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睦 言むつごと (上)

* * *  1  * * *

 慶東国の王都堯天。その雲をも凌ぐ堯天山の頂にある金波宮の禁門に、一騎の騎獣が降り立った。虎に似たその見るも稀な騎獣を認め、門前の兵卒が一斉に叩頭する。軽々と騶虞すうぐから飛び降りた人物は、口許に薄く笑みを浮かべ、頷いた。兵卒は立ち上がり、厳かに禁門を開けた。

 執務室にふらりと現れた大きな影に、国主景王は書類に慎重な筆を走らせながら、目も上げずに声をかけた。
「おや、ずいぶんお早いお着きですね、延王」
「案内を乞わなかったからな」
 延王尚隆は、勝手に榻に腰を下ろして寛ぎながら、そう言って笑った。
「あなたのお越しを告げた下官が下がったばかりですよ。 全く、お茶の用意をする時間ぐらい、考慮してください」
 景王陽子はそう嘆息したが、物慣れた態度だった。そんなことを言いながらも、手を止めて気儘な客人の相手をすることなく、書類の山をゆっくりではあるが、確実に片付けている。その様子を見ながら尚隆は面白げに問うた。
「いつもお前の傍に侍っている冢宰と宰輔がいないな」
「──冢宰はいつも私だけに係っているわけではありませんよ。それに、宰輔は瑛州の政務を行う時間です。ご存じのくせに」
「──憎まれ口を利く余裕はあるのだな」
「余裕がないのが分かっているなら、話しかけないでください」
 相変わらず顔を上げずに応えを返す陽子に、尚隆は苦笑を隠さない。
 程なく女御がやってきて、突然訪れた客人を主の代わりにもてなした。主が動じないせいか、景王の側近も、ふらりと現れる隣国の王の存在にすっかり慣れてしまったようだった。
「やれやれ、やっぱり茶だけなのか」
「ここは慶ですよ。まだこんなに明るいのだから、お酒じゃなくて、名産のお茶でも飲んで待っていてください」
 情けなさそうに不平を言う隣国の王に、陽子は初めて顔を上げて、悪戯っぽい笑みを見せた。そんなやりとりを聞いて、茶の支度をしていた女御がくすりと笑う。
「全く、お前の主は相変わらず頭が固いな、鈴」
「申し訳ございません。夜のお席には御酒を用意いたしますので」
 主の代わり に詫びを入れながら、鈴は延王に慶の名産である「白端」を差しだす。尚隆はその茶を啜りながらくつくつと笑った。
「仕方ない。暗くなるまで待つとするか」
「たまには我慢もしてください」
 涼しい顔でそう応じる陽子を、尚隆は感慨深げに見やる。ずいぶん王らしい貫禄がついたものだ。気紛れな隣国の王の所作にも全く動じない。そして、この色気のないやりとり。この様子を見て、尚隆と陽子の関係を疑う者は、おそらくいないだろう。側近中の側近、陽子の友である鈴と祥瓊すら気づいていないのだから。
「さて、と。これで一応お終いだ」
 陽子は筆を置き、立ち上がった。下官を呼び寄せ、片付けを申しつけると、陽子は改めて尚隆に向き直り、拱手した。
「延王、お待たせしました。今回はいったい何から逃げてこられたのですか」
「──人聞きの悪い。いったい俺が何から逃げ隠れするというのだ?」
「さあ、私は延王じゃないから、そんなことは分かりません」
 屈託のない笑顔を向けられ、尚隆は苦笑する。その小憎らしい口を塞いでやりたいと思ったが、顔にはおくびも出さず、陽子の頭を軽く小突いた。
「全く、口ばかり達者になりおって」
「師匠の腕がよろしいせいでしょうね」
 悪びれもせずに即答する陽子に、尚隆は渋面を作る。
「そんなことを教えた憶えはないがな」
「年を取りすぎて、とうとう惚けてしまわれたかな」
 放っておけばいつまでも続く、主と隣国の王の口さがないやりとりを、側近たちは止めるでもなく、ただ肩を震わせてやり過ごすのみだった。

* * *  2  * * *

 夜更けにそっと伴侶の堂室を訪ねる。久しぶりの逢瀬だった。久しぶりでないことなど、滅多にないのだが。──そう、己の伴侶は隣国の女王。気軽に会える女ではない。
 密やかに忍んできた尚隆を、陽子は艶然と迎え入れた。尚隆は伴侶の細い身体を抱きしめ、その朱唇に口づけを落とす。やっと会えた、そんな想いを籠めて。
 陽子は尚隆を見上げる。翠の瞳が歓喜に輝いていた。豊かな緋色の髪を緩く結んだその様は麗しく、昼間の素っ気ない女王とは別人のようだった。
「青鳥くらいくれても罰は当たらないと思うんだけど」
「青鳥よりも、俺が着くほうが早いと思うぞ」
「そういう問題じゃないよ──
 更に言い募ろうとする伴侶の唇を封じた。長い口づけを交わす。陽子はもう何も言わなかった。尚隆は陽子を抱き上げ、臥室に向かう。そう、夜は短いのだ。互いにそれをよく分かっていた。

 熱く甘やかな時が流れた後、尚隆はふと思いついたことを、何の気なしに伴侶に訊ねてみた。
「お前は、何故、俺を受け入れる?」
「あなたが私を求めるから」
 尚隆の問いに対する陽子の応えは至極簡単だった。尚隆は腕の中に収めた伴侶の顔をまじまじと見つめた。
「それだけ、か?」
「何かおかしいか?」
 陽子は尚隆を物問いたげに見返す。そのどこまでも真っ直ぐな視線を受けとめかね、尚隆は思わず目を逸らした。そのまま苦笑する。
「お前はそんなに従順な女だったか?」
「──語弊があるよ、その言い方」
「じゃあ、どう言えばいいのだ?」
「素直、とか、純真、とか、他にもっと言いようがあるだろう?」
 尚隆は思わず吹きだした。そして、小さく溜息をつく。この娘に色気を求めても無駄だと分かっていたはずなのに。
「──お前は、相変わらず面白い女だな」
 そう言って尚隆は、憮然とした顔をする伴侶に口づけた。何が面白いのかさっぱり分からない、と陽子は不平を言う。尚隆は幼い子供にするように、陽子の頭を撫でた。その手を払いのけ、陽子は言い募った。
「私にとっては、あなたを受け入れることは、こちらを受け入れることと同義なのだから」
「ほう?」
 尚隆は真顔になって腕の中の伴侶を見つめた。

「こちらを受け入れるということは、私が景王としての責を負うこと──

 静かに語り、陽子は目を閉じた。尚隆もまた黙す。陽子が迫られた選択の厳しさを思い出したからだ。
 陽子は拉致も同然にこちらに連れてこられた。何も分からぬまま、襲いくる妖魔と戦い続けた。尚隆と出会ったときには立派な戦士になっていた。それでも陽子は、己がただの女子高生だと主張し、あちらへ帰りたいと願った。
 そんな陽子に、延王尚隆と延麒六太は残酷な宣告をするより他に術がなかった。即ち、生きるか死ぬかの選択をすこと。こちらに残り、景王として生きるか、あちらに帰って遠からず死を迎えるか──。
 尚隆は黙したまま、睫毛を振るわせる陽子を抱き寄せた。訊かずにはいられなかった。

「──あちらが恋しいか?」

「恋しくない、と言えば嘘になる……」
 閉じた瞳から涙が一筋零れた。尚隆は何も言わず、己の唇でその涙を拭った。

2005.09.23.
 サイト改装に伴い、原稿用紙約20枚の作品を上下に分けてみました。 ついでに壁紙も替えてみました。如何でしょうか?

2007.08.09. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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