深 奥 (1)
* * * 1 * * *
「──浩瀚……」
紅い唇が彼の名を呼ぶ。妖しい光を湛えて見つめる翠の瞳。それは、今まで見たことのない、誘惑の色を浮かべていた。
目眩がする。引き寄せられる。幻惑される。逆らえない甘い声。ああ、こんなにも、心惹かれている。
いつまでも純粋で、どこまでも無防備で、女の匂いがしない女王。
本当に男を知っているのだろうか。
そんな不遜なことを、心の奥底で考えていた。出会ったとき、主には既に伴侶がいた。しかし、主はそんな素振りを見せたことがない。それは、王であろうとする主の矜持なのだろう。
女王の恋愛は慶を滅ぼす。
いつしかそう囁かれるようになっていた。主は、隣国の王との恋を、見事に隠していた。しかし、浩瀚はそれをすぐに看破した。いつも傍で見つめていた。だから、その勁い瞳が何を追っているかを知ることができた。微かな心の動きを察することも。
鮮やかな笑み。闊達な物言い。そして、時々曝される無防備な顔。全てを愛しいと思う。そして、浩瀚は邪な想いを心の奥底に隠す。浩瀚には決して明かされない、女の貌を、見つめてみたい。ただ、一度だけでも。
「──浩瀚」
紅い唇が、もう一度、彼の名を呼ぶ。くすりと漏らされる蠱惑的な笑い声。豊かな緋色の髪を煽情的に掻き上げる細い指。そして、恋しいひとは艶麗な女の貌で誘惑する。
「──何故、躊躇う?」
それがお前の望みなのであろう? 手を伸ばせばよい。ただそれだけであろう?
麗しき女王は、おもむろに手を差し伸べる。その誘惑に、浩瀚は屈した。震える手を伸ばし、愛しいひとにそっと触れる。触れてしまえば、もう戻れない。そうと知りながら。
「──浩瀚?」
差し伸べられた小さな手に触れた途端、誘惑する女は消え失せる。目の前にいるのは、純粋な目を向ける可憐な乙女。しかし、伸ばした手を止めることはできなかった。
そして──見開かれる瞳。抗おうとする華奢な身体。抱きすくめる腕の力を強める。そして、その美しい唇を奪い、存分に味わう。そのまま纏った袍の襟元を開く。その滑らかな肌に残された、鮮やかな紅の花びら。それは、かの方が刻んだ所有の印──。
それを認めた浩瀚の脳裏に過るもの。かの方の腕の中で、かの方だけに女の貌を見せる艶めかしき女王──。浩瀚の中で、何かが切れる音がした。
「──嫌、止めて……!」
細い声が谺し、辺りに暗闇が立ちこめた。
己の叫び声で目を覚まし、浩瀚は肩で息をする。これが、己の持つ昏い闇。愛するひとを、無理にでも己がものにしたい欲望。これが、女王の右腕、怜悧な冢宰と言われる己の正体──。
なんと邪なのだろう。主の心は己にはない。そんなことはよく知っている。主は伴侶である隣国の王をひたむきに見つめているのだから。
浩瀚は主が己を臣としてしか見ていないことを承知している。主がいつも浩瀚に向ける、信頼の眼差し。それを裏切ってしまえば、二度と主の傍にいられないだろう。分かりすぎるほど分かっている、その現実。
そして──主の伴侶、延王尚隆は、浩瀚の想いを知っている。その上で、浩瀚を挑発した。
(欲しいと思うなら、手折ってみよ)
かの方が何を以てそんなことを言ったのか、未だに分からない。しかし、浩瀚はあのときの延王尚隆の本気の貌を忘れたことはない。
(ただし──陽子を傷つけたら、ただではおかない)
そう宣して浩瀚を壁に押し付け、嗤った凄惨な貌を──。
思い出したのは、かの方の顔だけではなかった。浩瀚は、あの紅い唇の感触を、知っている。驚くほど間近で名を呼ばれ、花に誘われる蜂のように口づけた、あの朱唇の瑞々しさが生々しく蘇る。
あのときの主も、夢で見たように、驚きに目を見張った。が、主は浩瀚の惑乱を、大きな心で許してくれた。もう二度と不遜なことはしない。浩瀚はあのときそう心に誓った。
それなのに。それ故に。心は千々に乱れる。浩瀚は己の顔を両手で覆い、深い溜息をついた。
* * * 2 * * *
己の昏闇を抱えつつ、常の如く主の前に伺候した浩瀚は、いつもどおりを装う。が、主はそんな浩瀚に不思議そうに訊ねた。
「──浩瀚。どうした?」
主は、こんなときほど臣の不調に気づく。浩瀚はその輝かしい瞳を直視することができなかった。浩瀚の持つ邪な欲望を知ったら、この清麗な女王はどう思うだろう。夢で見た、驚愕に見開かれた瞳を思い出し、浩瀚は目を伏せる。
「──いえ、どうもいたしませんよ」
「顔色が良くない。具合が悪いなら休んだほうがいいぞ」
主は心配そうに浩瀚を覗きこんだ。浩瀚は小さく息をつく。どこまでも真っ直ぐな主に、嘘をつくことなどできない。かといって、本当のことなど言えるはずもない。
「少々、夢見が悪かっただけですよ。お気になさらずに」
「夢見、か」
そう呟くと主は遠くを見やる。それから軽く頭を振り、浩瀚を真っ直ぐに見つめて静かに問うた。
「──夢は、お前の暗闇を、暴いたか?」
主の淡々とした言葉に、浩瀚は絶句した。純粋すぎて、鈍いことすらある女王は、時々驚くほど鋭い一面を見せる。そんな浩瀚を見上げ、主は再び問うた。
「──図星か?」
「お見それいたしました、主上。しかし、主上のお口から、暗闇などという言葉をお聞きすると驚きますね」
「──買い被るな。私とて人に語れぬ暗闇を持っている」
翳りのある笑みを見せ、主はつと目を逸らした。紅の光を身に纏う輝かしき女王の暗闇──。人が他人に語れぬ暗闇を持つのは世の常だ。しかし、この女王にそれは似つかわしくなかった。
そう思うこと自体が、主の言う買い被りなのだろうか。清冽で眩しい女王の暗闇とはいったい何なのか。そして気づく。光がまばゆいほど、その後ろの影が濃くなることに。不意に背筋に冷たいものが流れた。
──己の暗闇に感けている場合ではない。
そして、主に気づかれてはならない。通常通り政務をこなした後、浩瀚は宰輔の許へ急いだ。至急の目通りに、宰輔は驚くことなく浩瀚を迎え入れた。その、沈んだ夕闇色の双眸。
「──台輔」
「浩瀚……もしや、気づいたのか?」
静かな問いかけに、浩瀚は全てを悟る。目に見えるほどではない。しかしそれは、もう既に始まっているのだ。
「──ご不調、でございますか……?」
「いや、私はまだ、そのようなことはない。しかし……」
言い澱む宰輔の言葉を、浩瀚は固唾を飲んで待った。拱手のために組んだ手が震えるのを感じた。
「──王気が、淡いのだ。透き通るように……」
言って宰輔は目を伏せた。浩瀚は瞠目する。宰輔は不調ではなく、主の王気が淡い。ということは、主は──。
「台輔、あの方をお呼びしましょう。手遅れになる前に」
「浩瀚……」
宰輔は溜息をつく。半身である麒麟は王の変調にいち早く気づいた。が、原因が分からない。そして、誰にも相談できない。宰輔の苦悩は押して知るばかりだった。
主の伴侶に頼ることに、宰輔は抵抗を感じている。それは浩瀚も同じだ。放埓な隣国の王の、人を喰ったよう笑みを思い出すと、何とも言えない気分になる。しかし、主の身に迫る危険を思えば、そんな個人的な感情は吹っ飛んでしまう。
かの方は、主の伴侶であり、王としても先達である。王が持つ暗闇を、王ゆえの物思いを、悠久の時を王として過ごしているかの方なら理解できるだろう。浩瀚は真摯に宰輔を見つめ、希った。
「台輔。今は主上の御身が一番でございます。ご決断を」
「──お前に任せる」
しばし視線を合わせた後、宰輔は目を伏せ、静かに宣した。浩瀚は恭しく拱手し、宰輔の許を辞した。
それから浩瀚は頭を巡らせる。他の誰にも気づかれず、かの方にだけ、主の変調が分かるような、そんな言い回しを。招聘の理由など、何でもよい。春だから、花の宴とでも──。
ああ、至高の花を愛でる宴にしよう。浩瀚は咲き初めた紅の花のように艶やかな主を思い浮かべ、そう決めた。至高の花、それが慶東国国主景王陽子のことだと、英明なかの方はすぐに気づくだろう。
浩瀚は早速隣国の王に向けて書簡を認めた。放浪好きなかの方が、大人しく玄英宮にいることを切に願いながら。
2011.06.19.
「22万打御礼企画」中編「深奥」第1回をお送りいたしました。
久々の連載がこれですか、しかも御礼ですか、とのお声が聞こえてきそうですね。
5回くらいで終わればよいなと思っております。
しばらくお付き合いいただけると嬉しく思います。
「22万打」ありがとうございました。
2011.06.23. 速世未生 記