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宝 珠 (下)

* * *  5  * * *

「──無理強いは感心せんな」

 尚隆は怯える娘の腕を掴む男に声をかけた。はっと振り向いた男の隙を見て、尚隆は娘を解放し、背に庇った。
「なんだ、お前。邪魔をするな」
「勘違いしているようだな。ここは、そういう店ではない」
 酔った男は気色ばむ。尚隆は真顔で答えた。男はそれでも引かず、声高に言い立てる。背に隠れて震えている娘の腕を軽く叩いて安心させ、尚隆は冷静に男を説得した。いつの間にか、店中の注目を浴びていた。
 話しながら、尚隆は、小さな違和感を感じていた。男は顔を真っ赤にしながらも、まだ食い下がる。しかし、怒声を上げる割に、尚隆に攻撃を仕掛けようとはしない。

 まるで、手を出すことを、禁じられているかのように。

 そこまで考え、尚隆ははっとする。絡まれていた娘が、尚隆の背にしがみついていた。そして、眼前には尚隆を引き止めるように言いがかりをつける男。もしかして。
 尚隆はいきなり振り返った。驚いた娘は、小さな悲鳴を上げた。が、その顔に怯えはない。それどころか、娘は、頬を少し染めて、笑みさえ浮かべていたのだ。尚隆の鋭い視線に、娘はさっと蒼褪める。やはり。

 ──陽子は。

 尚隆は伴侶を捜す。いつの間にかできている人垣が邪魔になり、求める姿は見つからない。踵を返す尚隆の衣を、蒼白な顔をした娘が引いた。
「──い、行かないでください」
 尚隆は娘を一瞥し、口許を歪めた。娘の目がたちまち潤む。しかし、そんなことに構っている暇はなかった。
「風漢さま……!」
「──そなたも、共犯か?」
「ち、違います! ただ、少しだけ、お傍にいたかっただけ……」
 そんな理由で、この娘はここまで騒ぎを広げたのか。なんて愚かな。尚隆は小さく嘆息する。首を竦めていた娘は目を上げ、縋るように言い募った。
「それでも、奥さまを置いて、私を助けてくださったのですよね!?」
「俺の妻は、弱い者を案ずる女だ。あそこでそなたを助けなければ、俺はあれに顔向けできぬ」
 尚隆は娘の目を見つめ、冷静に言った。そう、尚隆が立たねば、陽子は自ら立ち上がったことだろう。目の前で困っている者を、見捨てられる女ではないのだ。
 娘は声を詰まらせる。潤んだ瞳から涙が零れ落ちた。それでも、目を逸らすことなく、娘は途切れ途切れに訴える。
「風漢さま……ずっと、お慕い、しておりました。──莫迦な女、とお笑いに、なりますか?」
「笑いはせぬ。しかし──そなたは、愚かだな」
 莫迦なだけの女なら、可愛いのかもしれない。しかし、己の欲が何を引き起こしたのか分からぬ愚かさは醜悪だ。尚隆は哀れみの目を向け、しみじみと告げた。とうとう娘はわっと泣き出した。
 泣いている娘を置き去りにし、尚隆は今度こそ踵を返す。騒ぎが終わったために崩れかけた人垣を掻き分け、伴侶を捜す。思ったとおり、陽子は店内から姿を消していた。

 ──仕組まれた。狙いは、最初から陽子だ。

 騒ぎを起こし、その隙に連れ去るのが目的だったのか。あの娘は共犯ではないと言っていた。では、尚隆を陽子から引き離すために使われたのだろう。

 しかし、誰が、いったい何のために──? 

 尚隆は眉根を寄せる。確かに、見た目だけならば、陽子は絶世の美女に見えるが。
 あの陽子が、大人しく連れ去られるはずはない。今日は剣こそ帯びてはいないが、班渠が憑いている。よほど腕が立つ者でない限り──いや、力ある者なら、瞬時に陽子の実力を見抜くはずだ。
 陽子がそう簡単にやられるはずがない。ただ、それなりの腕を持ち、陽子をただの美女と思い込む連中が犯行を企てたならば。少し厄介かもしれない。そう思い、尚隆は足早に店を出る。その途端。
「──延王」
 足許からくぐもった声が聞こえた。尚隆は即座に問い返す。
「班渠か。陽子は」
「賊に追われておられます。お急ぎください」
 それはやはり、陽子の側付きの使令、班渠の声だった。尚隆は姿を見せぬ班渠の案内で、連れ去られた伴侶の許へと急いだ。

* * *  6  * * *

「いたぞ!」
「逃がすな」
「怪我をさせるなよ」
 呼び交わす声が響く。ばらばらと現れた賊が、陽子を見つけ、包囲網を狭めてきた。男たちは木刀を構える陽子を揶揄する。
「──そんなものを持って、どうする気だい?」
 それには答えず、陽子は小さく溜息をつく。怪我をさせずに捕まえて、どこでどうするつもりなのだろう。
 しかも、素人臭い追い詰め方だ。包囲しているつもりなのかもしれないが、男たちは隙だらけだった。逃げるには丁度いいのだが。ただし、人数だけは揃っている。油断は禁物だ、と陽子は自重する。
 陽子は囲みの薄いところを目掛けて飛び込んだ。陽子が仕掛けるとは思わなかったのだろう。男たちは驚き、怯んだ。そのまま、二、三人を木刀で薙ぎ払う。太刀でなくて、却ってよかったかもしれない。
 しかし。陽子は気づいていた。ただ一人の手練れである、あの男がいない。やがて、怯んでいた男たちが、体勢を立て直した。
 更に数人を沈めたところで陽子は舌打ちをした。人数が多過ぎる。そして、やはり襦裙は動きにくい。陽子は囲みを強硬突破し、串風路に飛び込んだ。

「とんだじゃじゃ馬だな、別嬪さん」

 息を切らす陽子を、例の男が待ち構えていたように見下ろした。陽子は木刀を構え、にやりと笑う。
「──高みの見物か? いい身分だな」
「だって、あんた、油断ならん女だから」
 そう言い様、男は太刀で斬りかかる。その攻撃を躱しつつ、陽子は木刀を繰り出す。
「──怪我をさせないんじゃなかったのか?」
「甘えたことを言う腕じゃないだろう」
「か弱い女に言う科白じゃないな」
 男は大きく笑い、肩で息をする陽子の木刀を跳ね飛ばす。そのまま男は陽子を壁際に追いやった。そして、陽子を上から下まで舐め回すように見つめる。
「あんた、つくづくい女だな」
「──それはどうも」
 覗き込むように顔を近づける男に、陽子は不敵な笑みを返す。男はゆっくりと頤に手をかける。陽子は抗わなかった。昔、伴侶に言われたことが胸に響いていた。
「まるで、翠玉だな……」
 呟く男の声は、途中で消えた。陽子は笑みを湛えたまま、男を見つめ続ける。男の手が、止まった。余裕を見せていた双眸が、揺れ始める。そろそろ潮時だ。陽子は微笑し、静かに男の手を払った。
「──どうした? 用が済んだなら帰るぞ」
「帰れると、思うかい?」
 陽子の手を握り、男は昏く嗤う。陽子はくすりと笑った。男の肩越しに、見慣れた姿を見つけたのだ。現れた人物に笑みを返しながら、陽子は悪戯っぽく言った。
「私も、そう暇じゃない。それに、ほら、迎えが来た」
「──そんな嘘に、惑わされると思うか?」
 陽子の言葉を信じない男は、そのまま陽子を抱き寄せる。男の肩越しに見える顔が、思い切り蹙められた。陽子は堪らず吹き出した。男は不機嫌に顔を歪める。
「何が可笑しい」
「離してくれないか。でないと、身の保障はできない」
「この状況で、まだそんなことを──」
 男は陽子を抱く腕に力を籠めて囁く。しかし、最後まで言い終えることはできなかった。気配を殺して近づいた尚隆が、あっさりと男を昏倒させたのだった。

* * *  7  * * *

 尚隆は声も立てずに崩れ落ちる男を侮蔑的に眺め、串風路に寝かせる。それから陽子に向き直り、深い溜息をついた。
「──陽子、少しは抵抗しろ」
「こういう場合、抵抗したら危ないと教えたのは、あなただろう?」
 悪びれもせず、陽子は笑う。尚隆は苦虫を噛み潰したような顔を見せ、それから、真顔になった。

「──悪かった」

 真面目に詫びる尚隆に、陽子は目を見開く。こんなに素直に謝罪されたことなどあったろうか。
「私は大丈夫だよ。あなたが来てくれると思ってたから」
 陽子は朗らかに笑って言った。尚隆は僅かに目を見張る。そして、愛しむような笑みを浮かべ、陽子を抱き寄せた。
「──待たせて悪かった」
「ううん、こんなことは慣れてるもの。ただ──」
「ただ?」
 不思議そうに覗き込む尚隆に、陽子は悪戯っぽい笑みを返す。無理矢理、動きにくい襦裙を着せたひとに、意趣返しをしなければ。
「やっぱり、襦裙で立ち回りは無理だな。あなたと一緒だと、厄介事が降ってくるから、袍じゃなきゃね」
「──そういう結論になるのか?」
「恨むのなら、厄介事を呼び寄せる自分を恨んでね」
 尚隆は片眉を上げて嫌そうに問う。陽子は軽く答えてまた笑った。尚隆は不機嫌な顔を見せ、陽子の唇を甘く塞ぐ。陽子は素直に伴侶に身を預けた。
 怖いと思うことなどなかった。それでも、こうして伴侶に抱かれると安らげる。

 この胸が、陽子の帰るところ。

 安堵の溜息をつくと、尚隆は躊躇いがちに口を開いた。
「──何も訊かないのだな」
「それを調べさせるのは、あなたの仕事だろう」
 何も訊く必要はないと思った。ここは雁なのだから、陽子が口を出すべきではない。しかし、尚隆は眉根を寄せて問うた。
「お前が襲われたのに、か?」
「──王なんて、理由もなく怨まれる者だろう。いちいち訊く気もないよ」
「あの娘が係わっていた、と言ったら?」
 確信を持った声。厳しい顔をする伴侶を見上げ、陽子は僅かに眉を顰めた。あの子が、何をしたというのだろう。それでも、ふっと息をつき、陽子は肩を竦めて笑う。

「──あの子には、私を怨む理由があるじゃないか」

 尚隆は一瞬黙した。そして、呆れたように笑う。何故そんなに笑うのだろう。陽子は不思議に思う。このひとの隣に立つということの意味を、陽子が忘れるはずはないのに。
「あなたはそうやって笑うけれど、私は覚悟しているよ」
「お前は、それでよいのか?」
「──何を、今更」
 陽子は不敵に笑う。このひとに焦がれていた。ずっと、このひとの隣に立つ女になりたいと思っていた。そして、その願いは叶えられた。このひとが陽子に許したこの場所を、誰かに譲る気など、ない。例え怨みを買うことになっても。
 尚隆は薄く笑み、陽子の右手を取った。そして、その手の甲にそっと口づける。陽子は目を見張った。

「そなたが、いつまでも俺の宝珠であることを願う、景王陽子」

 それは、姫君に跪く騎士の如き誓いだった。陽子は胸に迫る想いを言葉にできず、瞳を潤ませて頷いた。

2006.12.30.
 お待たせいたしました。 「1周年記念リクエスト」第8弾、中編「宝珠」(下)を、なんとか年内にお届けできました。 ちゃんと終わってよかったです〜。
 さてさて、このリクをいただいて、「尚隆が陽子を危険な目に遭わせるだろうか」と考えました。 あんまり想像できなくて、こんなに時間がかかりました。
 結局、「慶賀」の後で、「子供返り」していればこんなこともあるかなぁ、と妄想いたしました。 お気に召していただけると嬉しいです。

2006.12.30. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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