駆 引 (上)
* * * 1 * * *
「陽子!」
ある晴れた日、祥瓊が弾んだ声を上げて陽子の私室に駆け込んできた。後ろには、やはり今日の太陽のように瞳を輝かせた鈴がいた。
──快晴の青空にそぐわない、不穏な気配。
何やら嫌な予感がする。
眉根を寄せて、陽子は側近の次の言葉を待った。
「見てよ、これ!」
見覚えのある紋章が穿たれた、瀟洒な箱。隣国雁から届けられたばかりらしい大きな箱を、祥瓊は瞳を煌かせ、陽子にずいと差し出す。
いつもならば、陽子こそが目を輝かせ、嬉しい気持ちで開けるはずの、伴侶からの贈り物。しかし、今日はなんだか不気味な感じがしてならない。
陽子は胡乱そうに箱を見つめ、触れることもしなかった。そんな陽子に焦れた祥瓊が、さっと箱を開ける。その途端、陽子は思わず呻いた。
「──げっ」
嫌な予感というものは、どうしてこうも当たってしまうのだろう。箱の中身を見るなり、陽子は脱兎の如く逃げ出したのだった。
血相を変えて追いかけてくる祥瓊と鈴をいつものように振り切って、陽子は溜息をつく。
これから、どうしよう?
陽子は女官を避けながら王宮の中を当てもなく彷徨った。
「──陽子」
遠くで祥瓊の呼び声がする。宮城はざわめき、早速女王捜索隊が編成されたことを感じさせた。
ああ、早過ぎる。
柱の影に隠れ、景王陽子は肩を竦める。
「──主上、どうなさるおつもりです?」
「班渠、それ以上訊くな」
足許から聞こえた声に、陽子は不機嫌な応えを返す。大きな溜息をついて班渠は黙した。
──まったく、冗談じゃない。
陽子は小さく悪態をつく。今更、襦裙を着ろ、だなんて。そんなとき、また遠くで祥瓊の声がした。
「陽子、延王がいらっしゃったわよ」
──まったく、間が悪い。
陽子は再び悪態をつく。陽子が逃げ出す原因となったのは、その延王尚隆からの贈り物の襦裙だというのに。
いったいなんでそんな話になったのだろう。陽子は痛む蟀谷を押さえながら考える。思い当たることはあった。
発端は、恐らく氾王から届けられた模様の浮き出る羅衫だろう。あまりの見事さに、つい羽織ってしまったのが失敗の元。あっという間に鈴と祥瓊に着付けされてしまった。
そのときたまたま慶を訪れていた伴侶は、天敵氾王の名を聞き、不機嫌になった。それでも、苦手な襦裙を着せられた陽子に同情して、女史と女御に文句を言ってやる、と約束してくれた。そのはずなのに。
今日、雁から届いた荷物。愛する伴侶からの贈り物が、よりによって襦裙だなんて。もしかして。
尚隆は、祥瓊や鈴と共謀して、陽子に襦裙を着せようと目論んだのだろうか。悪戯好きの伴侶なら、そんなこともやりかねない。
そう思うと怒りが沸々と湧いてくる。久しぶりの伴侶の訪れを、素直に喜べない陽子であった。
* * * 2 * * *
あのときの鮮麗な伴侶の姿が忘れられない。
模様の浮き出る洒落た羅衫を纏い、緋色の髪を結い上げ、羞恥に頬を染めた伴侶は実に美しかった。紅の女王が華やかに着飾ったのを見たのは、久しぶりだった。
無論、麗しき女王は、素っ気ない男物の官服を着ていてさえ、凛とした美しさを見せる。しかし、あの日の装いは、匂やかな夏の花のような香気を放ち、尚隆を魅了した。しかし。
伴侶の口から贈り主の名を聞いて、素直に褒める気が失せた。我ながら子供っぽいとは思うが、天敵とも言うべきあの男からの贈り物なぞ、伴侶に纏ってほしくはなかった。
着たくて着たわけではない、鈴と祥瓊が、と景王陽子は溜息をつく。尚隆は伴侶の代わりに二人に文句を言ってやると約束した。が、その文句の内容を伴侶に告げるのは止めておいた。もっとよいものを贈るから必ず着せろ、など、聞いたら伴侶はきっと怒るだろうから。
どうせ襦裙を着るならば、他人ではなく、伴侶たる俺の贈り物を着ろ。
さすがにそんな本音を口に出すことはできない。もしかして、女王の側近たちは、故意にあの羅衫を着せたのだろうか。主の伴侶が不機嫌になることを見越して。尚隆はそんなことを勘繰ってしまった。
そして延王尚隆は、女史と女御の目論見どおり、男装を好む女王に襦裙を贈ることとなった。祥瓊と鈴は満面の笑みをもって尚隆の命に頷いたのだった。
元公主である祥瓊の助言に従い、尚隆は麗しき女王を飾るに相応しい襦裙を選んだ。しかし、伴侶が望まぬ贈り物を手に持って訪問することは憚られた。故に、別便にて襦裙を送り、尚隆はいつものようにふらりと金波宮を訪った。
ある晴れたその日、宮の主は不在だった。王宮内は何やら緊迫した空気に包まれ、禁門を守る門卒も緊張した面持ちで延王尚隆を迎え入れた。
尚隆は首を傾げながらも例の如く勝手に内殿に進んでいった。途中出会う下官は隣国の王に気づくと恭しく拱手する。しかし、尚隆が通り過ぎるや否や、足早に姿を消していく。どうやら、姿を消した主を捜している模様だった。
いったい何が起きたのか。何故、女王は姿を見せないのか。
その疑問の答えは、血相を変えた女史によってすぐに齎された。
「──陽子はどうしたのだ?」
「宮城のどこかにはいるはずなのですが……」
迎えに出た祥瓊は、腹立ちと申し訳なさが入り混じった応えを返す。どこかにはいるはず、というその答えに、尚隆はくつくつと笑う。
「どこかに、か」
「丁度、延王にいただいた襦裙を見せて、合わせようとしていたところだったのでございます」
女史は悔しげにそう言った。その答えに、尚隆は呵呵大笑する。やはり襦裙が伴侶を怒らせたか、と。祥瓊は恐縮したように頭を下げる。そして、大僕と左将軍を中心に女王捜索隊が結成されたと控えめに告げた。広い宮城内のどこに隠れているやら、と溜息をつく祥瓊に、尚隆は笑みを返して軽く言った。
「──それでは俺もかくれんぼに参加しよう」
「よろしいのですか?」
「俺にも責任があるだろうからな」
「それではお願いいたします!」
女史はぱっと顔を輝かせ、元気よく拱手する。そんな祥瓊に、女王を見失った場所と時間を訊ね、延王尚隆は景王陽子の捜索に乗り出したのだった。
2007.12.03.
短編「駆引」(上)をお届けいたしました。
以前「失踪中〜捜索中〜潜伏中〜交渉中」というタイトルで拍手連載したものを纏めてみました。
実は「一驚」より先に出すつもりでおりました。
けれど、一話で出すか分けて出すか、判断がつきかね、放置……。
結局、纏めると恐らく18〜19KBで重くなってしまうだろうと思い、分けて出すことに
いたしました。
どうやら、原稿用紙1枚分が約1KBらしいので、中途半端な長さの短編は困ってしまうのです。
無論、会話や地の文の長さで変わってまいりますが。
──なんて、こちらの事情、ですね。
後編もあまりお待たせしないで出せると思いますが、いつもの如く、気長にお待ちくださいませ。
2007.12.10. 速世未生 記