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昏 闇 (最終回)

* * *  13  * * *

 滲んだ涙が煌く翠の宝玉を見つめ返し、尚隆は薄く笑んだ。己を抱きとめる細い腕が、愛おしかった。華奢な身体を抱きしめ、そっと唇を重ねた。そしてまた、閉じた瞳から零れた涙を、己の唇で拭った。

* * *    * * *

 宴の終わり頃、尚隆は女史と女御に耳打ちする。大袞のまま宿舎に寄越すように、と。堅苦しい正装を厭う伴侶は、すぐに大袞を脱いでしまうだろう。久しぶりの正装姿を、もっと近くで愛でたかった。
 女王の二人の友は真剣な顔をして頷いた。尚隆は笑みを浮かべる。祥瓊と鈴は、きっと大変な思いをして陽子を飾り立てたに違いない。その努力が報われることを、尚隆は己のためにも心から祈った。しかし。
 延王尚隆は、新たに用意された己の宿舎にて、伴侶を待った。現れた景王陽子は、既にいつもの長袍姿に戻っていた。落胆の溜息を漏らす尚隆に、伴侶は悪戯っぽい笑みを見せる。どうやら、それは意趣返しのつもりらしい。
 そんな伴侶を抱き寄せて軽く口づけ、尚隆は再び溜息をつく。大袞を脱がせてみたかったのに、と呟く尚隆に、伴侶は失笑を隠さない。子供みたいだ、と揶揄し、軽やかに笑い声を立てる。
 これくらいの意地悪は許されるだろう、と笑みをほころばす伴侶は美しかった。悪態をつきながらも尚隆も笑みを見せる。向きになって反論する伴侶に、尚隆は意地悪を言ってみた。

 そう、いつもしている深い口づけを、回廊でしただけのこと。

 顔を赤くして黙す伴侶に、尚隆はにやりと笑って畳みかける。憮然と言い返し、伴侶は物騒な目を向ける。尚隆は不敵な笑みを見せ、女王をやりこめた。
「──意地の悪いことを言う」
 本日新たについた称号を早速使うなんて、と伴侶は頬を染めて俯く。尚隆はくつくつと笑って羞じらう伴侶を抱き寄せ、その顔を覗きこむ。
「意地が悪いと言うか? お前を伴侶だと公言した俺のことを」
「あなたは、ずるい……」
 伴侶は羞じらう様を見せまいと、尚隆の肩に顔を埋めた。尚隆は楽しげに笑い、その髪を撫でた。伴侶は尚も言い返す。
「──捻くれた取り方をする。昔から変わらないな」
 尚隆は苦笑気味にそう言い、そっと伴侶の頬に触れた。思わず顔を上げた伴侶の輝かしい瞳を、尚隆はじっと覗きこむ。あのとき露にされていた暗闇は、今や姿を消していた。
尚隆(なおたか)?」
「陽子……」
 不思議そうに見上げる伴侶の名を、万感の想いを籠めて呼ぶ。そして、腕に収めた華奢な身体をきつく抱きしめた。驚き、小さく喘いだ伴侶の耳許に、尚隆は押し殺した低い声で囁く。
「──お前が、俺の運命だ」
「──」
「俺は……お前とともに在る。──今までも……これからも」
 そう告げながら、伴侶を抱きしめる腕が少し震えた。

 俺は、お前を、喪いたくない──。

 言葉に出せぬそんな想いが、尚隆の身の内から溢れていた。
尚隆(なおたか)……」
「──独りで煮詰まるな」

 お前はまた、俺を、置いて逝こうとしたのだ──。

 そんな想いを籠めた低い叱責に、伴侶は小さく息を呑む。王を誘う昏い闇に搦めとられそうだった伴侶。この腕に留めることができて、どんなに安堵したか伝えたかった。
「あのときのお前は、朝陽に融け去ってしまいそうだった……」
「──ごめんなさい」
 そう囁くと、伴侶は素直に涙を零した。そして、その小さな手は、尚隆の身体を抱きしめる。涙を恥じ、頑なに振り返らなかったあの日の姿を、尚隆は思い出していた。そして、淡く、儚く、消え入りそうだった笑みを。
 潤んだ瞳で見つめ返す伴侶に、尚隆は慈愛の笑みを向けた。そして、その涙をそっと己の唇で拭う。昔と同じように。伴侶は懐かしそうに笑みを零す。どちらからともなく、唇を求めた。見つめあい、笑みを浮かべ、また口づけを交わす。やがて、尚隆は悪戯っぽい笑みを見せて言った。
「何も言ってはくれぬのか?」
「──え?」
「──鈍いにも程がある……」
 潤んだ目をただ見開く伴侶に、尚隆は深い溜息をつく。初めて陽子を求めた夜に贈った言葉を、尚隆はもう一度告げた。返しの言葉が欲しかった。
 伴侶の頬がゆっくりと朱に染まる。翠玉の瞳から、再び涙が溢れた。尚隆は伴侶が言葉を紡ぐまで、ゆったりと待ち続けた。やがて、伴侶はゆっくりと、震える唇を動かした。

「──朝陽に融けないように、見張っていて……」
「無論そうしよう、これからずっと」

 尚隆は微笑し、再び伴侶と甘い口づけを交わした。軽い身体をそっと抱き上げ、尚隆は臥室へ向かう。後朝の別れを思わずにすむ初めての夜を、ゆっくりと過ごすのだ。そして、互いの温もりを感じあいながら、朝陽を二人で迎えよう。

* * *  14  * * *

 五百年に渡り、降り積もった昏い闇に灯りを点す、輝ける紅の光。怖けながらも、この果てしない深淵を覗きこむ、翠玉の勁い瞳。
 男を知らなかった早乙女は、誰よりも優しく尚隆を抱きとめた。その華奢な腕に抱かれ、尚隆は安らかな眠りに就いた。

* * *    * * *

 あの、初めての夜から、幾年が過ぎただろう。稚い娘は、艶麗な女の顔を見せ、未だに尚隆を惹きつける。長きに渡る憂いを払った伴侶は、眩しいばかりに美しかった。牀に伴侶を横たえた尚隆は、その麗しさにしばし言葉を失った。
 瞳を潤ませた伴侶は、微笑して尚隆に口づけた。尚隆は熱く烈しくその朱唇を味わう。暗闇に囚われかけた伴侶を、この腕に取り返した喜びを口づけに託して。そして、己の情熱を憚ることなく伴侶に示した。
 互いの想いを確かめあい、口づけと微笑を交わし、二人は目を閉じる。満ち足りた倦怠は、抱きあう恋人たちを、心地よい眠りへと誘った。
 やがて、明るい光を感じ、尚隆は目覚める。そして、腕に抱く確かな温もりを、愛おしげに見下ろした。伴侶はぐっすりと寝入っていた。
 乱れた長い緋色の髪を弄ぶと、伴侶は小さく寝返りを打った。露になったまろやかな肩の線と鎖骨の窪みが、尚隆の官能を呼び覚ます。
 己の伴侶は天命に縛られる女王。それを忘れてはならぬ、と自戒していた。そして、伴侶は秘密の恋を憚っていた。尚隆は、その滑らかな肌に己の刻印を施したことは、ほとんどない。
 慶東国国主景王陽子は、延王尚隆の伴侶と公に認められた。それならば──。そっと、肩に口づけた。そのまま、鎖骨へ、鎖骨の窪みへ、胸許へ、唇を滑らせる。鮮やかな紅の花を残しながら。
 やがて睫毛が動き、伴侶は目を開けた。そして、小さく叫び声を上げ、身を捩った。尚隆は伴侶を逃がさない。目を見張る伴侶に、にやりと笑みを返し、華奢な身体に口づけた。
「──尚隆(なおたか)、痛いよ」
「祝言の夜くらい、俺の我儘を許せ」
 いつも我儘じゃないか、と抗う伴侶に構わず、尚隆はその柔肌に所有印を刻む。小さく喘ぎながらも、伴侶はか細い声で言い募る。
「もう、朝だし──恥ずかしいよ……」
「よいではないか。お前が俺と共寝をしていることなど、周知の事実なのだからな」
 だから余計嫌なんだ、と伴侶は頬を朱に染め、顔を逸らす。尚隆は人の悪い笑みを見せ、無防備な首筋を強く吸い上げた。あ、と息を呑み身動ぎする伴侶を抱きすくめ、尚隆は存分にその肌を味わう。羞恥に涙を滲ませながらも、その愛撫に応える伴侶は可愛らしかった。尚隆は、陽光の下で、伴侶を優しく愛でた。
 やがて、空をたゆたう視線が、ゆっくりと降りてきた。気怠くも柔らかな沈黙を、微かな声が躊躇いがちに破る。

「──何故、道に悖ることを……言ったの……?」

「理由が、必要か?」
「──ずるいね。訊いているのは、私なのに……」
 伴侶は小さく呟き、輝かしい瞳を少し翳らせた。そんな伴侶を抱き寄せ、尚隆は揺るぎなく告げる。
「あれが、俺の本音だ」
「本気で言っているの?」
 伴侶は鋭く言い返し、尚隆の瞳を睨めつける。尚隆は笑みを湛え、続けて言った。
「無論、本気だとも。俺を選んだときから、お前は雁をも背負っているのだぞ。心しておけよ」
「……慶だけでも重いのに、もっと重いものを背負わせないで……」
 伴侶は深い溜息を零し、麗しい顔を少し 蹙めて苦笑した。尚隆は伴侶の頭を撫で、耳許で囁いた。
「──お前は、俺がお前に何も望まぬ、と言ったが……」
 伴侶は澄んだ瞳で尚隆を見上げる。尚隆はその瞳を覗きこみながら、おもむろに続けた。
「お前はお前のままでよい。寧ろ、そのままでいて欲しい。俺が望むのは、それだけだ。ただ──俺の前では、無理をするな」
「──うん……」
 素直に頷くと、伴侶は再び涙を零した。紅の強い輝きを放つ女王。その光の後ろには、必ず影ができる。光が強ければ強いほど、暗く濃い影が足許に潜む。
 伴侶を捉えようとした暗闇は、尚隆の暗闇でもあった。この背に担う国も民も放り出し、ひとりの男として伴侶と共に在りたい。そんな想いが心の隅に常にある。
 それも、己なのだ。光も闇も、ともに身の内にある。それを、忘れぬこと。己が己であるために。己が王であるために。
 尚隆は微笑すると、伴侶の零れた涙を己の唇でそっと拭った。そしてまた、甘い口づけを交わす。互いに抱く昏い闇に、灯りを点すために。

2006.08.31.
 お待たせいたしました。 「4万打」記念企画、中編「昏闇」最終回をお届けいたしました。 「慶賀」〜「蜜月」の裏語りはこれにて終了でございます。如何でしたでしょうか。
 ──燃え尽きました。構想半年、執筆は10日で72枚。 こんなことは、もういたしません。
 ──けれど、それくらい切迫し、情熱を傾けて書き上げた作品でございます。 お気に召していただければ幸いです。

2006.08.31. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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