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宝 珠 (中)

* * *  3  * * *

「お祝いに一本奢るよ。ごゆっくり」
「そいつはありがたい」
 店主は笑って中座した。尚隆は破顔し、陽子に儲けたな、と囁いた。気もそぞろな陽子は曖昧な返事をしただけだった。
 やがて、片づけが終わった娘は、奥へと下がっていく。哀しそうな一瞥を尚隆に残して。それをそっと見送り、陽子は尚隆に小さく告げた。

「あの子──」
「どうした?」
「さっきの子……行ってあげなくていいの? 顔が青かった」
「──ほう、気づいたのか」

 尚隆は人の悪い笑みを見せる。陽子は面白がる尚隆を咎める声を上げた。

「知ってたの?」
「お前でさえ気づくのだから、誰もが知っているのだろうな」

 いかにも可笑しいというように、尚隆は口許を歪める。微かに毒を含むその口調に、陽子は眉根を寄せて問うた。
「──どういう意味?」
「言わずもがな、だろう」
 尚隆は陽子をからかうようにくつくつと笑う。いったい、何がそんなに可笑しいのだろう。陽子は小さく息をつき、真面目な顔で尚隆を見つめた。
「──そんなことばかり言って。話が逸れてるよ。──あの子の気持ちに、気づいていたの?」
「──あれだけあからさまなら、誰でも気づくだろう」
 陽子に咎められても、尚隆はちっとも悪びれなかった。そんな棘のある態度は、どうにも気に入らない。陽子は尚も言い募る。

「だからって……」
「可哀想、とお前が言うのか?」
「──」

 尚隆は陽子の抗議を遮り、にやりと笑んで揶揄する。陽子は何も言えずに俯いた。尚隆を意地悪だとは言えない。
 ──このひとは、陽子を伴侶に選んだ。そして、陽子はそれを受け入れた。このひとの隣に立つ女になりたい、と陽子はずっと願っていた。そして、その望みは叶えられたのだ。

「──宝珠」

 柔らかな、愛おしげな声。初めてその名で呼ばれ、頬が火照っていくのが分かる。陽子は恥ずかしくて顔を上げることができなかった。

「お前が、俺の出した答えなのだぞ」

 尚隆は確かな口調で断じ、くすりと笑った。陽子は頬を染めたまま、黙して頷いた。
 それから、店主の奢り酒で乾杯をした。さすがに、これだけ長く付き合っていると、いくら下戸の陽子でも多少はいける口になっていた。
 美味しそうな料理が次々と運ばれてきた。この店のお勧めの品ばかりだ、と尚隆は笑う。湯気を立てる料理は、どれも美味だった。そんなふうに夕食を食べ、酒を嗜んだ。そして、少しだけ酔いが回ってきた頃、事件は起きた。

「止めてください!」
「いいから、ここに坐って酌をしろ」

 賑やかな店内の一角で小さな悲鳴が上がり、陽子は振り向いた。さっきの娘が酔客に絡まれている。男に腕を掴まれて怯える娘を見つめる尚隆の目が鋭く光った。陽子はそんな尚隆に短く囁く。
「行ってあげて」
「──お前はここを動くなよ」
 尚隆は陽子にそう言い置いて、足早に娘のところに向かった。娘を庇い、酔客を退ける尚隆を見やり、陽子はほっと息をつく。尚隆は、こういうとき、弱い者を見捨てるひとではない。そのとき、喧騒の中から笑い含みの声がした。

「──邪魔な色男が、やっといなくなったな」

 陽子は警戒気味に顔を上げる。背の高い男が皮肉な笑みを浮かべ、陽子を見下ろしていた。殺気はないが、剣呑な気配を漂わせた男だった。陽子は薄く笑って男に問う。
「何か、用?」
「分かっているなら話は早い。一緒に来てもらおうか、別嬪さん」
「──私は、別に用はないのだが」
「ふうん……。大騒ぎになってもいいのかい」
 口許を歪め、男は後ろを指差す。陽子は素早く店内に視線を走らせた。あちこちの卓に剣呑な気配を漂わせた男がいて、それぞれがにやにやと笑っている。
 見ると、尚隆はまだ娘を背に庇って酔客を説得している、もしかして、娘に絡んだその客も、この男の仲間なのかもしれない。陽子は目の前に立つ男に視線を戻し、静かに問うた。
「──何をする気だ?」
「あんたが大人しく俺と来るなら、この店には何もしない」
「──いいだろう」
 この男の言うことは、ただの脅しではない。そう感じ、陽子は男に促されるままに立ち上がる。すると、その後ろに、すっと別の男が付いた。陽子は無表情に男に続いて店を出た。

* * *  4  * * *

 男は明るい広途から暗い串風路へと曲がっていく。陽子に背を向けながらも、男には一分の隙もない。そして、陽子の後ろからついてくる男も、物騒な気配を放っていた。
 淡々と歩き続ける男の目的が分からない。陽子は先を歩く男に低く問うた。
「──どこまで連れて行く気だ?」
「あんた、なんでそんなに落ち着いてるんだい?」
 振り返った男はにやりと笑って軽く問う。余計なことを言わぬ男に笑みを返しつつも、陽子は鋭い視線で睨めつける。
「私の質問に答えていないな」
「別嬪さん……なんでそんなにふてぶてしい口の利き方をするんだい? 美人が台無しだぜ」
「──答える気がないなら、帰らせてもらう」
「──帰れると、思ってるのかい」
 店を出た今、いつまでも茶番に付き合う気はない。そう宣言して陽子は踵を返した。不敵に笑って男は無造作に手を伸ばす。その手を払い、陽子は薄く笑んだ。
「──帰ると言ったら、帰る」
「あんた、肚が据わってるな」
 男はすっと目を細めた。もう一度伸ばされた手を、今度は躱す。腕を取られ、壁際に追いつめられれば、もう逃げることは叶わないだろうから。男は酷薄な顔をして嗤う。

「──美女に、乱暴する気はないんだがな」

 ──来る。

 とどこかで警鐘が鳴った。陽子はそのまま身を沈める。男の腕が唸りを上げて空を切った。体勢を崩しながらも男は倒れない。なかなかの手練だ。恐らく陽子が素手で敵う相手ではないだろう。
 陽子は瞬時に判断し、僅かなその隙を見逃さなかった。驚いて立ち竦むもう一人の男の横を、陽子は素早くすり抜ける。串風路を走り、最初の曲がり角に飛び込んだ。そして、しゃらしゃらと涼やかな音を立てる歩揺を、無造作に引き抜く。そのまま気配を殺して様子を窺った。
 高く口笛が響き、すぐに大勢の足音が聞こえた。店にいた連中が出てきたらしい。しかし、その高い足音。どこまで追ってきているか丸分かりだ。陽子は昏く笑む。厄介な相手は、最初の男、ただ一人。
 まだ、距離はある。しかも、相手は陽子を甘く見ている。確認して陽子はまた走り出す。そしてそっと足許に低く声をかける。
「──班渠、あのひとに報せを」
「主上……」
 いつも陽子の側に控える使令は、諫める声を上げた。慣れぬ女物の襦裙を纏い、しかも丸腰の女王を置いていくなど。班渠がそう思っても無理はない。
「私は大丈夫だ、──武器は、相手から奪えばいい」
「ですが……」
「私を誰だと思ってるんだ。──あのひとが来るまでもたせる。早く行け」
 それでも躊躇う班渠を、陽子は一喝する。相手が陽子を嘗めているうちに、尚隆を呼んだほうが、勝ち目がある。
「──ご武運を」
「大丈夫、そう簡単にやられはしない」
 お忍びに立ち回りはつきものだと言って、陽子は不敵に笑う。班渠は大きな溜息を残して気配を消した。
 耳を澄ますと、大勢の足音と声が聞こえる。数に頼んで虱潰しに捜しているのだろう。さて、どうしたものか。とにかく、最初に鉢合わせる相手の武器を、いただく必要がある。
 足音がひとつ、近づいてくる。陽子は串風路の角に気配を殺して潜んだ。きょろきょろと辺りを見回しながら角を曲がってきた男に走りより、腹に一撃を入れる。男が取り落とした武器を掬い上げて、陽子は舌打ちする。それは太刀ではなく、木刀であった。
「──丸腰よりはましか」
 小さく溜息をつき、陽子はひとりごちる。足音の数は十を超えている。手練れの者は、恐らく一人だけだろうが、陽子の不利には変わりない。
 つくづく、動きにくい襦裙を纏っていることが悔やまれる。まあ、裾を引く仰々しいものでなかったことが、唯一の救いかもしれないが。
 荒々しい足音が、あちらこちらから近づいてくる。囲みを突破することができれば、尚隆や班渠と合流できるはず。退路を確認しつつ、陽子は息を整える。そして、勁い瞳で前を見据えた。

2006.12.26.
 「1周年記念リクエスト」第8弾、中編「宝珠」(中)をお届けすることができました。 なんとか事件が起きてくれて、実にほっとしております。 ラストまで、予断を許さないのですが。
 恐らく、次回で大団円に辿りつけることと思います。 でも、いつもの如く、気長にお待ちくださいませ。

2006.12.26. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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