空さま「14万打記念リクエスト」
同 想 (上)
* * * 1 * * *
隣国から帰った主は匂やかに微笑んでいた。胸に巣食っていた昏い闇を払った女王は、艶増して美しい。それは、永きに渡り秘められていた伴侶の存在を明かした王の、女性としての美しさであった。
主は視線を左手に落としては嬉しげに微笑する。細い指に嵌められた、銀色に輝く指輪に気づき、浩瀚もまた笑みを浮かべる。装飾品を嫌う主が身に着けるそれは、恐らく伴侶からの贈り物なのであろう。
「お戻りなさいませ、主上」
「ああ、浩瀚。出迎えご苦労。長い間、留守にして済まなかった」
「よい旅になられたようですね」
「お前たちのお蔭だよ。ありがとう」
主はそう言って鮮やかに笑む。浩瀚は主の感謝に拱手にて応えた。臣に礼を述べることを惜しまない女王。それは、あの慶賀の折にも変わらなかった。
(──みな、私の願いを叶えてくれて、ありがとう……)
感謝の言葉ともに流された清らかな涙を、浩瀚は決して忘れることはないだろう。辛く苦しいときには泣き顔など見せない武断の女王が、ただ一度きり見せた、あの清麗な涙を。
「いいえ。大した案件はございませんので、休養なさってからおいでくださいませ」
「いや、ちょっと遊びすぎてしまったから、きちんと仕事をするよ」
長旅を労う浩瀚に、主は悪戯っぽい笑みを見せる。そのとき、足許から低い笑い声が聞こえた。
「──班渠!」
「失礼いたしました」
主の勘気に触れた使令が笑い止めた。主はちらりと浩瀚を窺うような視線を送る。浩瀚は何も気づかぬ振りをして頭を下げた。主のほっとしたような溜息が微かに聞こえた。
主の伴侶は、今度は何をしたのだろう。稀代の名君と称えられし隣国の放埓な王は。班渠の様子からすると、いつものお忍び程度の悪ふざけのようだが。主が落ち着いたときにでも訊いてみよう。そう思い、浩瀚は笑みを浮かべた。
「それじゃあ、着替えたら仕事をするよ」
主はそう言って自室に向かう。そしてその言葉のとおり、荷物を置き、旅装を改めただけの女王は、書卓に積み上げられた書簡を軽快に捌き始めた。
国の主が戻り、日々は穏やかに過ぎていった。主は精力的に政務をこなし、溜まった書簡を見る間に片付けていく。宰輔は目を細めてその様子を眺めていた。
眩しいばかりの陽光の王気を纏う王。宰輔は主をそう評していた。陽子という御名のとおり、太陽の如く輝かしく、慶の国を遍く照らす女王。
ほんとうによかった。主が昏闇に呑まれるかもしれないと思ったときのあの寄る辺のなさ。思い起こすと未だに身が震える。
煌く光の後ろに潜む暗い闇。その深淵に主を攫われなくてよかった、と心から思う。たとえ、主を引き止めたのが、伴侶である隣国の王だとしても──。
その放埓な隣国の王から主に鸞が届いたという話を聞き、宰輔は早速顔を蹙めていた。勝手気儘に現れる主の伴侶が改まって鸞を寄越すのは、主を自国へ呼ぶときのみだからだ。
宰輔に笑みを送りながら、浩瀚も内心はまたか、と思う。如何に主が公に認められた伴侶だとはいっても、先日帰国したばかりの景王をまたも呼びつけるとは。しかし。
主は何も言わない。鸞が来たことを匂わせることもない。が、小さく落とされた溜息が、主の気持ちを素直に語っていた。生真面目な主を見守りながら、浩瀚は苦笑する。
「如何なさいましたか?」
「──何でもないよ」
主は淡い笑みを見せる。浩瀚が気づいていることを知っていながら、慶の国主である女王は己の望みを語ることないのだ。浩瀚は笑みを浮かべ、突っこんだ問いかけをした。
「──鸞が届いていたようでしたが」
「うん……」
主は書簡の上で目を泳がせながら曖昧な返事をした。浩瀚は主の美しい横顔をじっと眺める。主は浩瀚を見ようとしなかった。
「主上、鸞を使う必要がある用事なのではないですか?」
更に問うと、主は俯いて黙りこくる。常の主ならば、断るのであれば、断ろうと思っている、とはっきり浩瀚に告げるであろう。それをしないことが、主の真の答えである、と浩瀚は既に察していた。
「主上」
浩瀚は主の答え次第では出さずにいようと思っていた書類を懐から取り出す。そして、遠慮がちに顔を上げた主にすっと差し出した。見慣れた紋章と手蹟に、主ははっと息を呑む。
「蓬莱では、婚姻を結ぶときに『新婚旅行』に出かけるそうですね。延台輔は、ほんとうに蓬莱通でいらっしゃる」
雁国宰輔延麒からの書簡は冢宰宛であった。蓬莱では結婚披露宴の後に新婚旅行に出かける風習がある、と詳細が書かれていた。
(先日の我が国訪問は雁国民へのお披露目に過ぎないので、別に新婚旅行を企画する。生真面目な景王におかれては、ご自分から要望を告げることはないだろうから、貴公に日程の調整と景麒の説得を依頼する)
堅苦しく書かれた正式な書簡の中に、浩瀚に宛てた摧けた私信も忍ばせてあった。浩瀚はそれを読んで吹き出すのを堪えた。
(陽子の乙女心に免じて、どうにか時間を作ってやってくれよな!)
その主と同様に気紛れな延麒六太は、何故か憎めないところがある。それは、陽気な性格や、生きてきた長い歳月を思わせない少年の姿のせいなのかもしれないが。
「延麒はおせっかいだな」
主は苦笑してそう言った。ようやく唇を緩めた主に、浩瀚は意地悪な問いかけをする。
「まことにそうお思いですか?」
「──浩瀚は意地が悪い」
主は唇を尖らせた。その様はあまりにも愛らしく、浩瀚の笑みを誘う。
「主上、我慢なさらずともよいのですよ。主上がこの国の王なのですから。でないと臣がどんどんつけあがりますよ」
「でも……」
景麒が何と言うか、と主は躊躇いがちに続ける。浩瀚は主に笑みを見せて答えた。
「きっと台輔もお分かりですよ」
「だといいんだけれど」
主は深い溜息をつく。麒麟は王の僕だというのに、主はいつも宰輔に理解を求める。臣にただ物事を命じることをしないのは、今も昔も変わらない。
「及ばずながら私もご助力いたします」
「ありがとう、浩瀚」
浩瀚が応えに、主は安堵の笑みを見せた。
2009.02.08.
空さまによる「14万打リクエスト」でございます。
大変長らくお待たせいたしました! 申し訳ございません。
連作「慶賀」の一編になります。
題名はそれらしい漢字を並べた造語でございます。
読み方は決めておりません。お好きにお読みくださいませ。
最近の例に漏れず、書けば書くほど長くなってしまいました。
まずは前半をお楽しみくださいませ。
2009.02.08. 速世未生 記