* * * 74 * * *
金波宮に戻って五日目、景王陽子は諸官に招集をかけ、主だった官吏を外殿に集めた。王朝をわが手に戻す戦をこれから仕掛ける。陽子は男物の官服という戦装束を身に纏っていた。その姿は女王との侮りを寄せ付けぬ凛然とした光を放っていた。
陽子は緊張を隠せない。海千山千たる官との拮抗が、また始まる。しかし、陽子の周りには、今や信頼置ける臣下がいる。そして、耳の奥で谺する、力強い声。
(迷うなよ、お前が王だ)
延王尚隆は再びそう言って景王陽子を送り出した。五百年もの永きに渡り、玉座を守り続ける偉大なる隣国の王。己の伴侶のその言は、陽子にとって拠り処になっていた。
景王陽子は宰輔景麒を従え、ゆっくりと主殿の玉座に進んだ。諸官はその場に叩頭して国主景王を迎える。
景王陽子は毅然と前を見つめる。顔を上げよ、と声をかけた後、陽子は取り次ぎなしで臣に語りだした。
冢宰の先触れもなしに臣に詫びる王に、諸官は困惑を隠さない。しかし、陽子は怯むことなく話を続ける。
「先日、捕らえられた官については、多くを言わない。彼らの罪を明らかにし、その罰を量るのは秋官の役目だから。ただし、三者を捕らえよと命じたのは、私であることを、秋官は忘れないでもらいたい」
諸官の息を呑む声が聞こえた。王の勅命に逆らうな、という脅しに、誰がどういう反応を示すか。陽子の頼もしい臣は、その見極めも漏らすことないだろう。
それから陽子は己の側近を次々と要職に任じていった。そのたびに、ざわざわと異義の声が上がった。しかし、その声は悉く黙殺された。
「これらに伴い、大きく官吏の移動を行う」
そう言って陽子は一座を見渡す。良心に恥じることがない者は狼狽するに及ばない、と続けた。予王の臣だから、松塾の者だから、そんな理由で官を選ぶ気はない。真に民を思い、国を憂える者を選ぶのだ。
そして陽子は意を決し、背筋を伸ばす。己の態勢を充分整えるまで何も答える必要はない、と延王尚隆は笑った。陽子は今まで様々なことを臣に相談していたが、まだ言っていないことがあった。
恐らく誰もが反対するであろう。しかし、陽子は己の意を曲げるつもりはなかった。一座を見渡し、決然と告げる。
「みんな、立ちなさい」
国主景王の凛とした声に、諸官は困惑気味に立ち上がる。誰もが落ち着かなく辺りを見回す。皆が立ったことを確認し、陽子はひとつ頷く。そして、傍らに立つ景麒を振り返った。
「これは景麒にも聞いてもらう。
──私は人に礼拝されるのが好きではない」
「──主上……!」
予想通り、早速景麒が咎める声を上げた。陽子は僅かに苦笑する。しかし、その諫言を遮り、陽子は決然と続ける。人の間に序列があることが好きでない。人に対峙したとき、相手の顔が見えないことが嫌だ。人から叩頭されることも、叩頭する人をのを見るのも不快だ、と。
主上、お待ちくださいと、再び景麒が声を上げた。それを無視して、景王陽子は諸官に命を下した。
「これ以後、礼典、祭典、および諸々の定めある儀式、他国からの賓客に対する場合を除き、伏礼を廃し、跪礼、立礼のみとする」
高らかに宣し、陽子は仄かに笑みを浮かべる。お前が王だ、と延王は言った。行ったことの責任を取る覚悟さえあれば王は好きにしていいんだ、と延麒は言った。
慶東国が国主景王のものならば、この重すぎる荷を背負う代わりに好きにさせてもらう。
陽子は密かにそう決めていた。
主上、と景麒はまだ諦めない。陽子はもう決めた、と素っ気なく返す。他者に頭を下げさせて己の地位を確認しなければ安心できない者のことなど、知らない。そんな者の矜持など知ったことではない。
絶句した景麒と呆れて口を開けた官に、陽子は真摯に告げる。人に頭を下げるたびに壊れていくもののほうが問題なのだ、と。
「ですが──」
「人はね、景麒」
物言いたげな景麒を制し、陽子は続ける。
「真実、相手に感謝し、心から尊敬の念を感じたときには自然に頭が下がるものだ。礼とは心の中にあるものを表すためのもので、形によって心を量るためのものではないだろう。礼の名のもとに他者に礼拝を押しつけることは、他者の頭の上に足を乗せて、地になすりつける行為のように感じる」
そう述べる陽子に、それでは示しがつかない、と景麒は反論する。陽子は無礼を奨励する気はない。他者に対しては礼をもって接する。そんなことは当たり前だし、するしないは本人の品性の問題だ。景麒は陽子の言葉に不承不承頷いた。陽子は明確に言い放つ。
「私は、慶の民の誰もに、王になってもらいたい。地位でもって礼を強要し、他者を踏みにじることに慣れたものの末路は昇紘の例を見るまでもないだろう。そしてまた、踏みにじられることを受け入れた人々が辿る道も明らかなように思う」
拓峰で私欲の限りを尽くしてきた昇紘が、捕らえられたときに見せた顔を、陽子は忘れない。己が踏みつけにしてきた民の報復を恐れ、おどおどと落ち着かなく目を動かしていた。また、豺虎から解放されたにも係わらず、変化を恐れ、素直に喜べない民。拓峰の乱は、陽子に色々なものを見せてくれた。
「人は誰の奴隷でもない。そんなことのために生まれるのじゃない」
陽子は生まれ育ったあちらの世界で、そう教わり続けた。そして、今こそそれを実感している。
「他者に虐げられても屈することのない心。災厄があっても襲われても挫けることのない心。不正があれば糺すことを恐れず、豺虎に媚びない。
──私は慶の民にそんな不羈の民になってほしい。己という領土を治める唯一無二の君主に。そのためにまず、他者の前で毅然と
首を上げることから始めてほしい」
翠の瞳を輝かせて景王陽子は立ち尽くす諸官を見渡す。景麒ももう何も言わなかった。
「諸官は私に、慶をどこへ導くのだ、と訊いた。これで答えになるだろうか」
景王陽子の問いに答える官はいなかった。ただ、視線だけを向けていた。陽子は厳然と宣言した。
「その証として、伏礼を廃す。
──これをもって初勅とする」
毅然と一座を見渡す国主景王、呆然と見つめ返す諸官。主殿はしばし緊迫した沈黙に包まれた。やがて、さらりと衣擦れの音がして、一人の官が深々と拱手した。冢宰に任官したばかりの浩瀚であった。
それに倣うように、次々と諸官が頭を下げていった。辺りを見回して落ち着かなく様子見をしていた者たちも、慌ててそれに従った。
陽子は己の意思が目の前の者たちに受け入れられたことを感じ、笑みを浮かべる。傍らで景麒の大きな溜息が聞こえた。
「──これから先が、思いやられます」
小さな声で不平を漏らす景麒に、陽子は笑みを向ける。そして、澄ました声で答えた。
「お前は、私の命に背かず忠誠を誓う、と誓約したろう」
「主上……」
「そして、私が自分で考えたことに、お前は口出ししないんだろう」
そう畳みかける陽子に、景麒は困惑したように黙し、また深い溜息をついた。陽子は面白げに笑う。この溜息を、かつてどんなに嫌ったことか。しかし、それは陽子を否定するものではないともう分かっていた。
そして陽子は立ったまま深々と頭を下げる己の臣下たちを見渡す。全員が心から頭を下げているわけではないだろう。だが、浩瀚を筆頭に、陽子を己の主と認めてくれている者もいる。陽子は笑みを浮かべる。
景王として歩むのだ、焦らず、急がず、一歩ずつ。目の前の官吏との拮抗を恐れず、思いを託す民を忘れずに。
* * * 75 (終章) * * *
雁州国王都関弓。雁国大学寮はその関弓山の中腹にある。楽俊は、深更の自室にまた賓客を迎えていた。いつもの如くふらりと訪れた雁国主従である。そう、今宵は二人揃ってのお忍びであった。
この二人はちゃんと仕事をしているのだろうか。
楽俊は不安を隠せない。そんな楽俊の気も知らず、見覚えのある鳥を見せて二人の貴人は満面に笑みを浮かべる。
「陽子から鸞が届いたんだ。楽俊も心配していると思ってさ」
延麒六太がそう言った。延王尚隆も笑顔で頷き、鸞の頭に触れた。鸞は懐かしい友の声で喋りだした。
延王、延麒、お久しぶりです。先日はありがとうございました。ご忠告どおり、準備万端に整えて挑みました。「伏礼を廃す」という初勅、なんとか発布することができました。景麒にはかなり嫌味を言われましたが。
次は半獣と海客の差別をなくす法を、と目論んでいます。なんといっても禁軍左将軍が半獣ですし、私は胎果ですからね。そして、私が作る国を見てみたいと言ってくれた親友に報いたいです。
冢宰に任じた元麦州侯浩瀚は大層な辣腕家です。延王が最初に仰っていたとおりでした。私は今、かなりしごかれている最中です。目星をつけていた人々も、少しずつ伺候してきています。これでなんとか金波宮を回していけそうです。
──それと、楽俊に伝えてください。色々と聞こえてきているかもしれないけれど、私は何とかやっているから大丈夫だよ。同じ年頃の女友達もできたから、心配しないでくれ。楽俊も大学での勉強、頑張ってください。
ご心配おかけしました。これからもよろしくお願いします。もう少し落ち着いたら、どうぞ遊びにいらしてください。
──相変わらずだなあ、陽子は。
楽俊は胸で呟き、銀色の髭をそよがせた。でも、なんだか、引っ掛かることを沢山言っていたような気がするぞ。小首を傾げて黙する楽俊に、六太は笑いかける。
「──もしかして、なんか考えこんでるか?」
「え、いえ……」
「正直に言っていいんだぞ」
六太はにやにやと笑う。楽俊は小さく息をつき、諦めたように問いかける。
「──延台輔は、陽子が家出したって仰いましたよね」
「うん。で、尚隆が様子見に行った。そんで楽俊に柳を見にいってもらった」
「おいら、その柳で、景王に会いたいって言っていた女の子を拾って慶まで送ったんです。その子が先日訪ねてきて、金波宮に勤めることになったと……」
「その娘は紺青の髪か、黒髪か?」
尚隆が楽俊の言葉を遮り、口許に笑みを浮かべて問うた。楽俊は大きく嘆息する。
「ああ……やっぱり……。紺青の髪のほうです。祥瓊という名の」
「さすが、楽俊は察しがいいなあ!」
「元公主の祥瓊は、陽子のよい友になりそうだぞ。黒髪で海客の鈴という娘もそうだがな」
「じゃあ、拓峰だかで起きた内乱に、陽子は……」
「叛乱民と一緒に戦っていたぞ」
遠慮がちに問うた楽俊に、尚隆は間髪入れずに答える。六太は顔を顰めて抗議した。
「尚隆! 楽俊には言わないって……」
「俺は約束などしていない」
涼しい顔をしてそう断じる尚隆。楽俊はだんだん頭痛を感じ始めていた。
「──延王、なんだか見てきたような仰りようですね」
「こいつは見てきたんだよ。全く、仕事全部おっぽり出してさ」
眉間に皺を寄せてそう言う六太に、楽俊は目を見張って絶句する。尚隆はわが意を得たりというように、人の悪い笑みを見せた。楽俊は呆然としつつも、次第に胸が温かくなるのを感じた。
楽俊に会いに来た祥瓊は、見違えるほど明るく溌剌としていた。ああ、陽子と同じ笑みだ、と楽俊は親友を思い出した。苦しくて辛抱できない、という様子を見せる手負いの獣のようだった陽子。その陽子が色々なものを乗り越えてから見せた、鮮やかな笑み。
楽俊は延王尚隆を見上げた。
この方は伴侶をずっと見守っていたのだ。
楽俊は感慨を噛みしめるように言った。
「──仲間ができたんですね」
「そうだ。頼もしい仲間だぞ」
「陽子は、もう、大丈夫ですね」
「ああ、陽子だから、大丈夫だ」
延王尚隆はそう断じると、太い笑みを見せた。楽俊は大きく頷いた。六太はそんな楽俊に笑みを送る。
「金波宮に遊びに行くのを楽しみに勉強しろよ!」
「台輔も、延王も、お仕事を溜めすぎないようになさってください」
「おれは溜めてない」
「俺の分はお前がやってくれたのだろう、六太」
「それは甘いぞ、尚隆」
──こっちも相変わらずだぞ、陽子。
いつもの言い合いを始めた雁国主従を苦笑で見守りながら、楽俊は遠い親友に思いを馳せる。胸の中の陽子は、昔と変わらぬ鮮やかな笑みを見せた。
2006.05.23.
──終わりました! 約半年という長い間読み続けてくださって、ありがとうございます。
「5000打記念」として始めた連載ですが、終わる前に「20000打」までいってしまいました。
原稿用紙200枚くらいで終わればいいなと思っておりました。
どんどん延びていき、結局426枚書いたことになります。どひゃ〜!
夢中で書き綴りましたが、読み返してみれば、拙いところだらけでございます。
それでも、今の私が、精一杯書いたものです。お気に召していただければ幸いです。
2006.05.24. 速世未生 記