駆 引 (下)
* * * 3 * * *
遠く近くで聞こえる呼び声。宮城がざわめく気配。気儘な賓客を迎えたせいか、騒ぎが大きくなったような気がする。嘆息しつつ、景王陽子はそっと金波宮内を移動する。
慶では、陽子が姿を晦ましたとき、その行方を知ることができる景麒には頼らないという鉄則ができていた。陽子と景麒がそれぞれ怒り、主従険悪の源ともなるからだ。
今日はどこで過ごそうか。臣が知らない場所はどこだったろうか。陽子は己を呼ぶ数多の声を無視しながら考える。
しばらく行っていない場所を思い出し、陽子は薄く笑った。それから、見つからないように気を配りながら、そっと移動したのだった。
岸壁に穿たれた短い隧道を潜り、雲海を見渡せる小さな岬に無事辿りついた。忘れられた場所を見渡して、陽子はほっと息をつく。そのまま草原に寝転び、雲海を眺めた。
波の音と潮の匂い、見下ろす雲海と見上げる青い空が、ささくれた心を癒す。そして、独りになりきれない、女王の立場をも忘れさせてくれる。陽子は目を閉じて、潮騒に聞き入った。
心地よい眠気に身を任せ、しばし意識を手放す。そして、目覚めた後も誰の気配も感じない空間に気をよくし、陽子はひとりごちた。
「──ちょっと、疲れてたかな」
「そのようだな」
独り言に応えを返されて、飛び起きる。振り向くと、優しく笑んだ伴侶が隧道を潜り終えたところだった。
「──尚隆。どうして?」
「お前は昔から雲海が好きだったろう」
笑い含みにそう言って、伴侶は陽子の隣に腰を下ろした。そのまま何も言わずに雲海を眺める。陽子は膝を抱え、そんな伴侶の横顔を盗み見た。
「──何も訊かないんだね」
「訊いてほしいか?」
穏やかな沈黙に引かれて声をかけると、人の悪い笑みが返ってきた。相変わらずだね、と笑って陽子は首を振る。海を眺める伴侶は、ぽつりと呟いた。
「──無理しなくていいぞ」
「襦裙のこと? ほんとにいいの?」
「──残念だがな」
その答えがほんとうに残念そうで、陽子は小さく笑った。氾王からの贈り物を、陽子が纏って現れたときの不機嫌な顔が蘇る。あれほど機嫌の悪い伴侶を見たのは久しぶりだった。それを思えば、その申し出は、いつも強引なこのひとには珍しい譲歩であった。
「そんなに残念?」
「ああ、残念だ。きっとお前に似合うと思っていたから」
「そう……」
陽子は伴侶に頭を預けて目を閉じた。潮騒と潮の匂いと伴侶の温もり。好きなものに囲まれて、陽子の心は和らいでいた。
「そんなに言うなら……一度だけ着てあげる」
「──いいのか?」
伴侶は少し驚いた声で聞き返す。陽子は軽く頷いて念を押した。
「一度だけだよ」
「──分かった」
そう答えた伴侶の声があまりにも嬉しそうで、陽子は目を開ける。それを待っていたかのように、人の悪い笑みを見せた伴侶が、陽子の唇を甘く塞いだ。
* * * 4 * * *
宮の主はいったいどこに隠れたのか。
出奔を得意とする女王の足取りを掴んだ者はまだいない。景王陽子を捜す臣下たちは、みな一様に溜息をついていた。
尚隆は間諜のように庭院を歩く。祥瓊は、正寝の私室の近くで主を見失ってしまったのは少し前だ、と言っていた。ならば、まだ遠くへは行っていないだろう。人の気配には聡いが己の気には疎い陽子だ。気配を殺していれば自ずと見つけられるはず。尚隆はそう睨んだ。
やがて、微かな音がした。柱から柱を伝っていく華奢な影。尚隆は唇に笑みを浮かべる。そして、距離を保ちながらそっと跡をつけた。
己を捜す臣から身を隠しながら、女王は着実に歩を進める。そして、雲海に面した、人に忘れられたような荒れた宮の園林から、岸壁に穿たれた短い隧道を潜っていった。
こんな場所に身を潜められては、それこそ景麒にしか分からないだろう。尚隆は女王の身の隠し方に感心した。それから気づかれぬように隧道を潜ってみた。
そこは奇岩の合間に拓けた谷間のような場所であった。雲海と小さな路亭以外には何もない。女王は草原に寝転び、目を閉じていた。その顔は、柔らかく、心安らいでいるように見える。しかし。
眠っているように見えても、尚隆が気配を曝せばきっと飛び起きるのだろう。声をかけるのは、忙しい女王が十分休息を取ってからにしよう。そう思い、尚隆はそのまま伴侶を見守った。やがて。
「──ちょっと、疲れてたかな」
目を開けた女王はそう言って小さく息をついた。尚隆は微笑し、そのようだな、と答えてゆっくりと歩み寄った。予想通り、女王は跳ね起きた。
どうして、と訊ねる女王は心底驚いた顔をしている。尤もらしい応えを返し、尚隆は伴侶の隣に腰を下ろす。そして、雲海に見入った。
伴侶は胡乱そうに尚隆を見つめ、それでも何も言わない。こんな駆け引きも悪くない。そう思い、尚隆は焦れた伴侶が口を開くまで、ゆったりと待ち続けた。
「──何も訊かないんだね」
嘆息する伴侶に、訊いてほしいか、と逆に訊ねた。相変わらずだね、と伴侶は苦笑し、首を横に振る。怒っているようではなかった。が、尚隆は敢えて海を眺めながら言った。
「──無理しなくていいぞ」
伴侶は驚いたようだった。大きく目を見開いて、即座に訊き返す。
「襦裙のこと? ほんとにいいの?」
「──残念だがな」
美しく装った伴侶を想像すると、図らずも本音が漏れる。聞いて伴侶はくすりと笑った。
「そんなに残念?」
「ああ、残念だ。きっとお前に似合うと思っていたから」
おどけつつも尚隆は本音を返した。そう、と呟き、目を閉じた伴侶は尚隆に身を寄せる。そのまま会話は途切れた。
その沈黙は心地よいものだった。聞こえるものは、波の音と時折飛んでくる小鳥の声のみ。嗅ぎ慣れた潮の匂いと伴侶の甘い香り。そして、左に感じる愛おしい温もり。華奢な肩に、腕を伸ばそうか、止めようか。思案していると、伴侶がそっと囁いた。
「そんなに言うなら……一度だけ着てあげる」
その応えに驚いた尚隆は、咄嗟に、いいのか、と返した。こんなに簡単に折れてくれるとは思っていなかった。見下ろすと、少し頬を染めた伴侶は、目を閉じたまま匂やかに笑んでいた。しかし、口に出した言葉は。
「一度だけだよ」
念を押すような一言。分かった、と返して麗しい顔をじっと見つめた。尚隆のために華やかに装った美しい姿が、目の前の伴侶に重なった。女に衣を贈る男の気持ちを、男女の機微に疎い伴侶が気づいているとは思えない。
着飾った姿を目で堪能したその後は──。
範の奴がそこまで考えたかどうかは分からないが。尚隆はにやりと笑う。そして、伴侶がその輝かしい瞳を開けるまで待った。
ゆっくりと見上げる翠玉の宝珠を捉えた。襦裙を纏った姿も、纏わぬ姿もともに美しい、と告げたなら、今度こそ口を利いてくれないだろう。尚隆は伴侶の乙女心を尊重し、余計なことは言わなかった。そして、笑みを浮かべる朱唇に甘く口づけた。
2007.12.13.
短編「駆引」(下)をお届けいたしました。
拍手の時には省いた尚隆視点を書くと楽しくて、どんどん伸びてゆく(苦笑)。
オヤジな私をお許しくださいませ!
そして結局原稿用紙17枚にもなってしまっている……。
あんまり中身がなくてごめんなさいね〜。
この勢いで「黄昏」第43回も仕上げてしまいところです。
が、気長にお待ちくださいませ。
2007.12.13. 速世未生 記