深 奥 (最終回)
* * * 9 * * *
「──絶対、お前を泣かせてやる」
雁からやってきた鸞は、隣国の王の声で、一言そう鳴いた。主は怒りに身体を震わせ、拳を固く握り締める。そして、朱に染まった顔で浩瀚を睨めつけた。
「──浩瀚」
怒気孕む主の声に、浩瀚は恭しく頭を下げる。主は隣国からの鸞の受け取りを拒否した。怒れる主の執務室へ、延王の親書である鸞を運びこんだのは浩瀚である。主の叱責は重々承知していた。浩瀚は静かに続きを待つ。
「延王の公式訪問を受けたそうだな」
「はい」
「──私は延王に会う気はないぞ」
主は断固とした口調で言い切った。浩瀚は鸞と同時期に届いた延王公式訪問要請の正式文書を主に提示する。そして、顔を背ける主に、至極事務的な説明をした。
「それは困ります、主上。今回はあの方には珍しく、非の打ち所のない訪問要請をされています。理由も申し分ありません。このように正式な訪問を拒むことは、礼儀に反します。主上が嫌だと仰っても無理でございます」
主は渋い貌を見せつつも、反論はしなかった。かといって、提示した書簡を手に取ることもしない。それは浩瀚の思惑通りであった。
「──好きにしろ。但し、私は一切関知しない」
「寛大なお言葉に感謝申し上げます」
心からの謝辞を述べ、浩瀚は深く頭を下げる。そして不機嫌な主の命により王の執務室を辞した。
主は浩瀚が最も必要とする言葉を口にした。勿論そう誘導したのは浩瀚ではあるが。延王公式訪問の目的を知らないのは主だけである。浩瀚は既に有司議を設け、主だった者の了承を取り付けていた。無論、各官府の長や州侯は驚きを隠さなかった。が、それは長きに亘り私的感情を隠し通した主のへの称賛も多分に含まれていた。難色を示した者も中にはいたが、慶に安寧を齎した景王陽子の功績は、女王の恋への批判をも凌駕したのだった。
当日、延王尚隆は正装に身を包んで現れた。いつもの簡素さとは一線を画するその姿は金波宮の者たちを圧倒する。宰輔は此度の目的を鑑み、主の伴侶にその旨の申し出をしたのであった。皆が息を呑む中、大袞で正装した主は不機嫌きわまりない貌で隣国の王を出迎えた。延王はそれをものともせず、いきなり本題を告げる。
「そなたのために後宮を用意した」
「──は?」
「これから玄英宮を訪うときは、そなたの宿舎は後宮だ。景王陽子は延王尚隆の伴侶なのだから」
さらりとそう言う延王尚隆に、主は目を見開いたまま絶句した。延王は主のその反応を楽しむように笑って先を続ける。
「というわけで、今日から俺は掌客殿には行かぬ」
「はい、延王の仰せのままに」
延王の視線を受けて、浩瀚は恭しく頭を下げる。主は呆気にとられたまま、小さな声で呟いた。
「──話が全く見えない……」
「景王陽子、今回、俺はそなたに求婚しに参ったのだ。なに、慶の方々には快い受諾を貰ったぞ」
「うそ……」
主は年相応の少女のように目を見張り、何も言えずに辺りを見回した。いつも毅然とした女王の顔を見せる主の戸惑う姿は可愛らしく、見つめる官吏たちの視線を和らげる。主は困惑したように浩瀚に目を向けた。
「どうして……」
あなたの暗闇を晴らしたいからです。
主の問いに、浩瀚は胸でそう返した。主をこの世に留めるために、今まで奔走してきたのだ。浩瀚は己のただ一人の主に忌憚ない本音を語った。
「──主上、私は以前申し上げたことがございます。主上は人としての幸せを望んでも構わないのですよ、と。今、慶の民は、皆そう思っております。主上は国に安寧を齎してくださいました。主上は充分国に尽くしておられます」
そう、国の安寧ばかりを望んできた女王。主は自らの想いなど打ち明けることはなかった。ずっと国のために尽くしてきたのだ。己の幸せを置き去りにして──。
「──主上、お望みを仰ってくださいませ」
浩瀚は万感の想いを籠めてそう訊ねた。主を見つめていた官吏たちも等しく頷く。そうして深く頭を下げた。
「──景麒……?」
主は躊躇うように己の半身に目を向ける。主の伴侶を良く思っていない宰輔が、微笑を浮かべて頷いた。
* * * 10 * * *
「──私は……」
絞り出すような震え声を残し、主は子供のように両手で顔を覆う。笑みを湛えた主の伴侶がゆっくりと主に歩み寄った。そして、細い肩にそっと手を置く。しかし、主は頑なに顔を上げなかった。
長い付き合いを公に明かした二人の王は、しばし微笑ましい遣り取りを続けた。いつもの応酬のようで、いつもとは違う。少なくとも、主にいつもの覇気はなかった。
「──お前は、嫌か?」
遂に延王が心配そうに問う。主は小さくかぶりを振り、いいえ、と微かに呟いた。伴侶の手で露わにされた主の顔は、息を呑むほど美しかった。宝玉のように輝かしい翠の瞳を潤ませ、主は伴侶に淡い笑みを返す。そして端然と頭を上げ、晴れやかな笑顔で周りを見渡した。
「──みな、私の願いを叶えてくれて、ありがとう……」
主の朱唇が感謝の言葉を紡ぐ。そして、主は初めて臣の前で涙を見せた。清らかな雫は、瞳の奥に隠されていた暗闇を溶かし、外へと流していく。潤んだ翠玉の瞳に浮かぶものは、もう柔らかな笑みのみだった。
お戻りなさいませ、主上。
公に認められた伴侶に肩を抱かれて微笑む主に、浩瀚は声に出せぬ想いを籠めて深く頭を下げた。
その後、華やかな慶賀の宴が開かれた。隣国の王の求婚を受けた主は、晴れやかな美しさを見せる。鮮烈な美貌を持つ女王が正装したとなれば、誰もが目を奪われる麗しさであった。
主の涙にもらい泣きしていた官吏たちも、輝くばかりに美しい女王の姿に釘付けになっていた。同じく大袞で正装した伴侶の隣に立つ主を見て、永年二人の恋を見守ってきた女史と女御はそっと目許を押さえている。主の異変にいち早く気づいていた半身たる宰輔も、穏やかな貌で二人を見つめていた、
浩瀚もまた安堵の笑みを浮かべて主を見つめる。視線を移すと、主の伴侶と目が合った。闇に呑まれかけていた主を連れ戻してくれた隣国の王に、浩瀚は感謝の目礼を送る。主の伴侶は笑みを湛えて頷いた。そんなとき。
「──よろしいのですか?」
後ろから聞き慣れた声がする。浩瀚は笑みを浮かべ、振り向きもせずに訊き返した。
「何がだ?」
「──ほんとうにこれでよろしいのですか?」
酒杯を手にした桓魋が隣に立ち、気遣わしげに浩瀚を見つめる。一度視線を外した桓魋は、躊躇いながらも再び同じ問いを投げかけた。浩瀚は苦笑を浮かべる。
「だから、何がだ?」
「──俺にまで隠すおつもりですか?」
深い溜息をつき、桓魋は主にちらりと視線を走らせる。秘めていた恋を公に認められ、積年の憂いを払った主は、眩しい笑みを浮かべて己が伴侶を見つめていた。桓魋は眉根を寄せ、再び嘆息する。
「あなたと台輔が全てのお膳立てをしたとのこと、俺は聞いて呆れましたよ」
「かの方は、ずっと以前から主上の伴侶であられただろう?」
「それとこれは、別の問題でしょう」
笑みを湛えて返した浩瀚に、桓魋はまたも深い溜息をつく。どうにも納得がいかない、と蹙めた顔が語っていた。唇に笑みを浮かべたまま、浩瀚は胸で呟く。
桓魋、お前はあの昏い闇を知らない。命ある限り王で在らねばならない者が抱く、圧倒的な暗闇を──。
浩瀚は、主が見せた翳りのあるあの笑みを忘れることはないだろう。まばゆい光の後ろにできる、濃すぎるほどの影の存在を。その闇を、側近中の側近である浩瀚でさえも、垣間見ることしかできなかった、という事実をも。
「主上には、陽光の笑みが相応しいとは思わないか?」
「──お人よしですね」
いつもの笑みを返す浩瀚に、桓魋は遠慮のない感想を述べる。そんな桓魋も主の鮮やかな笑みを眩しげに見やった。
浩瀚は慶東国を遍く照らす太陽のような女王を見つめ続ける。御名の通り、輝かしい光を纏う主が隠し持つ深淵を忘れてはならない。国を守る王に仕え、護ることが臣の役目。
誰よりも近いこの場所で、ただ一人の主を護り、支え続ける。
己の深奥を覗きこんだ浩瀚は、清々しく気持ちを新たにした。想いを籠めて胸で囁く。
あなたが幸せでありますように。
2011.07.23.
中編「深奥」最終回をお送りいたしました。
これにて「慶賀」及び「昏闇」の浩瀚視点はお終いとなります。
長編「滄海余話」に入っております短編「同想」は
「深奥」を念頭に置いて書いた作品でございました。
感慨深く思います。
皆さまにもお気に召していただけると幸いでございます。
2011.07.23. 速世未生 記