深 奥 (2)
* * * 3 * * *
延王来訪の報せに、浩瀚は宰輔とともに禁門へと急ぐ。招待状を送ってから、まだ幾日も経っていない。主の伴侶の迅速な行動に、浩瀚は己の真意が伝わったことを確信していた。
いつも案内を請うことなく気儘に金波宮を闊歩する隣国の王は、もう既に内殿に入るところであった。
厳しい貌をした延王尚隆は、浩瀚を見るなり、何があった、と単刀直入に問うた。己の確信が正しいことを感じつつ、浩瀚は恭しく頭を下げる。そして、招聘に応じてくれた賓客に礼を述べた。
「御託はいい。──お前が俺を呼びたてるなど、よほどのことだろう」
延王は秀眉を顰め、苛立たしげにそう言った。核心に触れぬ浩瀚に対する不快を隠すことなく。しかし、浩瀚は怯むことなかった。立ち話ができる内容ではないのだ。
「──回廊ではお答えいたしかねます」
慇懃に拱手して応えを返す浩瀚を、鋭い視線が射抜く。稀代の名君と呼ばれながらいつも鷹揚な延王尚隆の本気を見たのは久しぶりだ。が、浩瀚は怖じけることなくその目を見つめ返す。それから軽く頭を下げて踵を返した。
背中に際立つ気配を感じつつ、浩瀚は内殿の回廊を歩く。予め用意してあった一室に賓客を招き入れ、扉を閉める。茶の支度をしていた女官が丁重に客人をもてなした。
延王は差し出された茶に手を出すこともなく、小さく息をつく。そのまま黙して浩瀚をじっと見つめる。接待する女官が慣れ親しんだ女史でも女御でもないことの意味を分かっているからであろう。先ほど見せた苛立ちは影を潜めていた。
女官が頭を下げて静かに退出した。宰輔が使令に見張りを申し付けるのを確かめて、浩瀚は重い口を開いた。
「──主上は、暗闇に囚われようとしておられます」
「──お前たちが俺を呼びたてるような用事は、それしか考えられぬ」
聞いた主の伴侶は浩瀚を見据えたまま重々しく頷く。稀代の名君は、やはり浩瀚の意図を即刻理解したのだ。そして、即行で確認にやってきた。このときばかりは浩瀚もその王らしからぬ行動力に内心感謝した。
延王は景王の半身に目を向ける。そして、厳しい顔つきで宰輔に短く問うた。
「景麒、不調か?」
「いえ、変わりありません。しかし、主上の王気が……淡いのです」
宰輔の声には苦渋が満ちている。普段感情を露にすることが少ない宰輔だけに、事の深刻さが窺えた。宰輔に失道の病がないことを確かめて、延王は浩瀚に視線を戻す。そのまま鋭い目を向けて静かに問うた。
「──何があった、浩瀚」
(──夢は、お前の暗闇を、暴いたか?)
主の問いかけが浩瀚の胸を過った。麗しい顔に翳りのある笑みを浮かべた女王を思い出し、浩瀚はそっと息をつく。人に見せられぬ暗闇を持つ、と明言した女王。浩瀚は主の伴侶に応えを返す。
「夢に、己の暗闇を見ておられるようです」
「悪夢、か──」
延王はそう呟き、浩瀚から目を外す。そして遠くを見やった。主の伴侶は、知っているのだ。半身の麒麟ですら知らぬ、女王の闇を──。
苦しさに胸が締めつけられる。それでも言わねばならなかった。己にはできぬことを託すために。浩瀚はひたと主の伴侶を見つめた。主と同じ、胎果の王を。
「──主上がその暗闇を、臣に話すことはございません。勿論、友人にも」
そう、主は孤高の女王だ。国政の案件について臣に相談することはあっても、己の悩みを打ち明けることはない。そして、どんなに辛いことがあっても、決して涙を見せないのだ。
そんな女王を、延王は抱きとめているのだろうか。浩瀚は万感の想いを込めて主の伴侶を見つめ続けた。
延王尚隆は静かに浩瀚を見つめ返す。悠久の時を玉座にて過ごす王者の目は、感情を露にすることはない。浩瀚もただ静かにその視線を受けとめた。やがて、延王はおもむろに口を開いた。
「──陽子と話がしたい」
「主上には、何も知らせておりません。宴の席までお待ちくださいませ」
浩瀚は隣国の王に恭しく頭を下げた。主の伴侶は厳しい面持ちで頷いた。
* * * 4 * * *
「お呼びでしょうか」
冢宰浩瀚の執務室に現れた女史は、恭しく頭を下げる。浩瀚は微笑を浮かべ、簡潔に用件を述べた。
「祥瓊、延王がご到着だ。支度ができ次第掌客殿へ」
「畏まりまして」
きっと主上は驚かれるでしょうね、と続け、主の友でもある女史は花ほころぶような笑みを見せ、優雅に拱手する。浩瀚もまた笑みを湛えて頷き、退出する女史を見送った。
浮かぬ顔の女王のために宴を開き、その心を慰めよう。そんな冢宰浩瀚の提案に、女王の側近はみな等しく賛成した。最近姿を見せていない女王の伴侶を密かに招待している、と告げたとき、みな一斉に宰輔を見た。主の伴侶を厭う宰輔も眉根を寄せつつ首肯し、その場には安堵の空気が満ちた。
そして浩瀚は、此度の宴が主には内緒である旨を周知徹底させた。側近が動けば主に感づかれてしまう。浩瀚の言に、女史も女御も納得済みであった。
宴が女王の伴侶を呼び寄せるための口実だとは、おくびにも出さなかった。無論、全てを知る宰輔とも綿密な打ち合わせをしていた。故に、主の伴侶に本題を告げるとき、主の友たちを遠ざけることができたのだ。
浩瀚はそれとなく探りを入れた。祥瓊も鈴も、常と何ら変わりない様子だった。主は己の友である女史と女御にさえその暗闇を知らせることはないのだ。
浩瀚は、何も知らぬ者たちに王の闇を気づかせたくはなかった。それは、女王の半身である宰輔の意向でもあった。
宴の準備は事前に終わっている。気儘な隣国の王の訪れが、始まりの合図と決められていた。それゆえ、延王到着の報が伝えられるや否や、側近たちは速やかに動き、政務に没頭する女王を促して、首尾よく宴席に導いたのだ。
「──浩瀚、いきなりなんだ?」
官服から華やかな長袍に着替えさせられた女王は、不機嫌そうに浩瀚を睨めつける。祥瓊は今回も襦裙を着せることはできなかったのだな、と思いつつ、浩瀚は涼やかに笑んで予め用意していた応えを返した。
「主上は先日私に休養をお勧めになりましたね」
「それが何か?」
「主上も一緒に休養なさいませんか?」
「──浩瀚」
それとこれとは話が違う、と主は柳眉を顰める。思った通りの反応だ。浩瀚は満面に笑みを浮かべ、恭しく拱手して答えた。
「私は主上の臣です。主上がお休みにならなければ休むわけにはまいりません」
「お前は相変わらず口が巧いな」
「恐悦至極に存じます」
「──褒めているわけじゃないんだが」
「私にとっては十二分にお褒めの言葉でございます」
立て板に水をかける如く滑らかにそう返し、浩瀚はわざとらしく頭を下げる。主は苦笑しながらも宴への出席を首肯したのだった。
宴席は内殿の庭院の一角に設けられていた。春早く咲く花が植えられていて、花の宴には相応しい場所であった。しかし、上座に坐した女王は、ほころびる美しい花々も目に入らぬ様子だった。
やがて、宴の席に、華やかに装う女史に先導された賓客が現れた。主は翠の瞳を大きく目を見張り、呆れたように声をかけた。
「これはこれは延王──。相変わらず、如才ない。いいときにいらっしゃいますね」
「随分なご挨拶だな、景王陽子。息災だったか?」
延王はいつもの如く人の悪い笑みを見せて応えを返す。そして、お蔭さまで、と苦笑する女王の隣に設えられた席に腰を下ろした。
主賓が到着し、ささやかな宴が始まった。浩瀚はそっと主に視線を向ける。主は久しぶりに会う伴侶と楽しげに語らっていた。その様子はいつもどおりで、何も変わりはないように見える。しかし、ふと見せる憂いに満ちた貌には覇気がない。宰輔が小さく溜息をついた。
伴侶でさえ、主の気を引き立てることができないというのか。
浩瀚は溜息を堪える。そんなとき、強い視線を感じた。目を上げると、延王と目が合った。後は任せろ、主の伴侶は視線でそう告げる。浩瀚は僅かに目を見張り、目礼を返す。そしてまた、憂愁の麗しき女王に目を戻した。
2011.06.26.
中編「深奥」第2回をお送りいたしました。
浩瀚の頑張りを見守っていただきたいと思います、今回は。
2011.06.30. 速世未生 記