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空さま「14万打記念リクエスト」

同 想 (下)

* * *  2  * * *

 それから、主は更に書簡を捌く速度を上げた。国主の決裁が必要な書類の山がどんどん低くなる。御璽押印済の書簡を引き取りに来る下官たちも驚く速さであった。
 目標があると、それだけ仕事にも張りが出るものだ。主がどれだけ伴侶を恋うているか、仕事量に顕著に現れている。その分かりやすさは、浩瀚にとって微笑ましいものだった。
「精が出ますね、主上」
「このくらいやっておかないと、景麒の厭味に対抗できないからな」
 浩瀚が笑い含みに声をかけると、主は手を止めずにそう答えた。その声に幾分緊張感が漂うのは、これから宰輔に雁行きのことを打ち明けるからであろう。浩瀚は苦笑して言った。
「主上、台輔は鬼でも蛇でもなく、麒麟ですよ」
「分からないぞ。麒麟の皮を被った鬼かもしれないじゃないか」
 書面から目を離すことなく主は答える。その冗談が半分本気であると感じ、浩瀚は更に笑みを誘われた。笑い事じゃないと主が不満顔をしたときに、当の宰輔が現れたのだった。

「主上」
「忙しいところを呼びつけて悪いな、景麒」
 主は手を止めて鮮やかに笑む。宰輔は黙したまま軽く頭を下げた。ひと呼吸置いて、主は話し出す。
「実は、先日、雁から鸞が来て……」
「存じております」
 口籠る主に、宰輔は無表情でそう答えた。主は少し頬を紅潮させ、話を続けた。
「行ってきても、いいかな……?」
「主上は雁からお戻りになられたばかりではないですか」
「そ、そうなんだけど……ほら、仕事もかなり片付けたし、雁の秋は気候がいいそうだから……」
「──」
 宰輔は沈黙する。主はびくりと肩を震わせて口を閉じた。案件に関しては宰輔と言い争うことも辞さない主も、この問題に関してはいつもこうだ。浩瀚は微笑を禁じえない。
 黙秘する宰輔を持て余し、主は浩瀚に視線を移す。その訴えかけるような眼差しに、浩瀚はにっこりと笑みを返し、宰輔に話しかけた。
「台輔、蓬莱では婚姻の際、新婚旅行に出かけるものなのだそうですよ」
 宰輔は訝しげに浩瀚を見つめた。浩瀚はすかさず延麒からの書簡を手渡す。ざっと目を通した宰輔は、深々と溜息を落とした。
「延台輔は相変わらずですね」
「延台輔のご指摘どおり、慶から雁に行っただけでは、普段の視察となんら変わりありませんからね」
 浩瀚の進言に主はぱっと瞳を輝かせる。宰輔はもうひとつ溜息をつき、主に問うた。
「蓬莱での新婚旅行とは、どのようなものなのですか?」
「私がいた頃はね、結婚式の後にふたりで異国の南の島なんかに行くことが多かったみたいだよ」
 主はにっこりと笑って答える。宰輔は眉間に皺を寄せて続けた。
「かの方がそこまでお考えかどうかは、分かりかねますが」
「景麒……!」
「まあまあ、おふたりとも。かの方がお考えでなくとも、蓬莱に詳しい延台輔が助言されているのでは?」
 こうして書簡もまいりましたし、と続けると、宰輔は不承不承頷いた。主は期待を籠めた目で浩瀚を見つめている。主に笑みを返し、浩瀚は宰輔に軽く頭を下げた。

「今は、国を揺るがすような案件もございませんしね」
 そう、景王陽子が玉座に留まることを選んだのだから。

 言外にそんな思いを籠めて宰輔を見つめる。宰輔は僅かに目を見張り、おもむろに主に視線を移した。その目に過った複雑な色。
 浩瀚には宰輔の気持ちが分かるような気がした。無論、麒麟が半身たる王を想う心とは違うだろうが、浩瀚もまた、臣が王を敬う以上の想いで主を見守ってきたのだから。

 主を喪いかけたときのあの苦痛。主をこの世に取りとめたときのあの安堵。そして、主の伴侶に対する様々な所懐──。

 宰輔は今一度浩瀚に目を向ける。浩瀚は微笑を湛えて頷いた。宰輔は少しだけ唇を緩め、主に向き直った。

「──行ってらっしゃいませ」

「景麒、ありがとう!」
「但し、危険なことはなさらぬように。班渠から聞きましたよ」
 喜色に頬を染めた主に、宰輔は少し怖い顔をしてそう言った。途端に主は顔を曇らせる。浩瀚は主が帰国したときの班渠の笑いを思い出して微笑した。
「おや、それは聞き捨てならないですね」
「浩瀚まで……。大丈夫だよ、大したことじゃない。関弓にお忍びで降りたときにちょっと絡まれただけだ」
 もう襦裙なんか二度と着ないよ、と続けて主は頬を膨らませた。宰輔は顔を蹙めて諫言する。
「襦裙をお召しになっても水禺刀を離さなければよいのではないかと」
「襦裙で剣を振るう女がどこにいるんだ」
「主上ならおできになるでしょう」
「景麒!」
「ああ、雁で襦裙をお召しになれるのでしたら、慶ででも可能ですね。これからは襦裙をお召しくださいませ」
「襦裙なんて二度と着ないと言ったろう!」
 宰輔はここぞとばかりに主の嫌がることを連発した。主はそれに即座に応じ、いつもの舌戦が始まる。浩瀚は主従の微笑ましい言い争いを笑みを浮かべて見守った。

 共に元気だからこそ、こんなふうにじゃれあえるのだから──。

「浩瀚! お前も何とか言え!」
 拳を握り締めた主が白熱する論戦の途中で怒声を上げる。浩瀚は涼やかに笑って主を見つめた

「──慶は平和ですね」

 主はあんぐりと口を開け、宰輔は開きかけた口を閉じた。浩瀚は王と宰輔に恭しく拱手する。
「これも、主上と台輔のお蔭でございます」
「──浩瀚には敵わないなぁ」
 主は脱力したように笑みを浮かべ、力なくそう言った。浩瀚は黙して主に笑みを返す。

 あなたはこの世に留まってくださった。それが私にとってどんなに幸せなことか、あなたはお分かりにならないでしょう。

 生きていてくれればいい。この想いは届かなくても、それだけでいい。浩瀚は浮かべた笑みに全てを託した。宰輔は僅かに唇を緩め、浩瀚を見つめる。

 全ては主上のために。

 浩瀚は胸でそう呟いて宰輔に目礼する。同じ想いを知る宰輔は、微笑して小さく頷いた。


2009.02.10.
 空さまによる「14万打リクエスト」でございます。 大変長らくお待たせいたしました! 申し訳ございません。
 お題は 「まだ末世には至らない時分で、陽子さんと尚隆さんが楽しく過ごせるような演出をする浩瀚」 でございました。
 心ときめくお題でございました!  すぐに「新婚旅行に赴く前の陽子」を思い浮かべたのですが……いろんな話が繋がりまくって 収拾がつかなくなってしまい、こんなに時間がかかってしまったのでした。 いつも主上のために頑張る浩瀚……お気に召していただけたら嬉しく思います。
 懸案の「新婚旅行」と中編「昏闇」の浩瀚視点もそのうち出せたらいいなと思います。 いつもの如く気長にお待ちくださいませ。

2009.02.10.  速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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