刻 印 (中)
* * * 3 * * *
「陽子!」
金波宮禁門に着いた延麒六太は、景王陽子の顔を見るなり破顔した。陽子も笑顔で六太を迎えた。
「お久しぶりです、延麒。ようこそいらっしゃいました。そして、、勅使もご苦労でした」
叩頭して隣国の王に礼を尽くす延王の勅使に、陽子は労いの言葉をかけた。六太はにやりと笑みを浮かべ、勅使を促した。
景王陽子は恩義ある隣国の宰輔とその臣下を自ら内殿の一室へと案内した。そこでは冢宰浩瀚と太師遠甫が恭しく賓客を迎えた。陽子の側近である女史祥瓊と女御鈴も茶会の用意をして待ち受けていた。
慶の名産の茶を差し出す美しき女史を、延麒六太はつくづくと眺める。芳の元公主、祥瓊。陽子の親友、楽俊に拾われ、陽子の側近にまでなった娘を。そして六太は蓬莱からやってきたという黒髪の女御鈴に目を移す。
「陽子、お前の新しい側近を紹介してくれ。堅苦しくなくていいぞ」
「はい。冢宰浩瀚──元麦州侯です。そして、太師遠甫──里家でお世話になった元義塾の閭胥です。女史祥瓊──元芳国公主です。そして女御鈴──海客です」
主の紹介を受けて、景王の側近は次々に頭を下げる。六太は興味深げに頷く。それから場の緊張を解すように明るい笑みを見せた。
「へえ! お前の友達は元公主に海客か。ぴったりだな」
六太の軽口に、陽子は笑みをほころばす。大国雁の宰輔延麒の親しみやすい笑顔と気さくな物腰。大役に緊張気味だった女史と女御は、ほっとしたようだった。そうして和やかな茶会が始まった。
勅使に扮した尚隆は、目立たぬように控えながら、そっと様子を窺う。陽子が辣腕と褒める新しき冢宰を、己の目で確かめてみたいと思った。元麦州侯浩瀚は、偽王にただ一人立ち向かった人物だ。和州での決起は見事な采配だった。その為人に興味がある。
冢宰浩瀚、大師遠甫は延麒六太と和やかに会話していた。その中で、浩瀚は勅使の姿をした尚隆に目をやり、僅かに目を細めた。
もしや、気づいたか。
即位式に、尚隆は延王として出席している。州侯の身分ならば、浩瀚がその場にいてもおかしくはない。
前回勅使のなりで金波宮に乗りこんだときは、陽子と景麒しか気づく者はいなかった。しかし、これはこれは。なかなか面白いことになりそうだ。尚隆は内心ほくそえんだ。
和やかな茶会が終わり、臣下はみな下がっていく。陽子と景麒、そして延麒と勅使のみがその場に残された。景麒は使令に見張りを申しつけ、延王尚隆に跪礼した。
「──延王、先日はありがとうございました」
「いや、たいしたことはしていない。どうやら、落ち着いたようだな。辣腕の冢宰を迎えて」
「はい。私は何も分からないし、景麒はただがみがみ諫言するだけなので、助かってます」
景麒にちらりと視線を送りつつ、陽子は鮮やかな笑みを見せる。憮然と黙す景麒を見て、尚隆も六太も面白げに笑った。
「確かに目が利くな。あの冢宰は、俺が何者か分かったようだぞ」
「え、ほんとうに? ──気づかなかったな」
目を丸くする伴侶に笑みを返した。あの冢宰、もしかして、気づいたのは勅使の正体だけではないかもしれない。尚隆は胸の中でひとりごちる。
陽子は見事に己を律し、堂々とした女王振りを見せた。この若さで大したものだ、と尚隆は感心した。しかし、景麒が──。
恩義ある隣国の宰輔と勅使に、不自然なよそよそしい態度。尚隆は苦笑する。まあ、目端の利く者にしか分からない程度だから、よしとしなければ。景麒の不安はよく分かる。慶は、女王の恋を望まない。それを承知で陽子を手折った尚隆を、景麒がよく思うわけはない。
そして、己の半身の不安は、景王陽子を悩ませるのだろう。隣国の女王を伴侶にするということは、そういうことだ。延王尚隆は、それをも承知の上だった。
少し胸が痛んだ。咲き初めたばかりの何も知らぬ花を摘みとった。
もし、陽子が知っていたら。
尚隆は首を振る。景王陽子は延王尚隆の、運命の女。──どうしても手に入れたい女だった。そして、伴侶は己の運命を──尚隆の求愛を、受け入れたのだ。
* * * 4 * * *
ささやかな晩餐の宴後、景王陽子は風にあたると言って露台に出た。欄干に凭れ、陽子はぼんやりと雲海を見やる。
景麒は、やはり認めてくれない。恩義ある隣国の主従に、少しぎこちない態度で接する。尚隆も六太もあまり気に留めていなかったようだが。陽子は小さく溜息をつく。
慶は女王の恋を許さない。
今はもう、分かっている。覚悟もしている。でも──だからこそ、己の半身たる景麒には認めてほしかった。
俯いて雲海を眺めていると、背後に気配を感じた。軽い足音が近づき、声をかけることもなく陽子の隣に立つ。それは延麒六太だった。
「──六太くん」
「なんだか元気がないな」
「うん……」
邪気のない六太の笑みに癒される。そう──六太は秘密を知る数少ない者の一人。陽子は、胸に潜むもやもやを話してみる気になった。
「景麒は……そんなに私を信用できないのかな……」
「例の件なら──前例がないからな」
六太は陽子を見つめ、即答した。陽子は深い溜息をつき、俯いた。六太はそんな陽子を気遣わしげに見つめ、言いにくそうに続けた。
「それと、陽子を信用できないんじゃなくて……忘れられないからだろう」
陽子ははっと目を上げた。六太の視線を捕らえ、陽子は躊躇いがちに問い返す。
「──予王、を?」
「うん」
六太は小さく息をつき、目を逸らす。雲海を見やる六太は複雑な顔をする。
「──麒麟が王を亡くすって、大変なことだからな。おれは経験ないけどさ。ましてや、予王は景麒に恋着して失道したから」
「うん……」
景麒は予王を忘れない。
無論、承知している。陽子の恋を知った景麒がどれだけ驚愕したか、陽子は覚えている。
冷淡なくらい無愛想な景麒が、恩人である延王尚隆に食ってかかった。しかし、尚隆は景麒の怒りをまるで歯牙にかけない。陽子はただ声を失っていた。六太が割って入らなければ、どうなっていたことか。
「でも、即位式の頃は……認めてくれたのか、と思ってた」
「お前が、あれだけ煮詰まっていたら、不本意でもそうする必要があったってことだろ」
「そうなのかな……」
何もかもうまくいっていなかった即位式の頃。官に侮られ、景麒に諫められ、陽子は萎縮していた。即位式に来賓として訪れた尚隆に慰められ、やっと自ら現状打破を考えたのだ。
「──お前が、立ち直ったから、いろいろ言うんだろ、きっと。あんま気に病むな。それに──あのとき景麒を説得したのも、結局お前だろ」
「あのとき?」
陽子は目を見張り、首を傾げる。六太は思い出したようにくつくつと笑い、先を続けた。
「玄英宮で、景麒に打ち明けたとき。景麒はえらい剣幕だっただろ。うちの莫迦は聞く耳持たないし。あのときの陽子はかっこよかったぞ」
この身と命は縛られても、心まで天に縛られたりしない。己の心は己のものだ。
若き女王はそう言い切った。主のその言に、景麒は黙したのだった。
「──ああ、あれは……。延王の脅迫に私が屈した、と景麒に決めつけられたから、だよ」
そのときの状況を思い出し、陽子は頬を染める。六太はそんな陽子に人の悪い笑みを向ける。
「──脅迫なんだろ?」
「違うってば!」
陽子は怒りでますます頬を赤くした。六太は呵呵と笑い、話を打ち切った。
「そういうことにしとこう。──麒麟は結局、主に逆らえない。主の幸せを望むもんさ」
「六太くんも、延王の幸せを願ってるの?」
陽子は訊かずにはいられなかった。景麒が陽子を心配するように、六太もまた尚隆を思っているのなら。尚隆の幸せを願っているのなら──。六太は眉根を寄せて首を振る。
「おれとあの莫迦のことは、いーんだよ。とにかく、おれはお前の味方だからな」
「──ありがとう、六太くん」
六太はそう言い、陽子の背を軽く叩いた。そんな六太に陽子は心から頭を下げた。
2006.06.09.
中編「刻印」(中)をお届けいたしました。
後書きを消してしまったことに今日気づいた私はおバカ……。
けれど、この(中)を書き上げるのに苦労したのが昨日のことのようでございます。
初めと終わりは快調に仕上げたものですから。
確か、「30000打、ありがとうございます!」と結んでいたような気がいたします。
ご来場ありがとうございました。
2007.12.05. 速世未生 記