黎 明 (24)
* * * 70 * * *
金波宮の禁門が見えてきた。陽子は緊張を隠せない。それを見た尚隆が微笑する。
「──いいか、答えたくない質問に答える必要はない」
「うん──やってみる」
禁門の前に班渠は優雅に着地する。国主景王を認めた門卒たちは一斉に叩頭する。そして厳かに開門した。禁門の傍に詰めている閽人たちも現れて叩頭した。陽子は軽く頷き、足早に進む。
景王陽子が王宮内を歩き進めると、出会う者が皆、叩頭して礼を取る。しかし、隣国に遊学していた王の突然の帰国、そしてその女王の男装。それを見て、官が胸の内で何を考えているのかは分からない。内殿の入り口で出迎える景麒の姿を見つけ、陽子はやっと肩の力を抜いた。
正直言って、陽子が景麒を見て、こんなに心を安らがせるのは初めてだった。景麒は陽子と尚隆の前に恭しく膝をついた。
「主上、お帰りなさいませ。ご無事のご到着、心よりお喜び申し上げます。勅使もお疲れでしょう。内殿に席を設けてございます。どうぞ」
陽子は軽く頷くと、先導する景麒について歩いた。内殿の一室に案内されて榻に腰掛ける。景麒は着替えてこいとは言わなかった。陽子は内心ほっとした。
女官が茶の用意をした。その後、景麒は全ての下官を下がらせた。そして、使令に見張りを申しつける。それから、おもむろに口を開いた。
「──主上、お疲れさまでございました。延王も、主上を送っていただき、ありがとうございました」
「礼には及ばん。──というか、景麒に礼を言われるとは思っていなかったな」
延王尚隆は口許を歪め、くつくつと笑う。景麒は眉を顰めたが、何も言わなかった。陽子は苦笑を浮かべ、口を開いた。
「景麒、色々心配かけて済まなかった。遠甫の無事も確認できた」
「──それはようございました」
景麒はほっとした様子を見せた。陽子は微笑し、それから表情を引き締めて本題に入った。陽子は己がいない間の朝の様子を把握しなければならない。なんといっても、朝廷最大派閥の長を拘束したのだから。
「靖共と呀峰と昇紘は?」
「秋官府内の牢にて処分を待っております。罪状を秋官に調べさせ、適正な処置をお取りになるがよろしいかと」
「分かった。で、官の反応は?」
「様々でございます。靖共の配下の者は説明を求めております。反靖共派の者たちは当然だと」
景麒は淡々と、しかし淀みなく答える。陽子は景麒の話を真剣に聞きながら頷いた。
「──では、朝議は大荒れだな」
「そのようです」
その応えで景麒も朝議に出席していないのだと分かる。密かに使令を差し向けているのだろう。陽子は微かに笑みを浮かべる。このままの状態で朝議に出席しても、何も変わらないと、景麒も重々承知しているのだ。
黙して聞いていた延王尚隆は、それは賢明な判断だな、と大きく笑った。そして視線を陽子に向け、おもむろに訊ねる。
「──さて、陽子はどうしたいのだ?」
「朝を、王の手に取り戻したい」
延王尚隆の問いに、景王陽子は目を上げて即答した。その勁い意志の輝く瞳。尚隆は微笑し、重ねて問う。
「そのためにはどうすればよいと思う?」
「──言を弄する官の口を封じたいな。そうでなければ、私の主導で朝議を進めることができない」
考えながら、ゆっくりと口を開く景王陽子に、景麒は目を見張る。延王尚隆は不敵な笑みを浮かべて頷く。そして、ゆったりと続けた。
「では、弁が立つ臣を味方として冢宰に就ける必要があるな。──当てはあるのか?」
「うん、浩瀚に頼もうかと思ってる。──どう思う、景麒」
「──適任かと」
景麒は短く応えを返し、頭を下げた。景麒の賛同を、陽子は笑みで受ける。その後も延王尚隆は幾つかの質問をし、景王陽子は淀みなくそれに答えた。尚隆が問うたびに、問題点が浮き彫りになる。そして、その問いに答えれば答えるほど、目の前の道が開けていく。
景麒は二人の王のその問答を、時々頷きながら聞いていた。陽子があれほど嫌がった溜息をつくことなく。景麒は、陽子を王として認めている。陽子は己の成長振りを感慨深く見つめる景麒の視線を感じた。景麒のその様子を、延王尚隆も面白げに眺めていた。
「それでは、浩瀚らが伺候するまで待つがよい。陽子も、景麒もだ。なに、人払いして、内殿に籠もっていればそれでよい」
延王尚隆は、最後をそう締めくくると、太い笑みを見せた。景王陽子は大きく頷き、傍らの景麒に揺るぎない笑みを向ける。
「──私の戦いは、これからが本番だ。今度の戦には、景麒の協力が欠かせない。よろしく頼む」
「御意のままに」
景麒は己の半身でもある主に、心から頭を下げた。稀代の名君と堂々と対峙し、見違えるように王の顔を見せる主を、誇らしく思いながら。
* * * 71 * * *
遊学していた雁国から金波宮に戻った国主景王は、内殿に籠もったきり姿を現さない。雁から王を送ってきた勅使も、今回は掌客殿ではなく、内殿の一室に迎え入れられた。身の回りの世話をする下官も、用が済み次第下がるよう命ぜられる。
それは全て、雁からの書簡を受け取った宰輔景麒の命で手配されたことだった。そしてその宰輔も相変わらず朝議を欠席し、内殿より出てこない。
太宰靖共、和州侯呀峰、止水郷長昇紘が捕らえられ、秋官府に留め置かれたままである。王も宰輔も官吏たちに説明をする気はないようだ。それがいったい何を意味するのか。官吏たちは密やかに囁きを交わす。
王は延王に諮り、雁国から官僚を招くつもりなのだ。
そして、今回ついてきた勅使は、金波宮を視察しているのだ。いや、延王が送りこんだ官僚候補なのだ、と。
夕食後、陽子の私室に密やかに現れた尚隆は、耳に挟んだ噂話を面白げに語る。陽子はそれを聞きながら、大きく溜息をつく。
「──あなたは王のくせに、どうして他所の宮殿でそんな情報を得ることができるんだ?」
「まあ、そんなことはどうでもよいではないか」
「どうでもよくはないよ」
「だが、お前には必要な情報だろう?」
顔を蹙める景王陽子に、延王尚隆はそう言って人の悪い笑みを見せる。陽子が景麒と細かな打ち合わせをしている間、尚隆は暇を潰してくる、と言って夕食まで戻らなかったのだ。
朝廷を牛耳っていた豺虎が捕らえられ、官吏たちは動揺している。明らかに動き出す者もいれば、静観する者もいる。皆、もう戻ってこないだろうと思っていた王の帰還に驚いているのだ。そして隣国の王に知恵をつけられた王の出方を、虎視眈々と見守っている。
尚隆はそれを予測していた。密かに王宮内を探っていると、いろいろな話が聞こえてきた。短命な女王ばかりが続いた慶国の官吏たちは、謀の打ち合わせも隠すことがない。呆れるほど堂々と行っているのだ。
景王は何も知らない不甲斐ない王だから仕方ないね、と女王は他人事のように笑う。ここまで蔑ろにされていることを怒りもせずに。尚隆がそう指摘すると、陽子は苦笑して言った。
「──とりあえず、浩瀚や遠甫が伺候するまでは、下手な戦を仕掛けることはできないし。籠もって字の練習でもしてようと思うけど」
「それがよい。あまり、余計なことばかり考えていると、眉間の皺が増えるぞ」
尚隆はそう揶揄して、陽子を抱き寄せた。陽子は少し頬を染め、どこかぎこちなく身を委ねる。尚隆はくすりと笑ってその朱唇に口づけを落とす。
固継の門の前で別れを告げてから、どのくらいの月日が経っただろう。拓峰に着いてからもずっと、遠くから見守るだけだった。隣国の王である尚隆には、それしか許されなかった。
ようやく伴侶をこの腕に抱ける。
抱きしめて鮮やかな緋色の髪に顔を埋めた。おずおずと背に回される華奢な腕。宮殿に戻り、湯浴みをし、着替えた伴侶はよい匂いがした。街に降りて普通の娘のように働き、内乱で剣戟を振るったその身体は前より引き締まっていた。
尚隆は、指で、唇で、ゆっくりと伴侶の身体を確かめる。伴侶は少し震えながらもその愛撫に応える。華奢な腕にはしなやかな筋肉がついた。小さな掌には剣を持つ者特有のまめができ、指は水仕事のせいか少し荒れている。その指先に口づけると、陽子は小さく溜息をついた。
「──女らしくないよね、私の身体」
「そうか? この指も、手も、腕も、働き者のよい女のものだと思うぞ」
「──働き者のよい女って、剣を振るうの?」
「少なくとも、俺の伴侶はそうだが。何か不満か?」
笑い含みの尚隆の言に、陽子は軽く吹き出した。そして尚隆の眼をじっと見つめる。やがて、そっと尚隆の首に細い腕を絡めてきた。いつも受身の陽子が、こんなに積極的なのは、初めてかもしれない。
「──いつも、あなたの言葉を、思い出していた」
吐息のような微かな囁き。翠の瞳が僅かに潤む。若い伴侶の素直な言葉が愛おしい。尚隆は微笑を浮かべ、伴侶がまた口を開くまで待った。
「あなたの言葉が、私の支えだった。
──ありがとう」
輝かしい瞳に涙が滲む。生真面目な伴侶の礼に、尚隆は微笑して頷いた。瞬きとともに、翠玉の瞳から涙が零れ落ちた。
「離れていても、いつも胸にあなたがいた……」
尚隆の肩に顔を埋め、陽子は密やかに囁いた。肩から直接胸に響く、その声。尚隆は陽子の豊かな髪を撫でる。
「お前が無事で、よかった……」
陽子は顔を上げて鮮やかな笑みを見せる。尚隆はそんな伴侶の潤んだ瞳の美しさに見とれた。声なく見つめる尚隆に、陽子は小首を傾げ、頬を染める。
「──
尚隆?」
尚隆はやっと腕に収めた伴侶に笑みを返す。零れた涙を唇で拭うと、そのまま抱き上げて臥室に向かった。目を見張り、まだ早いと真っ赤になる伴侶の抗議を、長い口づけで封じる。そして人の悪い笑みを見せて言った。
「──陽子、夜は短いのだぞ」
頬を染めて羞じらい、陽子は黙す。それから素直に尚隆の胸に身を預け、束の間の逢瀬を惜しんだのだった。
* * * 72 * * *
「迷うなよ、お前が王だ」
夜が明ける頃、愛しい伴侶は笑みを浮かべてそう言った。このひとは、どうして分かってしまうのだろう。陽子は驚きを隠せない。それこそが、今の陽子に一番必要な言葉。
これから朝を己の手に取り戻すための戦を仕掛ける。官との拮抗が、また始まる。街に降りて色々な経験を積み、陽子は王としての自覚を持った。しかし、言を弄する狡猾な官吏たちに対峙することに、まだまだ不安が残る。
──己が王である、という自信が欲しかった。王として、認めて欲しいと思っていた。
このひとは、何でも見透かしてしまう。
そして、いつも見守ってくれている。稀代の名君と称えられる伴侶の激励に、景王陽子は大きく頷いた。
王の帰還の翌日、景王と景麒に見送られて延王の勅使は帰国した。官吏たちは拍子抜けの感を禁じえない。勅使は官僚として金波宮に残るもの、との見方も多かったからだ。その後も、王と宰輔はともに官の前に姿を現さなかった。
己の態勢を充分整えるまで何も答える必要はない、延王尚隆はそう笑った。そのとおり、景王陽子は己の臣の訪れを待っていた。
まず、瑛州侯景麒により固継の閭胥の任を解かれた遠甫が姿を見せた。陽子は恩師の訪れを心から喜び、ともに療養中の桂桂を見舞った。
やがて、元麦州侯浩瀚が元州宰柴望と元州師将軍
桓魋を伴って密かに伺候した。景王陽子は宰輔景麒とともに内殿で三人を迎えた。
三人は国主景王の前で恭しく平伏する。陽子は玉座を降り、浩瀚の傍近くに膝をついた。景麒は渋い顔をしたが、あえて主のその行動を止めようとはしなかった。
ただ一人偽王に対抗した心正しき州侯を、景王陽子は奸臣の諫言を鵜呑みにして罷免した。それなのに、この人物は官位を剥奪されても尚、国主景王に道を示したのだ。
浩瀚が和州で叛乱を企てなかったら、朝廷に巣食う豺虎を退治することはできなかっただろう。拓峰の乱も失敗に終わったに違いない。そして、陽子が王として権を揮うこともできなかっただろう。
「──顔を上げてくれないか」
主の言葉に、浩瀚はゆっくりと顔を上げた。桓魋と柴望は叩頭したままだった。浩瀚に対する誤解が解けたと納得するまで、恐らく二人はそのままだろう。そう思い、陽子は苦笑する。それから陽子は浩瀚に頭を下げ、真摯に謝罪した。
「浩瀚、申し訳なかった。私が不甲斐ないばかりに、ずいぶん酷い目にあわせてしまった……」
「いいえ、私は主上がいつか分かってくださると信じておりましたので」
初めて耳にする浩瀚の声は涼しげだった。さらりとそう言って、浩瀚は再び頭を下げた。意外な言葉に、陽子は思わず目を見張って浩瀚に問うた。
「──何故? 私は何も分からない小娘に過ぎないというのに」
「即位祝賀の折に、私は主上に拝謁いたしました。主上は紛れもなく王として座しておられました」
人望厚い州侯は、景王陽子を己の主と認めた、と語る。陽子は不思議な感動を覚え、即位式を反芻した。
迷うなよ、お前が王
だ──延王尚隆はそう送り出してくれた。偉大なる隣国の王の言は、景王陽子の拠り処となっていた。あのとき確かに、陽子は己が王だと思って即位式に臨んだ。官吏たちはそうとは認めなかったけれども。
年若き女王に頭を下げることを躊躇わない州侯は、毅然と頭を上げる。そして、景王陽子を真っ直ぐに見つめ、はっきりと断じた。
「この国の王は、主上、あなたでございます」
「──ありがとう、浩瀚」
陽子は胸が熱くなるのを感じた。拓峰の街で「殊恩」の者たちと戦ったときとはまた違う高揚感だった。ひとつの州の主として民に慕われ実績を残す人物が、陽子を王として認めてくれたのだ。
景王陽子はゆっくりと、花がほころぶように晴れやかな笑みを浮かべた。いつも無愛想な景麒も微笑していた。そして、ずっと叩頭していた柴望と桓魋も、誤解が解けたことを寿ぎ、顔を上げて笑みを見せた。
王朝をこの手に取り戻す、第一歩を踏み出せた。景王陽子は頼もしい臣を得て、そう確信した。
2006.05.09.
大変お待たせいたしました。長編「黎明」連載第24回をお送りいたしました。
今回はGWということもあって、変則アップとなってしまい、申し訳ありませんでした。
間に合わせの「掲示板」のほうは削除させていただきましたのでご了承ください。
御題其の七「恋に落ちて」にようやく辿りつきました! 万歳!
長く苦しい旅でした……。そしてとうとう原稿用紙400枚を超えました……。溜息。
でも、もう少しです。
(──と、ずっといい続けているような気がしますが)
さて、次はどうなることやら。何卒気長にお待ちくださいませ。
2006.05.09. 速世未生 記