滄 海 (1)
* * * 序 * * *
また今年もこの季節が巡りくる。あれから、何百年も時が経ち、国は隆盛を極めている。それでも、あの苦い想いが、全て消えてなくなることはない。
ずっと己の胸ひとつにしまってあった物想い。限りある生を謳歌する市井の花娘に話して、あっけらかんと笑い飛ばされたことがある。あのときは、それだけで随分楽になったものだった。しかし。
今なお胸に燻るこの想い。不意に話してしまいたくなった。己の伴侶と定めし唯一の女に。この果てのない生を共に生きると誓った隣国の女王に。
陽子。
聞けばお前は泣くだろうか。俺のために、泣いてくれるだろうか──。
輝かしい翠玉の瞳が潤んでいく様を思い浮かべ、延王尚隆は静かに微笑した。
* * * 1 * * *
延王尚隆が隣国の女王に鸞を送ったのは、ある日起こした気紛れが始まりだった。それこそ、延麒六太の諫言を容れただけのこと。
「蓬莱では、婚姻するときに二人で旅行に出るもんなんだぞ」
ある日六太はそう苦言を呈した。慶から雁に伴侶を連れてきただけでは、まるで視察だ、と六太は顔を蹙めて言い張る。そうか、と尚隆はのんびり応えを返した。
「──陽子は嬉しそうだったがな」
「お前は乙女心が分かってない」
六太はまたもや怒声を上げた。陽子は、積年の想いを成就させた喜びで胸がいっぱいで、そんなことを考える余裕はない。だからこそ尚隆がお膳立てをするべきだ、と六太は言い立てる。己のことのように憤る六太に、尚隆は思わず失笑した。
「──まるで、お前の伴侶のようだな」
「そういう心配をしてやれるのは、おれだけなんだって、いつも言ってるだろーが!」
轟く怒号を浴びせられ、尚隆は思わず耳を塞ぐ。確かに、我が伴侶はそんな我儘を言う女ではない。それが可愛らしくもあり、物足りなくもあるのだが。
「──少し、時間を置く」
尚隆はそう答え、微笑する。そして、怪訝な顔をする六太に説明を加えた。
慶賀の儀で、伴侶はゆっくりと休暇を取った。恐らく即位後初めてと思われる長い休暇だったから、今頃は溜まった仕事に忙殺されていることだろう。生真面目な女王は、きっと文句も言わずに書卓に積み上げられた大量の仕事をこなしているに違いない。
「確かにそうだろうがな。でもな、ちゃんと連れて行ってやれよ、気候がいいうちに」
そう捨て科白を吐いて六太は出ていった。その小さな背を見送って、尚隆は軽く笑った。
まるでお前の伴侶のようだ、と揶揄はしたが、六太は己の肉親でもあるかのように陽子の世話を焼く。そして、陽子もまた、六太にはぽつりぽつりと乙女らしい本音を話すのかもしれない。
共に胎果の己の半身と伴侶は、まるで血を分けた兄弟の如く仲がよい。それは、身寄りのない者同士が寄り添うているふうにも見えた。そう、かつて貧しさのために捨てられた末子の六太。一人娘で兄弟を知らぬ陽子。無論、あちらでのことなど、二人とも意識していないに違いない。
そんなことを思い、尚隆はまた苦笑する。血縁など存在しないこちらの世界で、今なお血の繋がりを懐かしく思うとは。尚隆は少し切ない気持ちになり、小さく息をついた。
それから日が経った。溜めに溜めていた政務が片付くと、所在無さばかりを感じる。そして、短い夏ももう終わろうとしていた。
秋が近づくと、物想いが増える。もう、国が揺らがなくなった今でさえ。いや、余裕のある今だからこそ、過去を振り返りたくなるのだろう。政務をこなしながら尚隆は考える。そして、秋と切り離せない出来事を、また心に思い浮かべたのだった。
今年は久しぶりに墓参しようか。
ふと、そう思った。あの場所に二人で出向き、心の赴くままに昔話でもしてみようか。いつも何も訊かずに尚隆を包んでくれる伴侶は、きっと飽かず耳を傾けてくれるだろう。そうしよう、と尚隆は微笑した。
行き先を告げたなら、おう、話してやれ、と六太は笑うのだろう。それとも、まだ話していなかったのか、と呆れるのだろうか。
それから、今でも尚隆に馴染まない伴侶の半身を思い浮かべ、尚隆は苦笑する。いつもの如く、仏頂面を更に蹙め、景麒は難色を示すのだろう。
それでも、景麒は陽子の恋を認めた。慶賀の折の柔らかな笑みは、安堵に満ちていた。主の昏闇を垣間見た景麒だからこそ、主の幸福を第一に考え、明らかな反対はしないだろう。
冬厳しく夏涼しい雁も、秋は存外に暖かい。雨期に入る前の、気候のよい秋のうちに、伴侶とともに出かけよう。そして、かつて、秋に起きた出来事を話して聞かせよう。
尚隆は鸞を用意させた。さて、今回は伴侶をどうやって誘おうか。少し考えた後、尚隆は思ったことを思ったとおりに口にしたのだった。
「少し付き合わないか、見せたいものがある」
少し時間はかかったが、鸞は隣国から無事に戻ってきた。そして、その鸞を尚隆の許に届けたのは、何故か延麒六太であった。
「我が国の宰輔はとことん暇のようだな」
「御託はいいから、早く聞かせろ」
尚隆のぼやきを聞き流し、六太は急かす。尚隆は苦笑しながらも鸞に銀の粒を与えた。鸞は伴侶の弾んだ声で語り出した。
「休みをもらえることになりました。ありがとう」
ありがとう、の一言に、蓬莱生まれの伴侶の期待が滲んでいて、尚隆は唇を緩めた。六太の言うとおり、伴侶は乙女らしく新婚旅行を夢見ていたのだ。
「おれの言うとおりだっただろう」
得意げにそう言う六太に笑みだけを返す。そして尚隆は、伴侶が示した日程を了承する返信を再び送ったのだった。
それから日が満ちて、麗しき隣国の女王が玄英宮の禁門前に降り立つ。国主の伴侶の到着を、雁の官吏たちは恭しく迎えた。
「お招きありがとうございます」
「よく来たな」
頭を下げる景王陽子を延麒六太が満面の笑みで迎える。国主である尚隆よりも、六太が先に出張るのもいつものことだった。
「ありがとう、延麒」
「おう」
声を潜めた会話が聞こえる。が、尚隆はそれを聞き流した。肉親のように陽子を心配する六太が、また暗躍したのだろう。景麒の渋面が見えるような気がして、尚隆は笑いを噛み殺した。
旅には置いていかれる六太の顔を立てて、晩餐の時間を充分に設けた。楽しげに語らう己の半身と伴侶を、尚隆は鷹揚に見守った。
夕食後、後宮の自室で休む伴侶を訪った。自ら茶を淹れて振舞う伴侶は寛いだ笑みを見せる。茶杯を受け取りながら、尚隆は軽く問うた。
「景麒の説得は大変だったか?」
「大変だったよ」
伴侶は大仰に顔を蹙めて答える。正直な応えに、尚隆は破顔した。それはそれは、と返すと、けれど頑張ったから、と伴侶は眩しい笑顔を見せる。尚隆は口許を歪めて訊ねてみた。
「六太が協力したのか?」
「──よく分かったね」
伴侶は翠の瞳を見開く。そして、六太が冢宰浩瀚に宛てて送った書簡のことを楽しげに語り出した。余計なことを、と顔を蹙めつつも尚隆は唇を緩める。そして、茶を飲み干し、おもむろに伴侶の細い身体を引き寄せた。
2009.09.01.
4周年記念長編「滄海」連載第1回をお届けいたしました。
昨年の秋に出そうと思いつつ、「真意」が終わらなかったためにお蔵になっていたもので
ございます。
どれだけの長さになるか皆目見当がつきません。
かなり長いお付き合いになるかと思います。
何卒よろしくお願い申し上げます。
2009.09.01. 速世未生 記