色を浮かべていた。

 ああ、あの人は、尚隆が好きなんだ。

 陽子は小さく息をつく。ちらりと横目で見ると、尚隆はそんなことは気にもかけず、店主と話をしている。聡いこのひとが、気づいていないはずはない。陽子はそう思い、そっと嘆息した。

2006.12.24.
 「1周年記念リクエスト」第8弾、中編「宝珠」(上)を なんとかクリスマスにお送りできました。 いったい何本拍手に出したんだ、というくらい詰まっていた代物でございます。
 とりあえず3回連載の予定ですが、未定でございます。 ──うまく落ちることを祈っていてくださいませ。

2006.12.25. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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