睦 言 (下)
* * * 3 * * *
「──尚隆」
やがて陽子は、まだ少し潤んだ瞳を開き、尚隆を見つめた。
「私も訊きたいことがある」
「──なんだ?」
「何故、私が、あなたの運命、なのか」
陽子の真摯な眼を真っ直ぐに見返し、尚隆は微笑した。
「天啓だと言ったはずだが、信じられぬか?」
「──あなたは天意を鵜呑みにする人ではない」
それは確信を持った応えだった。
「なかなかな慧眼だな。だが、何故、今頃それを訊く?」
「あなたが当たり前のことを訊くから」
尚隆は物問いたげな眼を向けた。陽子は目を逸らし、深い溜息をついた。
「──ずるいな。私が訊いていたはずなのに、いつの間にか 逆転してる」
尚隆は苦笑したが、黙って陽子に先を促した。陽子は目を合わせずに呟いた。
「あなたが、私に、何を求めているのか、分からない」
「──それは悩むことなのか?」
尚隆は優しく訊いた。陽子は小さく頷いた。稚い童女のように頼りないその姿に、尚隆は目を細めた。この娘は、男女の機微にはとことん疎いくせに、妙なところで鋭い。そう思い、尚隆は、ふっと息をついた。それを非難と取ったのか、腕の中の娘は微かに肩を震わせた。尚隆は安心させるように、その細い肩を軽く叩いた。
「天意があったのは、本当だぞ。それを受けるか受けないかの選択の余地もあった。そして俺はお前を選んだ。お前にも俺を選んでほしかったし、そう願ったはずだ」
陽子は素直に頷いた。尚隆は続ける。
「問題は、お前が俺の腕に留めておけない女だということだ。分かるな?」
「──うん」
陽子は慶の国主景王。雁の国主延王の傍に、常に侍るわけにはいかない。納得した様子の陽子は、悪戯っぽく笑った。
「──あの時、お前は俺の女だから大人しく俺のものになれ、と言われていたら、私は今ここにはいないと思う」
尚隆はくつくつと笑う。
「それはそうだろう。あいにく、俺はそこまで莫迦ではないぞ」
そう返しながら尚隆は思い出す。初めて本気で惚れたこの女を口説き落とすのに、どんなに苦労したかを。初心で誇り高いこの娘は、己の意に染まぬものを容れることはない。伴侶である尚隆にさえ、私は誰のものでもない、と言って憚らないのだ。その朱唇が愛の言葉を語ることは皆無だった。
「私は、少なくともあなたの傍にいるときは、あなたを受け入れようと思っているのだけれども」
陽子はそう言って軽く笑った。尚隆の笑いが止まった。陽子をまじまじと見つめる。陽子は怪訝そうな顔をし、首を傾げた。
どうやら伴侶は自分の失言に気づいていないらしい。尚隆はにやりと笑った。我ながら、かなり人の悪い笑みを浮かべていると思う。
「──ほう、なかなか心地よい言葉を聞かせてもらった」
楽しげな尚隆とは裏腹に、陽子は目を泳がせた。まずいことを口走っただろうか。このひとがこんな顔をするときは、何かある。
尚隆はゆっくりと陽子の視線を捕らえた。いつも輝かしい翠玉の瞳は、落ち着かない色を浮かべていた。
「私、何を言った?」
「俺が求めているときは、お前は俺のもの、ということでよろしいか、景王陽子?」
尚隆はおもむろにそう言って、陽子の頤に指をかけた。目を逸らすことはできない。その熱のこもった凄みのある視線に曝され、陽子の頬がゆっくりと朱に染まった。尚隆はそれを肯定と取り、口許に笑みを浮かべた。
「──それでは、遠慮は止めにしよう」
「──!」
言い訳をしようと思う間もなく、唇を封じられた。きつく抱きしめられ、逃げることはできない。口づけは次第に濃厚になり、頭の芯が痺れてきた。熱の籠った逆らえない愛撫に、陽子の身体から力が抜けていく。尚隆はそれを待っていた。
尚隆は、自ら女にした歳若い伴侶を、いつも愛しんでいた。戸惑い、躊躇う娘を怖がらせないように、ゆっくりと、優しく抱きしめていた。己の内にある激しい情熱全てを伴侶にぶつけることなど、したことがなかった。女としてはまだまだ稚い伴侶に無理をさせるつもりもなかった。しかし。
固い蕾だった花は、いつしか美しく咲き初めていた。羞じらう少女の奥に潜む女が目覚めようとしていた。己の伴侶を受け止めるために。
「──あ……!」
思わず喘ぎ声が漏れた。尚隆の熱い手で、身体がゆっくりと開かれていった。羞恥を感じていた心までが、その指と唇に解かれていく。今まで感じたことないものが陽子の身体を貫き、もう何も考えられなかった。陽子はもう尚隆のなすがままだった。波のように押し寄せる圧倒的な快感に、陽子は呑まれていった。
* * * 4 * * *
暖かな空間を、ゆったりとたゆたうような感じがしていた。恍惚──と言ってもいいような心地よさ。
ああ、このひとは、ずっと待っていたのだ──。
そんな想いが心を締めつけた。幼い、と言われるたびに反発していたような気がする。困ったような笑みを見るたびに切なくなった。意味も分からずに、教えてくれと、ただねだった。受け止める心がなければ、伝えられるはずもなかろう──。
柔らかな視線を感じ、陽子は目を開けた。眠っていたのか、と驚いた。尚隆が愛おしむような優しい眼差しを向けていた。長袍を着込み、枕許に座っている。それは別れの合図。短い夜が明ければ、二人はもう、王の顔で会わなければならない。
「──もう、行くの?」
物憂げな問いに軽く頷き、尚隆は立ち上がった。陽子は力なくその手を引いた。
「待って……夜着を着せていって」
じきに女官が起こしにくるだろう。だが、陽子は動けなかった。まだあの快感が陽子を捕らえていた。握った手から、またあの波が打ち寄せてくるような気がした。尚隆は微笑する。
「おやおや、脱がせたことはあっても、着せたことなどないぞ」
「──動けない……夜着を着せて」
陽子は繰り返した。尚隆は牀に腰を下ろし、苦笑した。
「そんなことを言っていたら、いつまでも裸のままだぞ」
「……いいよ、最後に夜着を着せてくれれば」
気怠げにそう答える陽子を抱き起こし、ぐったりした身体を支えた尚隆はまた苦笑する。
「無理するな。多少加減はしたが、遠慮は止めたのだ。辛いだろう、少し眠れ」
「うん……。もう、子供扱いされても怒らないよ。尚隆……」
「──ん?」
「気が長いね……」
「──五百年も生きてるのだぞ、二年や三年は誤差のうちだ」
軽口を叩きながらも尚隆は陽子に夜着を着せかけた。そしてまた人の悪い笑みを見せる。
「──今度は何?」
陽子の問いには答えず、尚隆は陽子の肌に所有印を刻んだ。
「お前は嫌いだろうが、今宵の記念だ」
「あ〜あ、見つかると困るんだけど……」
情けなさそうにそう言う伴侶に、尚隆は軽く笑った。
「なに、すぐ消える。心配するな」
それからまた愛しむような目を向ける。
「他に何かしてほしいことはないか?」
「眠るまで手を握っていて」
陽子は童女のようなあどけない微笑を見せた。尚隆は頷き、伴侶の小さな手を取った。陽子は笑みを返すと目を閉じた。そしてすぐに寝息を立てた。尚隆はそのまましばらく伴侶の安らかな寝顔を見守った。それから満足げに微笑むと、その頬に軽く口づけ、堂室をあとにした。
2005.09.23.
秋の夜長に甘いお話をどうぞ! (開き直り)
こんな甘々なもの、いつ書いたんだろうな〜。
書き始めの日付を見ると、半年以上前のものでした。
あまりに甘すぎて放っておいたのを、かなり改稿して持ってきました。
お気に召していただけたでしょうか?
時代的には「黄昏の岸 暁の天」の前あたりと思ってください。
私の作品で言えば、「陰陽」と「残月」の間あたりのつもりです。
……間に合って、嬉しいです!
2005.09.23. 速世未生 記