滄 海 (2)
* * * 2 * * *
華奢な身体を抱き寄せて、翠の宝玉を覗きこむ。昏い闇を隠しつつも澄んだ瞳は、慈愛の笑みを浮かべて尚隆を見つめ返す。いつもながら、その美しさに感嘆する。そして──。
この麗しくも温かな伴侶の癒しなき永い時を、己はどう生きていたのか。
尚隆はしみじみとそんな感慨に耽った。
「──そんなに見つめられたら、穴が開きそう」
苦笑交じりの声がして、我に返る。そういえば、この翠玉に見入るのは、久方振りだった。
何もかもを吸い尽くす威力を持つ輝かしき瞳。その深淵に陥らぬように、或いは、映し出される己の暗闇に呑まれぬように。尚隆はいつも、故意にその瞼を閉じさせてきたのだから。
「目を瞑ればよかろう」
尚隆はにやりと笑い、即座に返す。そして、伴侶の答えを待たずにその朱唇に口づけた。甘やかに応える愛おしい女をきつく抱きしめ、尚隆は至福の夜を過ごしたのだった。
翌朝は、国主とその伴侶の旅立ちを祝福するかのような、爽やかな秋晴れであった。
旅支度を整えた尚隆は、伴侶を促し禁門へと向かう。青く高い空の下、延麒六太を筆頭に数多の官が見送りに立った。尚隆は片手を挙げて騎獣に跨る。伴侶もまた、いつものように班渠に騎乗した。
景王陽子は女王の威厳を保ち、ずっと何も問わずにいた。が、出発の間際になってから、とうとう小声で尚隆に訊ねた。
「どこへ行くの?」
「見せたいものがある、と言ったろう」
人の悪い笑みを浮かべ、それだけを告げる。そして尚隆は西に向けて飛び立った。伴侶は小さく息をつく。が、それ以上問うことなく後をついてきた。
街を抜け、山を避けると黄金色に光る野が現れた。豊かな雁に更なる富を齎す地の恵み。それは、雨期を目前に、刈り取られるのを待つ小麦の海であった。
伴侶の息を呑む音が聞こえる。毎年眺める尚隆でさえ惹きつけられる、一面に広がる黄金の波紋だ。初めて見る伴侶が驚くのも無理はない。尚隆は笑みを浮かべて振り向いた。
「珍しいか?」
「うん……麦は、燃えるような金色に輝くんだね」
温暖な慶では麦よりも稲を植える。秋に穂を垂れる水稲は優美だ。それに比べ、小麦は収穫間近になっても穂が垂れることはない。頭を擡げた麦が風に靡く様は勇壮で、それこそ黄金色の海のようだ。
綺麗、と呟く伴侶は、うっとりと溜息をついた。素直な伴侶に笑みを向ける。そう、雁の秋には必ず見られる美しき金の海原。しかし。
この景色が国中に満ちるまで、幾年を費やしただろう。尚隆が初めて雁に降り立ったとき、この地は一面の荒土だったのだ──。
ひび割れた大地。いつ壊れたか知れぬ瓦礫の山。そして、燻し銀のような色をした葉のない木の根元に座りこんだまま、身動ぎひとつしない人々。木の上を旋回していた妖しげな形をした鳥でさえ、地に落ちて死んでいった。
今なお、瞼の裏に浮かぶ、凄まじいまでの荒廃。雁は一度滅んだ、とまで言われていた。無から一国を興すようなもの、と肚を括ったあの頃。尚隆は笑みを湛え、おもむろに伴侶に問うた。
「この地が焦土だった頃を、想像できるか?」
「──できないよ」
伴侶は軽く首を横に振る。確かにそうだろう。景王陽子が登極した当時、雁は既に五百年を越える王朝だったのだ。が、そう言いつつも、伴侶は王の顔をして尚隆を見返した。
「でも、あなたは忘れないよね。たとえ何百年経ったとしても」
尚隆は破顔して頷いた。我が伴侶もまた、王、と呼ばれし者。景王陽子は、景麒奪還の際、初めて見た慶の惨状に、驚きを隠さなかった。その眼に焼きつけた自国の荒廃を、忘れることはないだろう。そして、延王尚隆の秘められた物想いを慮ることも。
「──あの頃、雁は、折山の荒、亡国の壊、と呼ばれていた」
尚隆はそう呟いて黄金の海を見下ろす。荒廃の面影などどこにもない、豊かな実りの地を。伴侶は己も黙して眼下に広がる広大な麦畑を見つめていた。それから、二人は目的地まで無言の飛行を続けた。
打ち捨てられた禁苑に小さな冢墓を築いたのは、何百年も前のことだった。秋になる度、独りそこを訪れた。荒涼とした山は、雨期の度に崩壊を進めていった。傷み激しく、登ることが難しくなった凌雲山に手をかけたのは、雁がかなり豊かになってからだった。
何も知らぬ人足たちは、実直に仕事をこなした。何年もかけ、埋まっていた入口を掘り出し、壊れた隧道を直し、崩れた堂宇を建て替えた。荒れ果てた園林を整え、松の林に埋もれていた四阿を美しく設えた。そして、言いつけどおり、松の根本に見える塚には手を触れなかった。
禁苑というにはささやかな、小さな廟ひとつきりのその場所。尚隆は、秋になると、思い出したように訪れて、塚の前にて独り酒を飲んだ。ここを古くから知っている延麒六太でさえ遠ざけていた。誰かを連れてくることなど、思いも寄らないことだった。しかし。
伴侶を伴っての旅の目的地は、元州天領碧霄禁苑霄山。延王尚隆以外は訪れることのない、密やかな離宮であった。
尚隆は簡素な門の前に降り立つ。後に続いた伴侶は、物珍しそうに辺りを見回した。尚隆は笑みを湛え、無人の門扉を開く。伴侶は何も訊ねずに尚隆の後をついてきた。
小じんまりとした建物に足を踏み入れ、旅装を解く。事前に手を入れさせてあった宮は、綺麗に整えられていた。
正堂には、国主の伴侶の目を楽しませる花が活けてあった。いつもは殺風景な堂室には、その他にも細々とした気配りが見られる。それに気づいた伴侶は、柔らかな笑みを見せたのだった。
「──お茶を淹れようか?」
大卓の上に用意してあった茶器を見て、伴侶が声をかけてきた。尚隆はゆっくりと首を横に振る。ここを訪れたときには、まずすることがあるのだ。
尚隆は何も言わずに園林に出ていく。慣れた手つきで水を汲み、大きな松の根本にある小さな塚に近づいた。柄杓で水を撒き、酒杯に酒を注いで供える。そして、塚の前に跪き、手を合わせた。
目を丸くしていた伴侶も、やがて笑みを見せた。旅の目的が墓参だと気づいたのだろう。ゆっくりと塚に歩み寄り、尚隆と同じように手を合わせた。
気が済むまで黙祷し、尚隆は立ち上がる。大きく伸びをして、四阿へと足を向けた。四阿の入口の石段に腰を下ろす。そして、黙して見つめている伴侶を差し招いた。
小さく頷いて、伴侶は尚隆に歩み寄る。そして、同様に石段に腰を下ろし、そっと尚隆に寄り添った。
4周年記念長編「滄海」連載第2回をお届けいたしました。
なんだか、淡々と進んでいきますね。
尚隆がどんなことを語ってくれるのか、私も楽しみにしながら書き綴りたいと思います。
今回は小麦の金の海を思い浮かべながらの執筆でございました。
皆さまにもお楽しみいただけると嬉しいです。
2009.09.11. 速世未生 記