刻 印 (下)
* * * 5 * * *
その日最後の仕事を終えて、女御鈴が下がっていった。陽子は友人でもある女御を労い笑顔で送った。
堂室に一人になった陽子は軽く息をつく。久しぶりに会った伴侶は、見事に勅使を演じていた。陽子は、国主景王に見えただろうか。
景麒の憂慮に満ちた目を思い出し、そっと鏡を覗く。そこには瞳に不安の色を浮かべ、緊張を隠せないでいる、ただの小娘が映っていた。
あのひとは、こんな小娘に、何を求めるのだろう──。
何度も逢瀬を重ねながら、まだ信じられない。偉丈夫で大人のあのひとが、陽子を伴侶とする理由が分からない。心も身体も未熟で、稀代の名君と称えられる隣国の王に頼るしか術を持たぬ、ちっぽけな娘。鏡を見つめ、大きく溜息をついた。
──私はあのひとに相応しくない。誰もこの恋を祝福しない。それでも、己の気持ちは誤魔化せない──。
夜半に伴侶がそっと陽子の堂室を訪れる。昼間とは別人の顔をして。控えめな延王の勅使はもういない。際立つ気配を滲ませる隣国の王は、当然のように陽子を抱き寄せる。
躊躇わず伸ばされる腕、揺るぎなく見つめる瞳。陽子を求める、男の顔。それは陽子が恋い慕う、伴侶の顔。
その熱に、少し緊張し、陽子は俯く。それを見透かすように、くすりと微かな笑い声がした。
「──尚隆?」
見上げると目に入る、人の悪い笑み。と思うとすぐに唇が落ちてきた。陽子を蕩かす、甘い口づけ。
「陽子……」
耳許で響く、低く優しい声。耳朶に吐息がかかるだけで身体が震えた。抱きしめる腕、髪を梳く指、そして項を這う唇──。
頭が痺れる。力が抜ける。もう、何も考えられない。陽子は己を手放し、ただの「女」になっていく。男の意のままに、男の望むままに。
それが──どんなに幸せなことか。──ずっとこのまま、抱きあっていたい、何もかも忘れて。
それが──どれだけ危ういことか。──呑まれてはいけない、己を忘れてはいけない。
男の情熱に身を任せながらも、中嶋陽子と景王陽子が胸の中でせめぎあう。
何故。何故、このままではいけないのか。この広い胸に己を任せてはいけないのか。こんなに求め、また求められているというのに。この腕の中で、こんなにも安らげるというのに。
呑まれるな。溺れるな。己の背負う荷を忘れるな。
──声がする。幸せな夢に眠ろうとすればするほど、強く、激しく。それは、複雑な目で見つめる己の半身を思い起こさせた。恋に沈んだ前国主を忘れぬ、哀れな麒麟を。
我が身と、心を、引き裂かれるような気がした。「女である己」の伴侶たる男の想いと、「王である己」の半身たる麒麟の想いとの、せめぎあいに。
熱を帯びる男の目を見つめると、涙が滲んだ。その熱の裏に、昏い深淵を隠す男。このひとを癒したい、その暗闇に灯りを点したい。それなのに、その深淵に身を沈めてみたいと思う。
揺らぎ、せめぎあう心を、陽子は今宵も持て余す。瞳に滲んだ涙が、一筋、瞬きとともに零れた。
男が、優しく微笑む。男の熱は、陽子を焦がしたりはしない。温かく、柔らかく、愛しむようにこの身を包む。そして──。
お前は俺のもの。
その温かく大きな手は、確かにこの身にそう告げる。そう、私はあなたのもの。愛撫に震える身体は、男の望むままに、そう応える。けれど。だからこそ──。
「私は……」
あなたのもの。
中嶋陽子は男の広い背に腕を回し、微かに囁く。男は目を細め、問い返す。
「──陽子?」
「私は、誰のものでもない……」
景王陽子は零れる涙とともに、小さく呟く。口に出さねば呑まれてしまう。この身を抱く男に、ではない。男を求める己に、だ。
僅かに目を見張る男は、それでも優しく頷いた。もとより承知だ、と。そして陽子の涙を唇で拭う、いつものように。それは、唇を求める合図。
陽子は目を閉じ、熱く甘い口づけを受け入れる。己が延王であること、陽子が景王であることを、常に忘れぬ男を、また。
心に刻む、己の強い想い。心に刻まれる、男の熱い想い。
そしてまた、男の情熱に身を委ねる。揺らぐ想いをも全て受けとめる、ただひとりの男の腕に。
* * * 6 * * *
夜半に伴侶の堂室を訪ねた。髪を下ろし、夜着に着替えた伴侶は、昼間の女王とは別人の顔を見せる。その、戸惑い、羞じらう様が可愛らしい。少し怖じける娘を、これ以上怖がらせぬよう、そっと抱きしめた。
即位式に訪問したときの切羽詰った痛々しさは、もうない。だからこそ、尚隆を意識し、緊張するのだろうが。腕の中で微かに震え、身を硬くする伴侶は初々しかった。昼間の堂々とした女王振りを思い出すと、その落差に笑みが漏れる。
「──尚隆?」
翠の瞳が戸惑いとともに尚隆を見上げる。お前は可愛い、と口に出してしまったら、この気位の高い娘を怒らせてしまうのだろう。尚隆は応えを返さず、半開きの朱唇に己の唇を重ねた。
華奢な身体がぴくりと跳ねた。唇を離して見つめると、伴侶の翠の瞳は少し潤んでいた。陽子は、抱きしめるといつも涙を零す。尚隆は微笑を返す。泣ける場所は他にはあるまい。己の伴侶は、その細い肩に一国を乗せる女王なのだから。
「陽子……」
耳許で囁くと、腕の中の華奢な身体に震えが走った。豊かな緋色の髪を指で掻き分け、露にした細い項に口づける。小さな喘ぎ声を上げ、伴侶は身動ぎした。そのまま肩に、背に唇を這わせる。戸惑いに震える身体から次第に力が抜けていく。
抱き上げてその翠の瞳を覗きこむ。少女と女の間を揺らぐその様は美しい。その戸惑いが愛おしい。
──お前はそのままでよい。無理に女になる必要はない。寿命はどうせ長いのだ。
尚隆の熱を帯びた視線に小さく頷き、陽子は瞼を閉じる。熱く、甘い口づけを交わす。躊躇う瞳と裏腹に、伴侶の身体は尚隆の愛撫に応えていく。少女と女のせめぎあいは、尚隆の官能に火をつけた。
ゆっくりと、じっくりと、華奢な身体を味わい、開いてゆく。そう、お前は俺のもの。喘ぎ、震える伴侶は、次第に艶めかしい女の顔を見せる。瞬きとともに涙が一筋零れた。そして、微かな囁き。
「私は……」
あなたのもの。
零れる涙と、背に回された細い腕の熱が、そう告げる。しかし、見つめ返す濡れた瞳は、女王の矜持を見せた。
「──陽子?」
「私は、誰のものでもない……」
問い返す尚隆に、女王の朱唇は小さな呟きを漏らす。尚隆は僅かに目を見張る。
──せめぎあっているのは、少女と女だけではなかった。
「──もとより承知だ」
尚隆は微笑とともに応えを返す。せめぎあう、女の想いと女王の誇り。切ない吐息と、勁い視線──。相反するものを同時に湛える稀有な娘。
どちらも必要なのだ。俺のものである陽子と、誰のものにもならぬ女王、そのどちらも。
この暗闇に灯りを点す光でありながら、昏い深淵を識る、そんなお前こそが延王尚隆の伴侶。
尚隆は零された涙を唇で拭う。そして、潤んだ瞳を閉じる己の伴侶に、熱く深く口づける。天意を信じぬ尚隆に天啓を感じさせた、神たる娘に。
男を知らなかった伴侶は気づかぬだろう。尚隆は陽子の身体に己の印を刻んだことは、まだない。
神なる王は天に捧げられた贄。その身と命を天に縛られる。しかしかつて、お前は言った。心まで天に縛られたりしない、己の心は己のものだ、と。
誇り高きお前は、己の意に染まぬものを決して容れない。今このとき、俺を受け入れるお前は、俺のもの。そして、お前のその身と命は、天のもの。己の伴侶が女王であることを、決して忘れるまい。
だから、今はお前の身体に印を刻みはしない。そして、お前が俺の運命。せめぎあう様々な想いに揺らぐお前の心を、これ以上縛るまい。
──愛している、とは口にしない。
それでも、この熱き想いを、お前の心に、身体に刻もう。見えぬ刻印を、お前に。愛している──口に出せない言葉の代わりに。
2006.06.10.
いつの間にか「30000打記念」作品に変身してしまった「刻印」(下)でございます(笑)。
今回こそ、真っ当なシリアスになったと思うのですが、如何でしょうか?
「黎明」〜「僥倖」連作〜「残月」連作と続く中で、見つけた幾つかの疑問。
「刻印」は、その隙間を埋めるために書いた作品でございます。
皆さまのお持ちになった疑問も、多少解消されれば嬉しいのですが。
2006.6.10. 速世未生 記