昏 闇 (2)
* * * 3 * * *
「良い腕をしている」
血糊を払って剣を鞘に収めながら、尚隆は息を切らす娘に声をかけた。男物の粗末な袍を身に纏った娘は、その輝ける瞳で、臆せずに尚隆を見上げる。これほどまでに真っ直ぐに見つめられたのは久しぶりだ。思わず口許に笑みが浮かぶ。
「これを訊くのは無礼かもしれんが。──無事か」
娘は警戒心を露にし、黙って頷いた。尚隆は軽く片眉を上げ、重ねて問う。
「喋る体力も尽きたか?」
「……どうも、ありがとう、ございました」
娘は息を整えつつ、礼の言葉を返した。見上げる翠玉の瞳は、戸惑いに揺れていた。
* * * * * *
改めて掌客殿に案内された延王尚隆は、再び己の伴侶に想いを馳せる。鮮やかな紅の光を纏い、変わらず真っ直ぐに見つめる瞳を持つ女王──。
ほどなく華やいだ装いをした女史祥瓊が迎えに現れた。恭しく拱手する女王の友に、尚隆は親しげに声をかける。
「久しいな、祥瓊。相変わらず麗しい慶の花だな、そなたは。──我が伴侶は変わりないか?」
「お久しゅうございます、ようこそいらせられました、延王。我が主も、相変わらずでございます……」
ほう、と深い溜息をつく祥瓊に、尚隆は笑みを返す。女王を飾るのは今回も無理だったようだな、と。祥瓊は悔しげに頷いた。喉の奥で笑いながら、尚隆は祥瓊について歩き始めた。
女王の最も近しい友である祥瓊でさえ、相変わらず、と応えを返す。──伴侶を捉えた暗闇は、どれほど根が深いのか。尚隆は祥瓊に気づかれぬよう、密かに溜息を零した。
政務は常以上に精力的にこなしている、と冢宰浩瀚は奏上した。道を、見失っているわけではなさそうだ。それなのに、王気が弱っているのだ、と景麒は言葉少なに語った。ならば、何故──。
──陽子。何があった、何がお前を悩ませる──?
尚隆は独り胸で呟いた。
女史に導かれ、尚隆は宴の会場である内殿の美しい庭院に到着した。既に席に着いていた景王陽子は大きく目を見開き、呆れたように声をかける。
「これはこれは延王──。相変わらず、如才ない。いいときにいらっしゃいますね」
「随分なご挨拶だな、景王陽子。息災だったか?」
尚隆は人の悪い笑みを浮かべ、応えを返す。お蔭さまで、と陽子は苦笑を浮かべた。尚隆は女王の隣に設えられた席に腰を下ろした。
ささやかな宴が始まった。花の宴に相応しく、接待する女御鈴もいつもよりも華やいだ装いをしていた。しかし、我が伴侶たる女王は、女史の言ったとおり、相変わらずの長袍姿であった。尚隆は笑みを湛え、景王陽子に話しかける。
「──花の宴のときくらい、艶やかな恰好をしてみては如何なものか、景女王」
「珍しいことを仰る。延王でもそんなことを思われるのですね」
「無論だ。美しい花は、多いほうがよいに決まっておる」
「──また、そのような戯言を。金波宮には、延王の目を楽しませるに足る、美しい花が数多咲いておりますよ」
官服よりは華やいだ長袍を纏った女王は、花がほころぶように艶やかな笑みを見せる。それから、悪戯っぽく笑うと一言付け加えた。
「ただし、眺めるだけにしてくださいね」
「それは残念だ。美しき花は、手折られてこそ花、というべきだろうに」
「私の王宮で、そういう悪さは許しませんよ」
大仰に肩を竦める隣国の王に、景王陽子はそう言って鮮やかに笑った。その様子はいつもどおり、なんら変わらないように見える。
しかし、ふと見せる憂いに満ちた顔は、確かに覇気がない。それは、この闊達な女王には相応しくない表情だった。尚隆はそっと周囲に目を配る。
冢宰浩瀚と宰輔景麒は、常と変わらぬ態度を見せている。しかし、時折ちらと走らせる視線は、己の主の様子を確かめているかのようだった。
尚隆は何気なさを装って、浩瀚と目を合わせた。後は任せろ、視線でそう告げる。僅かに目を見張りながらも、怜悧な冢宰は、主の伴侶に目礼を返した。
* * * 4 * * *
「──私が延王に相応しいとは思えない……」
輝かしい翠玉の双眸を翳らせて、娘は小さく呟いた。鮮烈な光を纏いながら、暗闇を識る娘。だからこそ、俺にはそんなお前が必要なのだ。尚隆は揺れる娘に、人の悪い笑みを送る。
「それを決めるのは、お前ではないな」
己の浅ましさを恥じる娘は、はっと顔を上げた。煌く瞳で真っ直ぐに見つめ返す娘は、己の力を未だ知らない。
「俺に相応しい伴侶は、俺が選ぶ。他人がどう思おうと関係ないな。そして、お前が選ぶのだ、お前の道を」
尚隆は揺るぎない笑みを見せて断じ、揺れ動く翠の宝玉を捉えた。
俺を選べ、お前の意思で。
──やがて娘は、瞳に勁い光を湛え、頷いた。
* * * * * *
夜半にそっと伴侶の堂室を訪れた。伴侶はぼんやりと榻に腰掛けていた。卓子の上に置かれた茶器には茶が満たされていたが、手をつけた様子はなかった。
扉を静かに閉めた。伴侶ははっと顔を上げた。相変わらず、そういうところには隙がない。尚隆を認めると、伴侶は淡い笑みを浮かべ、立ち上がった。
その姿には、いつもの覇気がない。身に纏う紅の光も、淡く透きとおって見えた。──危うい笑みだ。まるで、このまま空気に融けてしまいそうな儚さ。
──置いて逝かれるかもしれない。
そんな不安が胸を過った。尚隆は足早に歩み寄り、伴侶の細い身体をきつく抱きしめる。伴侶は仄かに笑みを浮かべ、目を閉じた。その朱唇に口づけを落とす。二度、三度と交わされる口づけは、次第に深く濃厚なものになっていく。
尚隆はそのまま伴侶を榻に横たえた。伴侶がここにいることを、早く確かめたかった。夜着の帯を解き、華奢な身体を愛撫する。尚隆の性急さに、伴侶の瞳は戸惑いの色を隠さない。しかし、尚隆はそれに頓着しなかった。戸惑いながらも伴侶の肢体は尚隆の指に応えている。尚隆は構わず強引に伴侶の身体を開こうとした。目を見開いた伴侶は、身を捩り、細く喘いだ。
「──ま、待って……まだ……」
「──陽子」
驚き羞じらう伴侶の耳許に、尚隆はその名を囁く。尚隆の吐息に、伴侶の身体は敏感に反応していた。その曲線をなぞりながら、尚隆は人の悪い笑みを向ける。
「──俺が求めているときは、お前は俺のもの、なのだろう?」
尚隆の意地の悪い問いに、伴侶はほんのりと頬を染める。己の伴侶である尚隆にまで、私は誰のものでもない、と言ってのける女王。それは、そんな誇り高き伴侶と、遠い昔に交わした約束事だった。
伴侶は小さく溜息をつき、身体の力を抜いた。麗しい顔に苦笑を浮かべ、尚隆の首に細い腕を絡める。そして、尚隆の性急な欲求を、その身に受け入れた。
「──せっかちすぎるよ……」
情熱が果てた後、ぐったりと身を横たえた伴侶はそう零した。尚隆は、その豊かな緋色の髪を弄びながら、微笑を返した。
「そうか?」
「そうだよ……」
「では、次は、ゆっくりと──」
苦笑を浮かべ溜息をつく伴侶に、優しく口づける。尚隆は袍をしどけなく羽織り、伴侶を夜着で包みこんだ。そして、その軽い身体を抱き上げ、今度こそ臥室へと向かった。
牀に伴侶を横たえ、その翠玉の瞳を覗きこんだ。いつも輝かしく、見る者を吸いこんでしまう力を持つ双眸。尚隆を見つめ返すその瞳は、慈愛に満ちていた。
尚隆の不安を感じ取ったのだろうか。愛しむような笑みを浮かべ、伴侶は尚隆の背に腕を回した。その華奢な腕に抱かれ、尚隆は伴侶の胸に顔を埋める。確かな鼓動の音がした。
ああ、お前は今、ここにいる──。
その小振りな胸の頂に口づける。伴侶は微かに喘いだ。そう、この女は、決して大きな声を上げることはない。秘密の逢瀬を憚っているのだろうか。そして、その甘い吐息はいつも尚隆の官能を刺激した。普段の伴侶からは想像もつかない、あえかな声を、もっと聞きたい。
ゆっくりと優しく、伴侶のしなやかな身体を愛撫する。先刻の性急さを詫びるように。細く喘ぎ、切ない眼を向ける伴侶をきつく抱きしめる。甘い口づけを何度も交わす。そして、二人は再びひとつに融けあった。
2006.08.21.
「4万打」記念企画、中篇「昏闇」短期集中連載第2回でございます。
だんだん妖しくなってまいりましたが、ご勘弁くださいませ。
(ただいま照れている余裕がございません……)
2006.08.22 速世未生 記