燠 火 (1)
* * * 1 * * *
季節は秋。玄英宮の庭院にも燃えるような美しい紅葉が見られるようになった。目もあやな錦の衣を纏う木々を、延王尚隆は笑みを浮かべて見やる。鮮やかな紅の葉は、愛しい伴侶を連想させるものだった。
陽子は息災にしているだろうか。
雁州国国主延王尚隆の伴侶は、隣国である慶東国の国主景王陽子。その緋色の髪から、紅の女王とも呼ばれる麗しき伴侶に、尚隆は想いを馳せた。
初めて会ったときから、鮮烈な娘だった。そして、ひと目で王と分かる覇気を身に纏っていた。そんな景王陽子が登極する前の慶東国は、波乱の国と呼ばれていた。短命な女王が続き、荒れ果てた貧しい国であった。その国を、若き女王はひたむきな思いと生真面目な行いで立て直していった。
悩みながらも己の信じる道を突き進む景王陽子のその様を、尚隆は隣国の王として、また、伴侶として見守ってきた。そして、なかなか国を離れられぬ女王のために、隣国を訪っていた。しかし。
先日尚隆は、いきなり執務室に現れた陽子に拉致されて、紅葉狩りを楽しんだ。玄英宮に向かう途中、通りがかりの山が色付いているのを見つけ、観楓を思いついたのだ、と伴侶は得意げに語った。
(ね、綺麗でしょ。あなたに見せたかったんだ)
これは見事だ、と感嘆する尚隆にそう言って、伴侶は匂やかに笑った。美しい紅葉の中で微笑む伴侶は、その紅葉よりも鮮麗で、尚隆は眩しく見つめたのだった。
尚隆はいつも気紛れに生真面目な伴侶を金波宮から連れ出していた。見聞にと言っては堯天へ、桜が咲いたと言っては花見へ。その度に困ったように小首を傾げる伴侶は愛らしい。そして、新たな刺激を受けて見開かれる瞳。
(──ありがとう、尚隆)
翠の宝玉は、感謝の言葉とともに尚隆を見上げる。それは、尚隆にも温かなものを齎すのだ。
今回、己がしていることを伴侶にされて、驚かされたが、嬉しくもあった。いつも受身な伴侶の、思わぬ行動力。しかも、その突然のお忍びを、側付きの使令が止めなかった。慶は、それだけ落ち着いたのだ。そう思い、尚隆は口許を緩める。
伏礼を廃す、という初勅を出した胎果の女王は、その後も改革を断行していた。半獣差別を廃し、自ら街に下りて内乱を鎮め、頼ってきた隣国の将軍をも己が民の如く受け入れた。そんな女王を否定する者も、王宮内に存在していたのだ。
思い起こすと未だに苦いものが蘇る、あの景王弑逆未遂。金波宮にて起きた事件は、延王尚隆に景麒しか知らぬ秘密の恋に終止符を打つ決心をさせた。そして尚隆は、自ら側近に打ち明けるよう伴侶を誘導した。女王の側近たちは、主の恋を驚きながらも受け入れた。
前国主が宰輔に恋着して失道したため、慶の国は女王の恋を疎む。己の恋を守るためにも、景王陽子は前にも増して政務に勤しんだ。こっそり金波宮を抜け出すことも自重するほどに。それだけに。
伴侶の予告なき訪れは、望外な喜びだった。女王が多少国を離れても、慶に政変は起こらなくなったのだ。それを知ることができて、尚隆は嬉しく思った。
もうそろそろ、陽子を雁に連れてきても大丈夫かもしれない。
昔交わした約束を実行してもよいだろう。そう思うと心が弾んだ。いつか雁の雪景色を一緒に見る、というあの約束を、伴侶は憶えているだろうか。
拓峰での内乱が治まった後、伴侶とともにちらつく雪を眺めた。雪って辛いものなの、と訊ねた伴侶を、忘れられない。豊かな蓬莱にて育った娘は、雪が辛い生活などしたことがないのだろう。
きちんと対策さえ立てれば辛いものなど何もない、と答えた尚隆に、伴侶は微かな笑みを見せた。雪が降ると嬉しかったのだ、と。しかし。
(──今の慶では、雪を楽しむことはできないね)
伴侶は女王の顔で溜息をついた。その、切なげな貌。何も言えずに見つめ返すと、それでも伴侶は鮮やかに笑んだ。
(だから、桂桂が、雪は降ったほうがいいって言ってくれて、私は嬉しかったんだ)
厳しい現実の中にも、光を見出す女王──。
尚隆は感嘆を隠せなかった。若くひたむきな伴侶に、明るい希望を贈りたい。心からそう思い、口にした約束。
(いつか、慶が落ち着いたら、ゆっくり雪を楽しむといい。俺が案内してやるから)
(──いつかって、いつだろう……)
再び溜息をつく伴侶を抱きしめ、焦るなと宥めた。いつまでも待っている、と告げる尚隆に、伴侶は目を見張った。それから、花ほころぶような笑みを浮かべた。
(うん、いつか、必ず、雪景色を見にいくよ)
誓いを籠めて伴侶の朱唇に口づけた。そして、雪が降る毎にその約束を思い出した。慶を訪れる度に復興を感じ、その時を待ち続けた。
あの約束を、伴侶は憶えているだろうか──。
憶えていなくてもよい。思い出させることも、きっと楽しいに違いない。尚隆はそう思い、また笑みを浮かべた。
* * * 2 * * *
紅葉が散り始めた頃に、延王尚隆は玄英宮を旅立った。きっちりと仕事を片付けた国主を、側近たちは奇妙な顔で見つめる。延麒六太もそのひとりだった。腕を組んだ六太はじろりと尚隆を睨めつけて問うた。
「──何企んでやがるんだ?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「──仕事を終わらせたってことは、疚しいことを考えてやがるんだろ?」
「疚しいことなど何もないぞ」
尚隆はにやりと笑った。無論、疚しいことなど何もない。六太はまだ胡乱そうな顔をして睨んでいる。そんな六太に片手を挙げ、尚隆は意気揚々と蒼穹に舞い上がった。
北東に位置する雁国は、存外に雪が少ない。それでも、山間の土地ではそれなりに雪が積もる。尚隆は、雪を楽しめる場所を、以前から幾つか選んでいた。さて、どこに伴侶を連れて行こうか。尚隆は思案する。
陽子は蓬莱育ち。首都である東京出身だという。東京に雪が積もることはあまりない、とも言っていた。しかも、こちらに流れ着いたのは巧国だ。巧は慶よりも暖かい国で、冬にも雪が降ることはほとんどない。
雪が積もっている様を見たならば、伴侶はきっと翠玉の双眸を見開いて驚くのだろう。そんな姿を想像すると、笑みが零れる。そして、伴侶は尚隆を見上げ、ありがとう、と笑みを見せるのだろう。
女王の威厳を一時手放し、子供のように笑う伴侶を見たい。そして、誰にも遠慮なく、見つめあい、華奢な身体を抱きしめたい。あの輝かしい瞳に、他の何も映らぬ距離で見つめられたい。
尚隆はそんな己の本音に苦笑した。年若き伴侶よりもよほど子供染みている。しかし。
愛しい伴侶は隣国の王。しかも、公に認められた関係ではない。
慶の民は、己の麒麟に恋着して道を失った前国主を忘れてはいないのだ。そして。
生真面目な女王は己の置かれた立場を決して忘れない。ひたむきに見つめる目とは裏腹に、いつも尚隆の腕に身を預けることを躊躇う。それは、金波宮を離れても変わることはなかった。だからこそ。
伴侶を寛がせたい。
心からそう思う。国が落ち着きを取り戻したのなら尚のことだ。無私に国に尽くしてきた女王を休ませてやりたい。雁へのお忍びを止めなかった使令も、そんな気持ちだったのだろう、と尚隆は推察していた。
(高岫の近くにも、緑が増えていたよ)
伴侶の嬉しげな顔を思い出す。そう、慶国は少しずつ立ち直ってきている。だからお前も少し休め。しかし、そんなわけにはいかないよ、と胸の中の伴侶は口を尖らせる。それならば。
陽子は雁の大きな都市しか知らないだろう。確かに雁は街や港など大きなものを造ることが得意だし、商業も盛んだ。しかし、根幹の産業は農業である。しかも、冷涼な土地に米は育たない。民は麦を植え、牛を飼い、生計を立てる。国を富ませているものは、地からの収穫なのだ。
へえ、そうなの。そう言って目を丸くする伴侶が目に浮かぶ。そういえば、初めて堯天に連れて行ったときにも、そんな顔をしていた。そして、知らないことを知りたがり、とことん質問してきた。
素直で純真な女王に、己の国を見せたい。ただ雪を見せるだけではなく。
そうすれば、女王は己の目に映る雁の国を感嘆とともに語ってくれるだろう。尚隆は微笑する。
雪が積もり、牛がいる廬にしよう。
そう決めて下見に出かけた。山間の、針葉樹の林の傍近くにある牛飼いの廬へ。その廬の外れには、無人の丸太小屋がある。尚隆はそこをたまさか訪れる隠れ家として使っていた。
久々に訪れた小屋はこざっぱりと片付けられていた。入り口の土間には薪となる木材が積み上げられ、暖炉の傍には薪の入った箱が置かれている。厨房も手入れせずに使えそうだった。尚隆は満足げに頷く。
手入れを頼んでいる廬人に、冬に使う旨の書簡を送ろう。そのときには、礼を弾んでおこう。そう思いながら尚隆は帰途に着いた。
やがて冬がやってきた。各地から雪の便りが届く。王都関弓にも初めて雪が積もった頃、尚隆は鸞を用意させた。さて、忙しい女王を、どう誘おうか。しばし考え、尚隆は笑みを零す。それから、ゆっくりと鸞に語った。
「雪を見に来い」
2008.01.16.
「123456打記念」長編(!?)「燠火」第1回をお届けいたしました。
如何でしたでしょうか。
春が訪れた地域もおありでしょうが、北の国はまだまだ冬の日々が続きます。
しばし北国の冬の世界にお付き合いくださいませ。
2008.01.28. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま