* * * 2 * * *
「──ほんとうに、待ちくたびれた」
陽子を牀に横たえながら、尚隆は囁く。即位式まで来ないでほしい、新米女王はそう言い残して雁州国を去った。
王朝の始まりは混乱を極める。その中で、大国雁の後ろ盾を得ることができただけでも恵まれている、若い女王はそう言って鮮やかに笑う。王の矜持を滲ませるその笑みは美しかった。
尚隆は伴侶のその望みを叶えたいと思い、即位式の布告を待った。その前に、早急に方をつけたい荒民問題の相談のために、延麒六太を公式訪問させたのだが。
「──まだかかりそうだな」
慶から帰ってきた六太はそう言って溜息をついた。即位式の日取りは決まったけどな、と六太は意味ありげに尚隆を見やった。
「それはそうだろう。あれだけ荒れていた国に入ったのだからな」
六太の視線を受け流し、尚隆は口許に笑みを浮かべた。即位式には会える。それまでは、心配も棚上げだ。ここで気を揉んでも仕方ない。
結果、二ヶ月以上待たされたことになる。しかも、延麒と景麒以外は誰も知らない秘密だ。前国主予王が景麒に恋着して国を傾けたため、新王の恋愛を公にするなど、できない相談だった。
そしてようやく迎えた即位式。尚隆は景王陽子の正装の美しさに感嘆した。もとより綺麗な娘であることは知っていたが、王の第一礼装である大袞を纏った伴侶の華やかさに、目を奪われた。しか
し──。
即位式後に会った陽子は精彩のない顔をしていた。磨かれ、飾り立てられた女王はまるで人形のようで、本来の闊達さを失っていた。ある意味、雁で初めて出会ったときよりも、消耗して見えた。
尚隆は夜を待った。昼に陽子に会ったときは、景王と延王の会談に過ぎなかった。公の場で伴侶を慰めるわけにはいかない。初勅が決まらないと悩む新王に、焦ることはないと助言することしかできなかった。そして、陽子が自室を出られないことも承知していた。景王が主を守る兵の目を盗んで掌客殿に来るなど、無理に決まっている。
そして深更になり、金波宮は静謐に包まれた。尚隆は掌客殿を抜け出し、首尾よく陽子の堂室に到着したのだった。
華奢な伴侶を抱きしめて長い口づけを交わす。会いたかった、と微かな声がした。陽子の眼は潤んでいた。尚隆はくすりと笑い、豊かな緋色の髪を撫でた。泣ける場所など他にはあるまい、王で在ろうとするならば。
民は、王がいつも王で在ることを望む。王が賢帝であることを望む。王もまた本は人であり、感情があることなど、思いもよらない。
その昔、三百年の治世を誇った達王の後、慶では短命な女王ばかりが続いた。その中で、専横し権力を恣にしてきた官僚たちは、王が王の権を揮おうとするのを阻むだろう。新王は齢十六の小娘で、しかも胎果とくれば尚のことだ。それは容易に想像できた。
しかし、王たる者は、それを超えてゆかねばならない。王朝の黎明期に、王の半身たる麒麟はほとんど役に立たない。王朝の覇権を巡る生臭い争いの中においても、宰輔が口にするのは慈悲のことばかり。
──孤立無援な戦いなのだ。
この華やかで広い宮殿に、たった一人で放りこまれ、途方にくれている娘。その半身である景麒は、前国主予王に恋着されたことを忘れない。もとより無愛想なのに、更に自制し、この娘に優しく接することを拒むだろう。陽子は試練の真っ只中にいた。
久しぶりに腕に抱く伴侶は、やはり美しかった。男物の袍ばかり着ていた雁での日々。今は女物の華やかな襦裙を纏っている。
若く美しい主は女官たちの意欲をさぞ高めたのであろう。顔も髪も身体も、これ以上ないくらいに女王らしく磨き立てられていた。おそらく偽王討伐以来、剣も持たせてもらっていないのであろう。その華奢な手は滑らかに柔らかくなっていた。それは陽子の意図したところではないはずだった。
存分に泣かせてやろう。ずっと我慢してきたに違いないのだ。王の矜持を持つこの娘は、己の涙の重さを知っている。頬を伝う大粒の涙を唇で拭う。女官に丹念に手入れされ、艶増した緋色の髪を撫でる。縋りつくように背に回された細い腕に熱を感じた。
何度となく口づけを交わす。消耗し、萎縮している伴侶の心を解きほぐすように。細い首筋に唇を這わせ、滑らかな肌を指でなぞると、その朱唇から微かな喘ぎ声が洩れた。
孤独に耐え、王として立とうと必死に頑張っているわが伴侶。その姿はひたむきで、それ故に痛ましかった。
──今は忘れるがよい、お前を悩ませる全てのものを。
尚隆はそんな想いを込めて、己の伴侶を優しく抱きしめた。
「陽子、もう一度、雁に来るか?」
情熱が果てた後、尚隆は腕の中の伴侶にそう囁いた。陽子は目を見張る。その瞳は一瞬歓喜の色を浮かべた。しかし、すぐに力なく首を振る。
「──そんなわけにはいかない」
逃げるのは嫌だ、と、その双眸に勁い光が戻った。陽子はその朱唇に苦笑を浮かべて言った。
「──そんなに、私を甘やかさないで」
翠の瞳がまた少し潤む。しかし、陽子はもう泣かなかった。そんな強がる様子もいじらしい。
「俺くらいお前を甘やかしてもいいだろう。臣はみな、お前に、王で在れ、と言うはずだからな」
尚隆は伴侶の細い肩を抱き、軽く笑った。そう、甘い言葉をかけても、簡単に肯ずる女ではない。だから、余計に甘やかしてやりたくなる。
「──考えておく。ありがとう」
陽子はそう言って、ようやくいつもの鮮やかな笑顔を見せた。その笑みを引き出せたことに尚隆は満足し、微笑した。
* * * 3 * * *
「陽子、もう一度、雁に来るか?」
陽子をその腕に抱いた伴侶はそう言った。陽子は目を見張る。嬉しかった。本当は、すぐにでも頷きたかった。ここは辛い、あなたと一緒にいたい、と。しかし、陽子は首を横に振った。
「──そんなわけにはいかない」
ここで逃げるわけにはいかないのだ。何のためにここに来たのか、陽子は忘れてはいない。陽子が、この慶東国の王なのだ。王が国を捨てて逃げればどうなるか、陽子は既に知っている。優しく微笑む尚隆に、陽子は苦笑を返す。
「──そんなに、私を甘やかさないで」
そう呟くと、それだけで涙が滲んできた。優しい言葉は耳に心地よい。
が──。今、気づいた。優しい言葉が欲しいわけではない。 欲しいものは、優しい言葉をかけてくれるひと。心開ける存在なのだ。
──このひとのように。そう、甘やかそうとしてくれるひとがいるからこそ、強くなれる。陽子はもう泣かなかった。
「俺くらいお前を甘やかしてもいいだろう。臣はみな、お前に、王で在れ、と言うはずだからな」
陽子の肩を抱き、尚隆は軽く笑った。
──このひとは何でもお見通しだ。
王で在れ。景麒はいつもそう言う。王らしく振舞え、臣に侮られるな、と。それが当たり前なのだろう。こちらの常識を知らない陽子は戸惑うばかりだというのに。そんなことさえも、このひとは分かってくれる。
「──考えておく。ありがとう」
陽子は金波宮に来て初めて、心からの笑みを見せた。尚隆は満足げに頷いた。
延王尚隆の訪問は、景王陽子に束の間の休息を齎した。昼の助言も夜の逢瀬も、萎縮していた陽子の心を癒した。尚隆が帰国した後、陽子は相変わらず官に爪弾きされ、裁可のみを迫られる毎日を送っていた。景麒とのやりとりも同様だったが、陽子は辛抱強くそれに耐えた。
金波宮の状況は、陽子の知らぬ間に動いていた。冢宰と勢力を二分する天官長太宰が、自宅に武器を集めていたのだ。調査をしていた秋官長大司寇は、それを「大逆」と断言した。続けて、太宰の他に、王を支える三公が、元麦州侯浩瀚と共謀し、謀反を企てたと奏上した。
陽子は驚愕を隠すことができなかった。陽子こそが偽王を倒した正統な王だというのに。その陽子を、もう弑逆しようというの
か──。
その日の朝議は紛糾した。声高に処刑を求める冢宰派、温情を求める反家宰派。陽子は、もう誰を信じていいのか分からなくなっていた。くっと皮肉な笑いが洩れる。
己をも信じられないのに、誰を信じるというのだろう。
三公の罷免、冢宰を太宰にする格下げ、そして春官長・秋官長・地官長を三公に叙し、宰輔に冢宰を兼任させる勅命を言い放ち、景王陽子は立ち上がる。大騒ぎする官吏たちをそのままその場に残し、陽子は玉座を降りて退出した。
陽子はただ鬱々と悩んでいただけではなかった。王として立つにはどうすればいいか、陽子なりに考え続けていた。今回の事件は、その考えを纏めるいい切っ掛けとなった。
街へ降りよう。
前から漠然とそう思っていた。陽子はこちらのことをあまりにも知らなすぎる。何も知らぬまま、王宮で玉座に収まっていても、何にもならない。尚隆が、六太が官を振り切ってまで放浪するのは、故なきことではない。二人と同じく胎果である陽子には、切実に理解できる。己の目で見て、こちらとあちらの違いを肌で感じないことには、自ら判断を下すことなどできはしない。
陽子は人払いをし、自室で景麒を待った。前に進むためには、、まず景麒を説得しなくてはならない。このままでは、いけないのだ。
やがて血相を変えて現れた景麒は、厳しい声で陽子を諌めた。が、陽子はもう景麒の顔色を窺うことをしなかった。陽子には分かっていた。景麒を信頼しなければいけなかったのだ。陽子を景王に選び、宰輔として陽子の傍に侍る己の半身を。
陽子は己の考えを率直に景麒に伝えた。はたして景麒は瞠目した。しかし、このままではいけない、と景麒も承知していた。陽子の真摯な説得に、最後には頷いたのだった。
景麒の了解を取りつけた陽子は、早速延麒六太に正式な書簡を用意した。街に降りるなど、官が認めるはずがない。誼の深い雁国延王に、政を学びに行くことにする必要がある。
その前に、陽子は六太に鸞を送った。公式書類には景王の雁国訪問を受諾してもらいたい旨しか書いていない。官に内緒で街に降りるためには旅券が入用だ。雁の旅券を発行してもらうために、今回の事の顛末をかいつまんで説明する必要があった。今まで雁との交渉は、荒民問題等、全て宰輔が窓口となっていた。延王尚隆に直接送るよりも、延麒六太に送るほうが自然に見えるだろう。
それに──陽子は、鸞に延王尚隆に向けて感謝の言葉を語るのは、気が進まなかった。自信を持てなかった。恐らく、いま語れば声に気持ちが出てしまうだろう。どんなに隠しても隠し切れない、尚隆を恋い慕う気持ちが。
誰にも気づかれるわけにはいかない、隣国の王との秘密の恋。陽子は大切にしたかった。己が心の支えとしている温かなものを。
2005.11.14.