刻 印 (上)
* * * 1 * * *
季節は変わり、北方の雁州国にも春の風が吹いていた。冬の間、隣国の動向にかまけて仕事を溜めていた国主延王は、連日監視付きで執務室に軟禁されていた。仕方なく政務を片付ていた延王尚隆は、春風とともに監視の目が緩んできたことを悟っていた。
書類に御璽を押印しながら、尚隆は近くの卓子に座る延麒六太を見上げる。六太は腕組みをし、じろりと尚隆を見下ろした。
「六太、そろそろ仕事が終わる」
「じゃあ、次が必要だな」
六太は仏頂面で即答する。尚隆は片眉を上げて六太に問うた。
「おいおい、お前はそれでいいのか?」
「おれはなあ、自分の仕事が終わったのに、お前の見張りをしなくちゃなんねーんだよ!」
六太は怒声を上げる。尚隆は肩を竦め、人の悪い笑みを見せた。
「お前は宰輔のくせに、臣下の命を大人しく聞くのか?」
「誰のせいだ、誰の!」
「さあ? 誰のせいなのだ?」
「お前のせいだろ!」
ますますいきり立つ六太に、尚隆はくつくつと笑う。それからおもむろに続けた。
「だから、俺も仕事は終わりだ。──息抜きが必要だと思わんか?」
きらりと目を光らせ、そう言う尚隆に、六太は卓子から飛び降りて主に近寄る。
「──何考えてる?」
「お前は陽子と約束してたろう、金波宮に遊びに行くと」
「ああ……でも、それはお前が楽俊にバラしちまったから……」
恨めしそうに語る六太の言を制し、尚隆はにやりと笑みを見せた。眉を顰める六太に、尚隆はゆったりと続ける。
「楽俊に教えたのは俺で、お前ではないだろう?」
「──尚隆」
六太は一瞬息を呑む。それから、少し口許を歪めた。尚隆はそんな六太を面白げに見守る。
「なんだ」
「──悪党」
「恩人の間違いだろう?」
くつくつと笑う尚隆に、六太はやれやれと肩を竦め、にやりと笑みを返した。それから、すぐに鸞を用意させ、手配を急いだ。尚隆は呆れ顔で揶揄する。
「──遊びの準備だと、手早いな」
「抜かせ! お前にだけは言われたくない」
尚隆の揶揄に文句を返しながらも、六太は嬉しそうだった。尚隆は黙して笑みを浮かべた。
* * * 2 * * *
慶東国王都堯天、国主景王が住まう金波宮は、玉座に戻った若い女王を中心とし、活気づいていた。そんな中、宰輔景麒は急ぎの報せを耳にし、主の執務室を訪れていた。
「主上、雁から鸞が届いたとか……」
「耳が早いな、景麒」
普段から無愛想な景麒がもっと仏頂面をして問うた。景王陽子は苦笑とともに応えを返す。
「──また何か厄介なことを言ってこられたのですか」
「それは失礼じゃないか? 仮にも命の恩人に向かって」
「──ですが」
「聞く耳持つ相手ではないだろう、あのひとたちは」
肩を竦めて笑みを返す主に、景麒は大きな溜息をつく。あのひとたち。その、複数形に込められた意味を悟ったのだ。
「──今回は、お二人揃っていらっしゃる、ということなのですね」
「そうらしい。ただし、延麒の視察に延王の勅使がお供する、という体裁みたいだよ。大袈裟にするな、だって」
「──」
「景麒……。朝を王の手に取り戻せたのは、延王の助言のお蔭だ。そして、延麒が手を貸してくれなければ、私は官の質問攻めにあっていたんだぞ。──金波宮の禁門を潜った時点で、な」
黙して抵抗する景麒を、陽子は説得する。拓峰から粗末な袍子を着て戻った場面を想像すると、頭が痛くなる。あのとき、延麒六太が届けてくれた雁の袍衫に着替えなかったら、禁門を潜れなかったかもしれないのだ。
それに──。陽子は小さく息をつく。六太との約束を景麒に言うわけにはいかないだろう。楽俊に内緒にしてくれたら何かひとつ言うことを聞く、と約した。そんなことを景麒が知ったらまた大騒ぎだ。陽子は景麒に鮮やかな笑みを向ける。
「ちょっとしたお茶会を開いて、新しい臣を紹介するだけだよ。二人とも、心配しているから」
「主上……」
景麒が何を心配しているか、陽子には分かっている。奸臣を退け、王朝は今、陽子の臣下で回している。その側近にも、国主景王の恋を知らせるわけにはいかない。友達である祥瓊や鈴にも言うつもりはなかった。無論、冢宰浩瀚にも、他の者にも。
「──分かってるから。誰にも悟らせたりしない。国を混乱させるつもりはないよ」
陽子は揺るぎない笑みとともに、決意を景麒に見せる。景麒は軽く溜息をつき、手配しますと言って下がっていった。
慶東国では、国主景王の恋は国を滅ぼすと言われている。前国主予王が景麒に恋着した挙句、悪法を連発し、宰輔を失道させたことを国民は忘れない。
陽子は溜息をつく。そんなことは知らなかった。いや、延王尚隆は「予王は景麒に恋着した」と明言していた。陽子が、失念していたのだ。
でも、知っていたら──。
陽子は首を横に振る。過ぎてしまったことは戻らない。そして、尚隆の手を取ったことを、後悔してはいない。尚隆を恋い慕う気持ちは変わらない。己の心の支えでもあるこの想いを、陽子は守りたかった。
──だから、誰にも知られてはいけない。
大丈夫。普通に、王と王として対面できる。延王尚隆はそれができる人だ。だから、陽子も国主景王として、隣国の王に会える。そう、大丈夫。陽子は己に言い聞かせた。
2006.06.04.
大変お待たせいたしました。
中篇「刻印」(上)をお送りいたしました。
時代は「黎明」後の春──赤楽2年春頃でございます。
短編のつもりでしたが、どんどん長くなり……。
とりあえず3回連載の予定でございます。
気長にお待ちくださいませ!
2006.06.05. 速世未生 記