昏 闇 (1)
* * * 1 * * *
夕闇漂う狭い串風路に、舞い踊る紅蓮の炎を見た。その、鮮烈な紅の光。暗闇を照らす輝きでありながら、その色は昏い深淵を内包する。
煌く双眸はしっかと獲物を捉え、剣を繰るその細い腕は確かに妖魔を屠っていく。我知らずその光景に見とれた尚隆は呟く。
──天啓が降りた。これが、俺の運命だ、と。
それが、延王尚隆と、景王陽子の出会いであった。
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「至高の花を愛でる宴に、延王をご招待申し上げます。我が主にはまだお知らせしておりません。花が散る前に、いつもの如くお越しくださいませ。宰輔ともども、心よりお待ち申し上げております」
春まだ浅い北東の雁州国。雲海を渡る風もまだ少し冷たい。そんな中、玄英宮に、隣国慶の冢宰より春の宴への招待状が届いた。温暖な慶では、もう花がほころんでいるのだろう。延麒六太は面白そうに延王尚隆に告げる。
「至高の花とは詩的だよな、あの冢宰も。でも、奴は庭院に咲く花よりも、じっとしていねえ紅の花ばかり見てそうだよな。そんでもって、景麒もご同類だ」
「──確かにな」
咲き初めし紅の花の如く麗しい隣国の主、景王陽子。そんな鮮烈な美貌を持ちながら自由闊達な女王を思い浮かべ、六太は軽口を叩く。尚隆は笑みを湛えて応えを返す。内心の動揺を押し隠しながら。
延王尚隆は景王陽子の登極に助力し、後ろ盾となって長く慶を支えた。そのため、慶が安定してからも、王同士の親交は、周知のことであった。しかし、公にはされていない事実があった。
景王陽子は延王尚隆の伴侶である。
しかし。前国主予王が宰輔景麒に恋着して国を傾けて以来、慶では女王の恋は禁忌とされている。故に、その事実は雁でも慶でも、ごく少数の者にしか知らされていない。
雁はともかく、慶では神経質なまでに秘密とされている恋であった。そのため、慶から延王尚隆に宛てて書簡が来ることなど、滅多にあることではなかった。しかも、宴の招待状など、来た例がない。だからこそ。
──至高の花が、散る前に。
怜悧な冢宰が何を示しているか、尚隆はすぐに察知した。そんな主の物思いに気づかずに、六太は無邪気に笑う。
「花見の宴なら、おれも行きてえな」
「残念ながら、延王名指しだ」
尚隆はにやりと笑う。訝しげに見つめ返す六太に、尚隆は続けて言った。
「──陽子には内緒だと書いてあるだろう。お前まで来たら、勘付かれてしまって台無しだ。大人しく留守番するのだな」
「ちぇっ」
悪態をつく六太を残し、尚隆は早々に旅支度をした。あの冢宰がこんな書簡を寄越すなど、青天の霹靂だ。しかも、景麒も承知だという。主の伴侶を疎む二人の重臣が、あえて尚隆を招待する。しかも、大袈裟に訪ねるな、と念押しをして。それがどういう意味か分からぬ尚隆ではなかった。
──陽子。
胸でひとつ呟くと、尚隆は玄英宮を飛び立った。
* * * 2 * * *
「まだいるのか……っ」
息切らす娘の声に、自失していた延王尚隆は、はっと我に返る。紅の光を纏う娘に、毒を持つ妖鳥が迫っていた。尚隆は剣を抜き放ち、娘の助力に走った。
立ち竦む娘を襲う鳥を叩き落とす。その刹那、娘は迫りくるもう一羽を斬り捨て、突進してきた青牛を躱す。尚隆はその牛の後頭部に剣を突き通した。娘はその様を目を見開いて見つめる。助っ人に驚いて隙を見せる娘に襲いかかる鳥。青牛から引き抜いた剣でそれを薙ぎ払い、尚隆は娘を叱咤する。
「気を散じるな」
手を止める娘に声をかけると同時に、最後の鳥を造作なく斬り捨てた。娘は頷くと再び確かな腕で妖魔に立ち向かう。緋色の髪を靡かせ、紅蓮の炎を燃え上がらせて戦う娘は流麗だった。尚隆は内心感嘆しつつ、休みなく剣を繰る。それから辺りが静まり返るまで、いくらもかからなかった。
* * * * * *
鮮烈な紅の女王を想いつつ、騶虞を駆った。一国を一日で駆けとおす最速の騎獣に乗りながら、己と伴侶を隔てる遠大な距離を感じた。
金波宮禁門に辿りつくと、延王尚隆の姿を認めた門卒たちが一斉に叩頭した。ひらりと騎獣から飛び降りた尚隆は、走り寄る門卒に手綱を渡し、足早に門を潜った。
内殿に入ると、慶東国冢宰が自ら延王尚隆を迎え出た。後ろには宰輔景麒の姿も見えた。尚隆は単刀直入に切り出す。
「──何があった?」
「早速のお出ましに感謝いたします」
「御託はいい。──お前が俺を呼びたてるなど、よほどのことだろう」
「──回廊ではお答えいたしかねます」
浩瀚は恭しく拱手しつつ、慇懃に応えた。尚隆は浩瀚を睨めつける。その鋭い視線に怖じけることなく、浩瀚は踵を返すと尚隆を導いて歩き出した。
内殿の一室に落ち着くと、見知らぬ女官が茶を差し出した。女王の側近であり、友人でもある女史と女御の姿は見えない。尚隆は小さく溜息をつく。あの二人をも遠ざけるとは、事態はかなり深刻なようだ。尚隆は黙し、浩瀚が口を開くのを待った。
やがて女官が全て下がっていった。景麒はそっと使令に見張りを申しつける。そして、冢宰浩瀚は口を開いた。
「──主上は、暗闇に囚われようとしておられます」
「──お前たちが俺を呼びたてるような用事は、それしか考えられぬ。景麒、不調か?」
尚隆は浩瀚の言葉を予期していた。陽子の今の状態を把握しなければならない。景麒は見た目には普通に見えた。宰輔が失道の病に罹る頃にはもう手遅れだ。そこから立ち直った王は、それほどまでに少ない。
「いえ、変わりありません。しかし、主上の王気が……淡いのです」
景麒は苦渋に満ちた顔をし、首を横に振った。王の半身である麒麟には、王気が分かるのだ。
「──何があった、浩瀚」
尚隆は景王陽子の右腕である冢宰に目を移した。宰輔は不調ではない。それなのに、国主の王気が淡いとは。それは──。延王尚隆が投げる鋭い視線を、冢宰浩瀚は冷静に受け止めた。
「夢に、己の暗闇を見ておられるようです」
「悪夢、か──」
尚隆は遠くを見つめた。王の足許に潜む暗闇が見せる悪夢は、ときに景王陽子を苦しめる。叫び声をあげて目覚める陽子を尚隆が抱きとめ、宥めることは、一度や二度ではなかった。
「──主上がその暗闇を、臣に話すことはございません。勿論、友人にも」
浩瀚は尚隆に真摯な目を向けた。この男は、常に己の力を最大限に発揮して主を支えようとしている。そして、己の分を弁えている。王が抱える暗闇、王ゆえの狂気は、王にしか理解できないことを知っている。隣国の放埓な王、と尚隆を疎みながらも、必要とあらば頭を下げることを辞さない男。尚隆は内心感嘆する。
陽子、お前はよい臣を持った。そんなお前を捉える暗闇とは、いったい何だ──?
「──陽子と話がしたい」
「主上には、何も知らせておりません。宴の席までお待ちくださいませ」
恭しく頭を下げる浩瀚に、尚隆は厳しい顔で頷いた。
2006.08.20.
予告してから、かなり経ってしまいました。
やっと「昏闇」をお届けすることができました。
拍手連載するほど、煮詰まっていたのですが(笑)。
短期集中で、なんとか間延びせずに乗り切りたいと思います。
何卒よろしくお願いいたします。「4万打」ありがとうございました。
2006.08.21. 速世未生 記