* * * 5 * * *
「──これは全て私のせいだというのか?」
「……主上」
勘気を見せる主にかける言葉がなかった。景麒が諌言することは、主の心には届かない。そうではないのだ。ではどうなのだ、そう訊かれると、うまく言葉に表すことができない。もどかしさに景麒は思わず溜息をつく。そんな景麒を見て主は黙って俯く。──悪循環だった。
冢宰の言い分ばかり聞きすぎる。
官のそんな不平はあちらこちらから聞こえてきた。あの腹黒い冢宰の言いなりになることは危険すぎる。景麒はそう承知していた。道を重んじるが故に厳格な太宰が愁眉を顰めていることは明らかだった。
しかし、景麒が直接主にそんなことを告げるわけにはいかない。冢宰の代わりに、今度は宰輔の言いなりになっていると主が謗られるのは、想像に難くなかった。
主が王なのだ。
王は自らの目で見、自らが納得して判断を下さなければならない。
景麒は官吏たちに主を早く王として認めさせたかった。蓬莱で見つけ出したとき、あんなに頼りなかった主は、金波宮に来るまでに辛酸を舐め、大きく成長していた。稀代の名君と世に聞こえた延王尚隆がひと目でそれと見抜く輝かしい王気を具えている主。眩しくすらあるその清廉な主は、如何せん胎果のせいか、こちらの常識に疎かった。
軽装で気安く歩き回り、名も無き奚にまで声をかける。矜持の高い官吏たちがそんな王を王と認めるべくもない。景麒は主に口を酸っぱくして諌言した。
常に王で在れ、と。官に侮られるな、と。
王が自信なげに紙に書付をしているところなど、臣に見せてはいけないのだ。王らしく堂々と振舞っていれば、多少ものを知らなくとも王の威厳に臣は跪く。──主はそれをまるで理解していなかった。
王に諌言し、官を宥め、景麒は日々奔走した。しかし、何もかもが裏目に出た。諌言すればするほど主の心は景麒から離れ、宥めれば宥めるほど、官は王を侮っていく。景麒には、溜息をつくより他にできることはなかった。
そんな中で迎えた即位式。式後、主は賓客と歓談していた。美しく装った主は己の伴侶である延王尚隆に輝かしい笑顔を向ける。そして延麒六太や友人楽俊に懐かしそうに微笑む。それは景麒には引き出すことのできない、最も主らしい鮮やかな笑みだった。
景麒は来客をもてなす主の元を辞した。久しぶりに明るく楽しげな主を見て、景麒は己が姿を現さないほうが主は喜ぶだろうと思った。
──いや、景麒はそれほどまでに楽しげな主の姿を見ていたくなかったのだ。
ただ、主が元気を取り戻すだろうことは分かっていた。それは喜ばしいことだった。
夜更けには主の伴侶が主の堂室に忍んでいき、傷つき疲れた主を慰めるのだろう。景麒は主のために、目立たぬよう王の私室を守る警備を少し緩めたのだった。
冬至、郊祀とそれに続く祭礼のため、金波宮は再び浮ついた雰囲気が流れていた。その最中、太宰の謀反が発覚した。確かに太宰は表立って主を悪し様に言っていた。が、謀反を企むような人柄ではなかった。武器を集めている──それは事実だったかもしれない。しかし、その目的が大逆のためかどうかは分からなかった。
太宰と反目する冢宰派はここぞとばかりに騒ぎ立てる。結局太宰は秋官に捕らえられ、牢に入れられた。そして主が直接話を訊く前に命を断ってしまったのである。
太宰の死は、冢宰派と反冢宰派が二分していた朝廷の勢力図を大きく塗りかえることになるだろう。冢宰靖共の権が明らかに大きくなる。景麒は深い溜息をついた。
勘気を見せる主に諌言をし続ける。主の心に景麒の言葉は届かない。分かっていても、景麒が諦めるわけにはいかなかった。そして、横行する官吏に萎縮する主を安易に慰めるわけにもいかないのだ。景麒は前国主予王のことを忘れたことはなかった。同じ轍を踏んではいけない。
朝議では案の定、冢宰派が頑強に浩瀚及び三公に死を賜るよう主張した。もちろん反家宰派は温情を求める。そんな中、いつも官の顔色を窺うように黙している主が、ふと皮肉めいた苦笑を浮かべた。
主は三公の罷免、冢宰を太宰する格下げ、春官長・秋官長・地官長を三公に叙し、宰輔に冢宰を兼任させる勅命を言い放ち、席を立って退出してしまった。呆然とし、すぐ騒ぎだした官吏たちをその場に残し、景麒は主の後を追った。
主は自室で景麒を待っていた。主の顔を見るなり景麒は厳しく諌言した。主はそれを静かに遮った。景麒を見つめる主の目は、決意に満ち、澄みきっていた。
街に降りたい、そう願う主に、景麒は瞠目した。しかし、主の言葉は真摯で、説得力があった。そう、このままではいけない。主の気持ちも景麒と同じだった。
──この方は現状を変えるための一歩を、自ら踏み出そうとされている。
景麒は最後には頷いた。そして、逗留先の手配を約束したのだった。
官を納得させるために、延王の許に政を学びに行くということにする。主はそう言って笑った。隣国の宰輔延麒に訪問許可を願う書簡を用意することを景麒に命じ、主は鸞を用意させた。伴侶にではなく、延麒に宛てて旅券発行を願う親書を送る主を、景麒は複雑な目で見守る。
主は、己の足で立とうとしている。偉大な伴侶に頼ることなく。景麒は主の半身として、その努力に応えようと誓った。
* * * 6 * * *
雁州国首都関弓。国主延王の住まう玄英宮は、凌雲山の頂にある。冬至も終わり、雁国主従も穏やかな日常に戻っていた。
「おい、尚隆。陽子が旌券を送ってくれ、だとよ」
卓子の上に胡坐をかいて書簡を読んでいた延麒六太が、面白そうにそう言った。それを聞いて、榻で寛いでいた延王尚隆は笑みを見せた。
「お前さ、陽子に、もう一度雁に来いとか言ったんだって?」
そう言って六太は顔を蹙める。相変わらず尚隆は何を考えているのか分からない。
「そんなに甘やかすなよ」
「そんなことまで書いてあるのか?」
「公式な書類に、そこまで書いてあるわけねーだろ。別口に鸞を寄越したんだよ」
呆れ顔を見せる尚隆に、六太は書簡をひらひらと振る。尚隆はくつくつと笑った。
「六太。この前は、あまり苛めるな、と言われたような気がするぞ」
「お前は、極端だ、って言ってんだよ。あんだけ脅して苛めといてからに、今度は雁に来い、だなんてさ」
「──大人しく俺の言いなりになる女だと思うか?」
大真面目に諌言する六太に、尚隆は人の悪い笑みを見せた。六太は肩を竦め、にやりと笑う。
「悪いが、思わねえな」
「そうだろう」
陽子は関弓で延王に政を学ぶと官僚には言って金波宮を出るが、実際は慶の里に降りるらしい。そして、その逗留先の手配は景麒がしたそうだ。
「──よくまあ、あの景麒が、陽子にそんなことを許したもんだ」
景麒の渋面を思い浮かべ、六太は愉快そうに笑う。尚隆はふっと息をつく。
「あれだけ官吏が膠着していては、いくら陽子でも何もできまい。頼みの麦州侯も、雲隠れしてしまったというしな」
「で、旌券は送ってやっていいんだな?」
「いや、送らなくていい」
「お前なぁ……」
六太はその即答を咎めるように溜息をつく。尚隆は榻に寝そべったまま軽く笑った。
「俺が届けに行くから」
「尚隆!」
六太は血相を変えて卓子から飛び降りた。尚隆は身を起こし、真顔で言った。
「──六太、慶では天官長太宰が三公と共謀して謀反を企てたそうだぞ」
「──!」
六太は立ち止まり絶句する。そんな六太に尚隆は更に畳みかけ、にやりと笑う。
「──黒幕は、玉座を狙う麦州侯だと言われているそうだ」
「──それ、ほんとの話か?」
六太は顔を顰め嘆息した。景王陽子が公式の書簡にそのようなことを書いてくるわけもない。しかし、景王の親書である鸞もそんなことは言わなかった。鸞はただ、陽子の声で感謝を述べ、旌券の手配を願っているだけだった。延王が雁に来いと言ってくれたお陰で景麒を説得して里に降りられることになったから、と。
「──尚隆、麦州候は最後まで偽王に屈しなかったんじゃなかったか? お前は陽子に麦侯を味方につけろと助言してたじゃねーか」
六太はしかめっ面のまま尚隆に詰め寄る。まあ、尚隆が今ここにいるということは、陽子には危険がなかったということだろうが。尚隆は口許に皮肉な笑いを浮かべた。
「六太。太宰は自害した。そしてさっきも言ったろう。麦州侯は雲隠れした。──お前には真実が奈辺にあるか分かるか?」
六太は腕を組んで黙した。
──裏がある。景王陽子に麦州侯を近づけたくない一派が暗躍している。ありがちなことだが。
「尚隆、お前って奴は全く……。いっつも遊んでるくせに、そういうことには耳が早いのな……」
六太は深々と溜息をついた。そして尚隆は、ただ無言で含みのある笑みを浮かべただけだった。
2005.11.22.