深 奥 (4)
* * * 7 * * *
気づけば空が白んでいた。浩瀚はのろのろと身を起こす。阿鼻叫喚に満ちた昨夜の出来事は、全て己の浅ましさが見せた幻影であった。常と変らぬ己の房室がそれを告げる。浩瀚は重い溜息をついた。それが安堵のものか、はたまた屈託のためか。浩瀚にも分からなかった。
己の深奥に潜むものは白日の下に曝された。目を逸らすことも許されず、浩瀚は醜悪な己を見せつけられたのだ。
あれが己の真実。
それを愛しいひとの前で残酷に宣した者は、主の伴侶。最も知られたくない二人の人物の前で暴かれた己の暗闇は、浩瀚を打ちのめす。しかし、知られたくない、と思う心こそがあのような夢を見せたのかもしれない。浩瀚は唇を噛んだ。
あれは夢だ。単なる幻だ。
ならば、これ以上、己の物想いに拘っている暇はない。現で起きている由々しきことに立ち向かわなければならないのだ。
夢は浩瀚の不安を如実に表していた。宰輔は主の王気が淡いと明かした。それは、主が玉座を厭い始めたということ。王が玉座を降りるときとは、即ち死を意味する。王は、死するまで、玉座に縛られるのだから。
昔、主は弑逆されそうになったことがある。それは登極後間もない頃。丸腰で逆賊に取り囲まれた主は抵抗することなかった。宰輔の使令が間に合い、事なきを得たが、後に駆けつけた隣国の王はそれを「自害に等しい」と断じ、主を叱責したという。
自ら命を断てば、国が滅びる。しかし、誰かに弑されるのならば、国が滅びても己のせいではない。王がそんな考えに囚われること自体、消極的な自殺になるのではないか。そう思うと肝が冷える。
浩瀚が見た夢は夢に過ぎない。しかし、主の「ありがとう」という言葉は、自ら命を断つ理由を探していることを象徴しているかのようであった。
(──買い被るな。私とて人に語れぬ暗闇を持っている)
主の翳りある横顔が胸を過った。主の抱える暗闇の深さを思うと震えが走る。その闇が主を呑みこんでしまったなら。想像するだけで力が抜けそうになる。主が喪われれば、浩瀚も生きてはいられないだろう。
主をこの世に留めたい。
その想いこそが浩瀚を突き動かす。そのためならば、何でもする。反りの合わない主の伴侶を呼びつけることも厭わない。気持ちを新たにし、浩瀚は臥牀を降りた。
かの方は主を説得できたのだろうか。少しでも状況は好転したただろうか。身支度を整え、浩瀚はすぐに宰輔の許へと足を向けた。
「──浩瀚、かの方は、国に後宮を用意するそうだ」
執務室に入った途端、宰輔の声がした。いつもどおり感情の籠らない声ながら、語尾が震えている。浩瀚は深く頭を下げた。面を上げよ、と声がする。顔を上げると揺れる宰輔の目と視線が合った。
「主上を喪いたくない……と。それは、私もお前も同じはずだ、と」
夕闇を思わせる瞳は陰鬱な色を宿し、浩瀚を真っ直ぐに見つめていた。浩瀚は延王尚隆らしい衒いのない簡潔な言を胸の内で反芻する。かの方は、主との関係を公にする、と宰輔に宣したのだ。
慶は女王の恋を厭う。
故に、景王陽子の想いは秘められている。事情を知る延王尚隆がそれを拒むことはなかった。登極当時からずっと続く二人の恋を公にする、とかの方が決めたのなら、その必要があるということだろう。浩瀚はそう判断した。しかし。
宰輔は女王の恋を公にすることを躊躇っている。確かに王同士の婚姻は前例がない。しかし、天の条理に反しているわけではあるまい。浩瀚は迷いなく宰輔を見つめ返した。
「無論でございます」
それが主の暗闇を晴らすことになるならば、浩瀚は躊躇いはしない。主を喪うことより大きな問題などないのだ。前例のない王同士の婚姻を認めさせることとて厭わない。決意を籠めた応えに、宰輔は長い沈黙の末に答えを返した。
「──主上の王気に、覇気が戻った」
「ならば、かの方のお言葉に従いましょう」
宰輔は不意に横を向き、深い溜息をついた。宰輔の葛藤が目に見えるようだ。だからこそ、浩瀚は沈黙を守った。王の半身である麒麟の決断をただ待ち続けた。やがて。
宰輔はおもむろに浩瀚を見つめた。その瞳にはもう揺れはない。浩瀚は大きく頷いた。宰輔は小さく嘆息し、微かに頷き返したのだった。
* * * 8 * * *
「小松尚隆! いい加減にしろ! 貴様は当分、金波宮出入り禁止だ!」
凄まじい怒号が響き渡り、景王陽子は延王尚隆を禁門から蹴り出した──。
晴天の霹靂の如き出来事は、直ちに冢宰浩瀚に伝えられた。報せを受けた浩瀚は、その場に居合わせた門卒を呼んで問い質す。門卒は改まって事の次第を報告した。
主は怒髪天を衝く勢いで延王を蹴り出し、怒声を上げた。公式訪問でなければ応じない、と言い放った主に対し、延王は、公式訪問するから大袞で出迎えろ、と返した。くだらん理由で公式訪問するな、と言い捨てて、主は踵を返した。
怒りに震える主とは対照的に、延王は終始飄々とした態度だった。そして、畏まる門卒に、また来る、と言い残して帰国したという。詳細を聞き終えた浩瀚は、軽く口止めをして門卒を退らせた。
次に浩瀚は女史と女御を呼び寄せた。主の不興に驚いた下官に呼ばれて執務室に出向いた主の友たちも、怒り狂う主を宥めることができなかったという。
「蹴り出されて当然のことをした、と主張するばかりで……」
「何をされたかは、言いたくない、の一点張りで……」
祥瓊と鈴は顔を見合わせて大きく嘆息するばかりであった。鈴によると、主は朝食の席を伴侶とともにすることを拒んだという。主は約束を破られたと怒り、延王は破った覚えはないと語ったらしい。
「何があったかを主上から訊き出すのは至難の業と存じます」
困惑しきった顔をしながらも、女史と女御はそう言い切った。そしてまた深い溜息をつく。仲睦まじい二人の仲違いなど初めての経験だ、と。
「主上には普通に接してもらおうか。そのうち雁の方から動きがあるだろう。主上のご機嫌を損ねたままでは、かの方がお困りだろうから」
浩瀚は苦笑を浮かべて二人を宥めた。はい、と首肯した主の友たちは足取り重く退っていく。一人になった浩瀚は、考えを巡らせた。
主の王気に覇気が戻った。それはどうやら怒りのためらしい。かの方はどうやって主を現の世界に連れ戻したのだろう。浩瀚は小さく溜息をつき、首を振る。今はそんなことを気にしている場合ではない。
主の伴侶はこの機を逃さずに公式訪問の要請をしてくるだろう。主の怒りを首尾よく解く理由を以て。それまでは静観しつつ準備を調えるのだ。
桓魋麾下の門卒たちから事実が漏れることはまずない。無論、女史と女御からもだ。しかし、門卒は二人だけではないし、他に閽人も詰めている。女王の友たちに報せた下官もいる。主と隣国の王が不和だという噂はゆっくりと広がるだろう。
緘口令を敷かなかったのは、主の怒りを持続させるため。それが現在最も重要なことだ。訊くべきことは訊き、打つべき手も打った。今できることは待つことのみであった。
浩瀚の思惑どおり、流言はじわじわと金波宮内を波及した。秘かに囁かれる噂は否が応でも主の気を尖らせる。怒気を露わに口を引き結ぶ景王陽子に真相を問える者はなかった。
やがて、隣国から延王公式訪問を打診する文書が届いた。書簡は雁の宰輔から慶の宰輔に宛てたものであった。報せを聞いて、浩瀚は唇を緩めた。
宰輔は隣国からの申し入れを冷静に受け止めていた。それは主の伴侶から届いた文ではなかったからだろう。宰輔は己が居ぬ間に主を伴侶としてしまった延王をよく思ってはいないのだ。宰輔に主との仲を公にすると直言しながら、手配を延麒に任せる延王の手腕に、浩瀚は秘かに感心した。
宰輔と綿密な打ち合わせをした後、浩瀚は延王公式訪問の要請を側近に明らかにした。主の怒りを解くため、という訪問の趣旨に、女史と女御は力強く同意する。宰輔までが首肯するその理由に異を唱える者はいなかった。
「──主上は延王公式訪問を承知するでしょうか?」
女史が不安げに訊く。女御も同じく頷いた。主は未だに怒り続け、取りつく島がないのだ、と二人は口を揃える。浩瀚は笑みを浮かべて応えを返した。
「私が引き受けよう」
如何に主が怒ろうとも、延王の公式訪問は実現させなければならない。主を納得させるのは己の役目だ、と浩瀚は信じていた。
2011.07.16.
中編「深奥」第4回をお届いたしました。
「慶賀」冒頭に追いつきました。
浩瀚の奮闘を応援していただけると嬉しく思います。
2011.07.16. 速世未生 記